呪術 short story



夜更けのブーケ



 私という人間の価値が、一夜にして地に落ちたのは他でもない御三家の一つである五条家の当主のせいであった。

 
 呪術師の家系に生まれ、強くも弱くもない呪力と術式を持ち、女としてそれなりに美しい容姿に恵まれた私という人間の使い道は選ぶまでもなく決まっていた。どこの家に嫁がせるのが一番良いかという話は、私が術式を持っていることが分かるとすぐに親族が話し出したことだ。庭の花を切り取ってどの花器に飾ろうかと相談するように婚約者を選ぶ大人の視線に、胃のあたりが急に痛くなったのをよく覚えている。少し膨らんできた胸や、男女を区別する大人の見えないルール、そして異性から向けられる視線がこれまでと種類が違うものになったことに、言いようのない気持ちの悪さを感じた。この体は、私という存在は、人ではなく「女」として見られ、求められ、それでしか価値を認めてもらえないのだ。そのことに反発しながらも、逃げ出す勇気も言い返す強さも持たない私は、彼らの理想通り大人しく生きていくほかなかった。

「名前と申します」
 はじめて顔を合わした婚約者は、神様に選ばれた特別な男の子だった。女の私でも見惚れてしまうほどに美しい白髪と青い瞳にほう、とため息が出てしまう。きゅっと引き結ばれた薄い唇がむずむずと動いていたけれど、結局彼は何も言わず私の隣に黙って座っていた。大人たちが作り物めいた笑顔を浮かべて、嘘臭いほど明るい声で話す間、二人並んでただただ時が過ぎるのを待っていた。彼の瞳の色に合わせて作られたのだろう、青地に白い花の模様が細かく入った着物は重たくて座っているだけでも疲れてしまった。飲まず食わずに加えてきつく締められた帯のせいで貧血になりそうになっていると、急に隣に座っていた彼が立ち上がり、無言のまま右手を差し出してきた。大きさのあまり変わらない薄い掌におずおずと手を重ねるとぐいっと引っ張られた。
「庭にいる」
 私を立ち上がらせながらぴたりとお喋りの止んだ大人たちに一言言い放つと、彼はしゃんと背を伸ばして障子で仕切られた部屋から連れ出してくれた。正座していた足が痺れてもつれそうになりながら、堂々と歩く彼の背中を追いかける。
「お前つまんなくなかったわけ?」
「つまらなかったです」
「だよなぁ。ばばぁ共がピーチクパーチクうっせーし」
 肩越しに視線だけでこちらを振り返った彼は、年相応の男の子に見えた。さっきまで隣に座っていた神様みたいな美しい男のではなくて、生意気で勝気な光を青い目に湛えた彼はずっと親しみやすいように感じる。
「さ、悟さま、どこに行くんですか」
「さぁ。適当に歩いてるだけ。お前の顔色良くなったし、向こうの庭覗いてみようぜ」
 しんどかったことに気づいてくれていたのだ。彼が気にかけてくれていたのだとわかると、たまらなく嬉しくなった。繋がれた手が解けないように、私は返事の代わりに彼の手をもう一度しっかりと握り直した。


 しかし、私たちの関係は唐突に終わりを告げた。透き通るような青い瞳と白皙の美しい相貌に、隠す気のない嘲りを浮かべながら五条悟は私を掌一つで這い上がれないほどの地の底へと突き落としたのだ。

「婚約なんて前時代的なもん破棄だよ、破棄」
「悟様、ご冗談を…名前とは昔からの、」
「今の当主は俺だから。昔の取り決めは知らねーよ」
 彼と私の婚約は親同士が決めたものではあったが、彼は顔わ合わせて以来この婚約に何も言ってこなかったはずだ。私には選ぶ権利も拒否権もなく勝手に決まったことであった。しかしあの当時五条家の当主ではなかったとはいえ、彼には、五条家には選ぶ権利があったはずだ。六眼に無下限呪術の組み合わせを持って生まれた美しい跡取りのもとには、数え切れないほどの縁談が持ち込まれたであろう。その中から私が選ばれたことは、女という生き方でしか価値を持たせてもらえない私にとって唯一の救いであったのに。
 そんなこと、きっと彼には知るはずもないことだろう。それでも私は自分に与えられた蜘蛛の糸を断ち切られた心地がした。


