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紅日



 夏油くんはいつも私にそれらしい口実を用意しておいてくれる。
 
 学校という閉鎖された空間で人目を気にして自分からは一歩も動けなくなる弱虫のために、大義名分を与えてくれるのだ。ちょっと持っていてと渡されたヘアゴムだったり、後で説明すると言ったプリントだったりは、私を夏油くんのもとへと連れて行ってくれる甘い口実だ。切れ長の涼やかな目をにこりと細めて手招きする夏油くんのもとに辿り着くことができるとほっとする。数少ない特級呪術師であり、背が高くて格好良くて女の子に優しい夏油くんと話していると、あの子は誰、と同性からのヒリヒリするような視線を感じる。夏油くんと一緒にいたいから、彼から撒かれる甘い口実をわたしはいつも待っていた。
 本当は人目があろうとなかろうと、彼のそばにいたかったし誰になんと言われてもにこにこと二人で話していたかった。けれど私と夏油くんはなんの用事もなくて二人でいることができる間柄ではなかった。私と彼は友達であり同級生であり、四人のクラスメイトがいる中で二人きりで過ごすことはできない。彼が私を可愛がってくれていることはわかる。五条くんから絶対に感じない種類の視線を、夏油くんからは感じるのだ。それがどういう種類のものか名前をつけることがどうしても出来ないのは、今の関係が居心地が良くて、これ以下になることに耐えられないからだ。
 そう、耐えられない。失恋なんて絶対に嫌。失くしてしまうくらいなら、叶わなくていいの。


「名前、休んでた分」

 泊まりがけの任務から戻り、ちょうど休み時間だった教室に顔を出すと机の前に大きな黒い影がかかる。夏油くんから差し出された青いノートは何度か借りたことのあるものだ。受け取ったノートの表紙をそっと撫でてから、背の高い彼を見上げるようにしてお礼を言う。

「ありがとう…忙しいのにごめん」
「私がいないときはいつも名前が取っておいてくれるじゃないか」

 にこり、と人の良さそうな笑みを浮かべた夏油くんに見惚れていると、少し離れた席から五条くんがにやにやと揶揄ってくる。「傑はほんと名前に甘いよなぁ」とにやりと笑われ、私は首から上が熱くてたまらなくなる。どうかそういうことを言うのはやめて、そっとしておいて欲しいと願っても五条くんに通じたことはない。

「そりゃね。悟と違って可愛いから」

 そう言いながら五条くんの隣の席に戻っていく夏油くんは、慌てた様子もなく涼やかだ。やっぱり彼は大人だなと思いながら、借りたノートを手に持ったまま目で追っていると一部始終を見ていた硝子に大きくため息を吐かれてしまった。そのため息の中身が『見る目がない』ということであるのは、女子寮で散々言われているのですぐに分かってしまう。決してやめろとは言わない優しい友人に目線を投げると、アメリカ映画の女優のように気怠げに手で払われてしまった。 

 私たちの日常はそんな風に出来ていた。そんな毎日が卒業までずっと続くと思っていた。卒業してからも呪術師になるものだと思っていたし、そうなっても夏油くんと変わらない距離感でいられたらいいのになと、少し大人になった私たちを夢見ていた。

 けれどそうはならなかった。どこかでボタンをかけ間違った私たちは少しづつ軋みながら、誰にも聞こえない悲鳴を上げながら、同じようでいて全く違う日々を過ごすことになるのだった。

 少し、様子がおかしいとは思っていた。けれど五条くんも夏油くんも類稀な強さを持っていたから私なんかでは比較にならないくらい多くの任務を請け負っていたので、だんだんと顔を合わせる日が少なくなっていた。それでも彼は律儀に私の取っておいたノートを受け取りに来たし、時にはノートを取っておいてくれたし、お土産を買って帰ってきてくれたりもした。この前すきだって言ってただろ、なんて彼氏みたいなこと言って五条くんのいないところで渡してくれた。そういうときの夏油くんは疲れているはずなのに、どこにもそれを感じさせずに和やかに私に接してくれた。怪我の多い私を心配し思いやってくれたし、包帯の巻かれた脚を見ながら自分が傷を負ったかのように顔を顰めて見せた。