「あれ?君ってもしかして、悟くんの元婚約者の子?」
「禪院様」
「たしか名前ちゃんやっけ、えらい別嬪さんやのに残念やなぁ。五条家に反故にされたら、呪術界では縁談決まらんやろう」
 京都の呪術高専に身を置いていると、嫌でも御三家の人間とは顔を合わすことになる。金色に染めた髪を指先で弄りながら、禪院直哉は言葉とは反対に至極愉快そうに笑う。この男は御三家の中でも一等たちが悪い。禪院という名門を背負い、次期当主と目される彼に楯突くような人間はいない。私にはただ黙ってこの災難が通り過ぎるのを待つほかない。何を言われても、顔に出してはいけない。
「俺がもろたろか? 妾になったらそこらの呪術師の家嫁ぐよりよっぽど贅沢させたげるで」
「…私などにはもったいないです」
「ふうん。行くとこなくて泣いて頼んできたら考えたげるよ」
 耳元で一段落とした声で囁くと、禪院直哉はにこりと胡散臭い笑顔を浮かべて明るい声に戻る。

「ほな、また名前ちゃん」

 去っていく背中を見送りながら、詰めていた息をそっと吐き出す。彼とは反対方向へと歩きながら、いつまでも消えない柵に体が重くなったように感じる。
 五条悟に婚約を破棄されたのはすべて私のせいであり、一族に恥をかかせた女など二度と敷居を跨ぐなと喚いたのは実の父だった。父に頼まれるまでもなく、私だって針のむしろのよなあの家には二度と戻りたくなかったし、出来るだけ静かに生きて行きたかった。それでも元来の決断力のない性格からか、呪術師意外の職業につくという選択ができるほど思い切ることもできず、結局私は京都に拠点を置いたまま呪いとともに生きていた。呪術と関わるということは結局私の人生を狂わせた五条悟のテリトリーで生きることを意味する。それでも私は外の世界へ踏み出すことができなかった。己の身に纏った呪力は、私に女としてしか価値を与えてくれなかった名字家から受け継いだものであり、それを生業にするほかないことが情けなかった。けれどここならば、呪術師として私を必要としてくれる人がいるから、高専を卒業した後も静かにこの仕事を続けていた。


 生家を含めた御三家や呪術界の上層部を毛嫌いしている五条悟は、滅多に京都には来ない。来たとしても私のような一般の呪術師が顔を合わすことはないはずだった。婚約を破棄された後、彼とすれ違ったことも遠くで見かけたこともなかった。だから狭い世界ではあっても、ヒエラルキーのトップに君臨する彼とはもう二度と会うことはないのだと油断していた。

「ねぇ君、ちょっと案内してくれない?なんかいつもと違う部屋に呼ばれちゃってさぁ」

 長身を屈めて大きな革靴を脱ぐ彼の前を通りがかったのは本当に偶然だった。任務の報告書を出し終え、2日ぶりの家に帰ろうと玄関口に向かっていた時、視界に入ったその人が誰であるかを認識すると無意識に体が固まっていた。それが悪かったのか、五条悟はちょうどよかったとばかりに声をかけてきた。白髪を逆立て十代の頃よりもさらに大きくなった体躯に真っ黒な呪術師らしい服装を纏った彼は、あの頃とは打って変わって軽薄な口調で話し続ける。
「久々に来たけど京都校って昔ながらのままだねーどこもかしこも古めかしくて似たような造りだしわっかんないよ」
 ぺたぺたと来客用のスリッパを鳴らして歩く彼の目は、黒い目隠しで覆われていて昔何度か側でみたことのあるあの空色の瞳は見えなかった。彼には私が誰か、分からないのだろうか。その目には私が映った瞬間などなかったのか。記憶にも残らない出来事だったのか、といまだにこの男の柵に囚われ続けている自分が愚かでやるせなくなる。

「あれ、もしかして都合悪い感じ?君……」

 茫然と立ちすくんでいると、流石に不審に思ったのかぐっと腰を曲げて顔を覗き込まれた。目があっているのかどうかもわからないまま、黒い布を見つめていると徐ろに長い指がその布をずり下げる。真っ白な長い睫毛を瞬いて、大きな目を見開いた彼は急にがしっと私の肩を掴む。青い瞳と真っ正面から視線が合うと、途端にその場から逃げ出したくてたまらなくなり必死に身を捩る。
「名前?…名前だよね」
「は、離してくださいっ」
「お前今まで…」
「離して、お願い……」
 自分でも驚くほど弱々しい、泣きそうな声だった。震える声に躊躇したのか、掴む力の緩んだ腕からさっと抜け出すと一目散に走った。胸が苦しくてどうにかなりそうだ。走ったせいにはできないほど早鐘を打つ心臓が痛かった。しばらくして後ろを振り返ると、追いかけては来ていないようでようやく足を止める。膝が笑ってしまい、うまく立ち止まることもできずふらふらとよろめきながらゆっくりと息を整える。
 随分と雰囲気が変わっていた。最後に五条悟に会ったのは、婚約を破棄された時だったからお互い呪術高専の学生だった。あの頃の彼は触れるもの全てを焼き尽くすようなぴりぴりとした空気を纏っていた。怒りとも憎しみとも違う、大きなエネルギーを持て余していたのだろう。私はそれを受け止めることも、いなすこともできなかった。だから彼は、私をーーー。
 そこまで考えたところでぎゅっと目を閉じる。過去のことを考えるのはやめよう。許婚だったのはもうずっと昔のことだ。大人になった私たちはもう二度と関わることのない関係だ。

 特級呪術師で、御三家の当主で、この世界で一番強い人。

 私は彼を愛していたわけではない。ただ、親に決められた人だから結婚するのだろうと思っていただけだ。婚約破棄を恨んでいるわけでもない。きっと彼とはうまくいかなかったと今ならわかる。自我の強いあの人に、私のようなただ大人しいだけの優柔不断な人間は合わないだろう。遅かれ早かれ彼との生活は破綻し、名ばかりの妻となるか、愛人を気にする日々が待っていたはずだ。結局私の価値など、どこにもなかったのだ。女であることでしか認められなかった私は、結局それすらも持っていなかったのだろう。
 どうやって家に帰ったのか覚えていないけれど、気づくと自宅のドアを閉めていた。かちゃんと音を立てて鍵を閉めると薄く塗った化粧もそのままに、任務に出かける前と何一つ変わらない寝室のベッドに潜り込む。頭まですっぽりと布団を被って目を閉じる。過去の出来事が次々に浮かんでは消えていき、眠りに落ちる直前まで彼の瞳の色が目蓋の裏にちらついていた。


「やぁ、名前。奇遇だねぇ」

 突然の再会をはたしてからというもの、五条悟は何度となく私の前に現れた。任務先で、京都の高専で、ついにはお気に入りのカフェまでやってくる始末だ。以前まで何一つ連絡などなかったというのに、昔ながらの友人のような気やすさで接してくる男の対処法など知らない。深く考えるのをやめて小さくお辞儀を返すと、当然のようにテーブル席の向かいに腰を下ろす。長い手足を持て余すようにソファ席で足を組むと、店員にカフェラテとケーキを注文する。ブラックコーヒーがなみなみと注がれたマグカップを両手で持ちながら、これを飲み切るまでは彼と会話をせねばならないのかと気が重くなった。ミッドセンチュリーの家具で整えられた店内に流れるゆったりとしたジャズの音を二人で聞いていることが不思議だ。私たちが顔を合わす時は決まって昔ながらの格式高い和室ばかりだった。お互い和服に身を包み、こうして向かい合うよりも、雛祭りの人形のように並んで座らされていたものだ。ーーーあの頃から随分と時間がたった。

「ここのケーキ、ホテルを引退したパティシエが作ってるんだって。名前は食べたことある?」
 過去に引き戻されていた私と違い、五条悟は常連のような顔をしてくつろいでたようだ。サングラスをかけた目元から時折あの青い瞳が覗く。いつのまにか二人を挟むテーブルの上に運ばれていたカフェラテのカップにぽちゃんと砂糖を放り込み、彼は優しげな笑みを浮かべる。この人はこんなに穏やかに笑うようになったのだな、とまた昔の不機嫌な顔ばかりしていた頃を思い出してしまった。
「一度、フルーツタルトを食べました」
「いいね、タルトも好きだな。今度はそっちも試してみるよ」
 いただきます、と行儀良く軽く手を合わせてからパクパクと生クリームののったケーキを食べ進める様子を黙って見守る。あの日は動揺してしまったけれど、こうして落ち着いてみれば彼から逃げる理由はなかった。婚約を破棄されたことはもちろん傷ついたし、二度とあんな思いはしたくない。けれど、あの窮屈な家を出てこうして一人で好きなことをして過ごせるようになったことを思えば、悪いことばかりでもないのだ。