「どうして、名前が傷つかなきゃいけないんだろうね」

 その言葉は後から考えれば、彼の抑えられなくなった衝動の一端だったように思う。私は、自分が鈍臭いからだと、見当違いな答えを返した気がする。それを聞いて夏油くんがどんな顔をしていたのか思い出そうとしても、どうしてもその顔は逆光の中で物を見るように細部がぼやけてしまった。


 そのうち、彼は呪術高専から姿を消してしまった。


「傑になんも言われてない?」

 五条くんに握られた腕がみしりと軋む。いつもはおちゃらけた五条くんの冷え冷えとした硬い声が鼓膜を揺らす。力なく首を振ると、掴まれていた腕から力が抜けて、もう五条くんの手は私の腕に置かれているだけになっていた。

「名前、こっちおいで」

 淡々とした硝子の声は、動揺する五条くんと私を包むように響く。泣き疲れた目で硝子を見ると、彼女の細い腕に抱きしめられる。身長の変わらない硝子の肩に顔を埋めて、止まらない涙をお揃いの黒い制服に注いでいく。背中に回った硝子の手がゆっくりと撫でてくれる感覚だけは、涙に溺れてもちゃんと感じられた。

 どうして、なんて知りたくもなかった。
 私はただ、彼のことを誰よりも好きな自信があったのに、彼のことを理解できていなかったことが悲しかった。そして、お互い言わずとも特別だと思っていたのに、何も言わずに姿を消したことが裏切られたようで酷く苦しい。五条くんも動揺していたし、硝子だってショックを受けていた。けれど二人の感じる動揺と私の感じる悲しみは別物だとなんとなく思う。それでも私たちはみんな等しく、夏油くんに置いていかれた。

  しばらくして、硝子の前に夏油くんが現れた。その後、五条くんも夏油くんに会って話したらしい。それを聞いた時に、私はこれも彼の撒いてくれる口実なんじゃないかと思った。なんで私の前には現れないのだろうか、と。それは会いにきて欲しいってことじゃないのか。硝子にも、五条くんにも会ったのに、どうして。
 そんな予感めいた考えがぐるぐると私を取り巻くようになった。そう思うと、もう他の考えは浮かばなくなってしまう。

「名前、どこ行ってたの」
「任務だよ、五条くん」
「…あんまり心配かけんな」

 本当は任務の後に、補助監督の迎えを断ってふらふらと夏油くんの残穢を探していた。呪力の強い彼の残穢に触れれば、彼の元に連れて行ってくれるような気がする。そんなことをしていると五条くんや硝子に言えば絶対に反対されるだろう。二人の困った顔を見れば、私達が分かり合えないという現実を提示されるようで苦しい。夏油くんもこんなことを思ったのだろうか。

「ごめんね」

 口の中で音にせずに呟いた謝罪は、心配してくれた同級生には届かないけれど、それでよかった。


「夏油くん…」

 ようやく彼の残穢を見つけた時、私の胸は久しぶりにどくどくと興奮したように迅っていた。あぁ、彼だ。彼の呪力だ、と懐かしく愛おしく思いながら目を閉じる。人通りの多い歩道から一本内側に入ったその場所は、ひんやりとしていて人気がない。探して欲しかったんだよね、と確信めいた予感を持って目を開く。振り向いた先に、探していた夏油くんの姿があったことにほっとして、小さく微笑む。彼は無表情を崩して、困ったように笑い返してくれた。

「どうして来ちゃったんだ」
「だって、私にだけ会いに来てくれなかった」
「…大人しい君はいつでも私が手招きしなきゃ自分から来ないじゃないか。なんで今回はこんなに勇気を出しちゃうかな」
「夏油くんが探して欲しかったんでしょ」

 黒い制服を着ていない彼は、諦めたように笑うと「おいで」といつもしてくれていたように私を呼ぶ。すぐそばまで駆け寄ると、初めてその体に抱きしめられた。身長差のある大きな体に覆い隠されるように包まれると安心する。そろりと彼の背に腕を回すと、抱きしめる力が強くなる。

「それに、まだノートを返していなかったから」

 頭上で彼がくすくすと笑う。その声はあの教室でよく聞いた彼のものと同じものだ。たとえ彼がたくさんの人間を殺めたのだとしても、呪術界を敵に回した男だとしても、私にとっては同級生の夏油くんという人間でしかない。この世でたった一人の愛おしい人だ。

 そんなことを口実にして、私は彼の手を取ったのだった。


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