「なんで急に、って思ってる?」
 途切れた会話の沈黙をそのままにぼんやりと思考に耽っていると、ケーキを食べ終えた五条悟が少し前のめりに座り直して尋ねてきた。
「まぁ、そうですね。あの日から、いえ、その前も悟様から連絡をいただくことはありませんでしたから」
「いいよ、悟で。うーん、だよね、僕も若かったし……婚約なんて上の決めたことに縛られたくなかったんだよね。とはいえ、もう少しやり方を考えるべきだったかな、って。あれからちょっと反省したんだよ」
 反省なんて一番似合わないことを、本当に彼がしたんだろうか。嘘をついているようには思わなかったが、昔のことを今更、と反発してしまう気持ちの方が大きく、ただ黙って手元のコーヒーの水面を見つめる。
「名前も僕もお互い恋してたわけじゃないだろ?親の決めたことだし、仕方がなく、って進んだ話だったじゃん。だから婚約破棄してやれば、好きな男と付き合ったり、結婚したりできるだろうって簡単に思ってたんだ。僕はそうでも、女の子の名前はちょっと違っただろうね、今ならわかるんだけどさ」
「分かる…?分かるわけないです」
 カップをテーブルに戻して、ゆっくり顔をあげる。サングラスの黒いレンズの奥を見つめて、溢れそうな思いをなんとか言葉にしようと唇を開く。我慢しようとしても震える声に、はじめて彼の顔に焦りが浮かんだ。
「貴方には分からない。何をしても許される五条家の嫡男と、その婚約者であること、女であることでしか価値を認めてもらえなかった私じゃ何もかも違うんですっ!」
「名前…名前にそれしか価値がないなんて本気で思ってるの?」
「そうですよ、物心ついてから私はずっと誰かの妻になることだけを目標とさせられてきたんです。嫌だったけど、それでも何もないよりは良かった。貴方が私を傷つけようと思ってあんなこと言い出したんじゃないことは分かってます。でも結果それで、わたしは…」
「傷付いたんだよね。ごめんね、って言葉だけで謝っても仕方がないのは分かってるんだけど。でも、本当にごめん」
 
 その言葉を聞いていると、急に目の前に昔の小さな悟様の掌が見えた気がした。気分が悪くなっていた私の手を取って連れ出してくれた少年時代の彼。婚約を破棄すると言い出した時の彼も、あの時と同じだったのだろうか。息の詰まるところから私を連れ出したつもりだったのか。それは結局私をさらに苦しめる結果になってしまったけれど、彼はただ助けようとしてくれていたのだろう。
 許すとか許さないとかではないのかもしれないけれど、謝罪の言葉がすぅっと胸に入ってきた。覆水盆に返らず、というように過去は変えようがない。受け入れて進む他ないのだ。その強さを持ち合わせていなくても、時は勝手に流れてしまう。

「もう、いいです。どちらにせよ終わったことですから…」
「許さなくていいからね、僕のこと。恨んでも憎んでもいいよ。それと、名前には俺の婚約者ってこと以外にもちゃんと価値はあるって分かって欲しいかな」
 テーブルの上に戻したカップを持ち上げて、コーヒーを飲むと少し落ち着いた。感情的になっていたことが恥ずかしくなって、誤魔化すようにもう一度口をつける。
「ないですよ価値なんて。私は貴方に婚約破棄された女だって呪術界隈では有名ですから。そんな人間と付き合いたがる男性はいませんし、いたとしても……思い出したくもない」
「うーん、じゃあ名前も僕みたいにいろいろやらかしちゃえばいいんじゃない?もっとすごいことで噂されたらいいんだよ」
「あいにく私には特級の肩書も、御三家の肩書もないので」
「そういうことじゃなくてさ、例えば僕と付き合ってみるのはどう?」

「は?」

 突拍子もない提案に思わず素の声が出る。なにをどうすればそんな提案が出来るのだろうか。昔から彼のことを理解できるとは思わなかったが、ここまでではなかった。
「恋人になっちゃえばさ、婚約破棄だ何だって話もみんな忘れちゃうでしょ」
「そんなわけないです。余計噂されるじゃないですか。そもそも私は貴方のこと好きじゃないですし、悟様だってそうでしょう」
 なんとか言葉を返し、大きな手を動かしながら外国人のように話す五条悟を真っ直ぐ見返す。付き合えばデートもしなくちゃいけないし、連絡もまめにとらなきゃいけない。手を繋いだり、キスやそれ以上のことだってするんだろう。それをなんとも思っていない人間同士で出来るはずがない。
「なるほど、好きじゃない、か。まぁ確かに。でも僕は名前のこと嫌いだと思ったこともないよ。名前だってそうじゃない?」
「…婚約破棄するって言い出された時は流石に嫌いでしたよ」
「あっはっは!そりゃそうだよねー!でもさ、今からでもお互い好きになれるかもしれないだろ?」
「私にはそんな価値ないって…」
「あるよ、名前には価値がある。もちろん女って意味でも魅力的だよ。可愛いし、姿勢もいいし、声とか視線とか上品でこういう場所でもすぐ目を引いちゃうし。それに呪術師としてだってよくやってるよ。推薦ないから上がれないだけで準1級いけるでしょ。家から追い出されても、逃げずに戦ってきたお前に価値がないわけない」

 私のことを突き放した張本人のくせに、なんで私のこと救い上げるようなこと言うんだろう。返す言葉が見つからず、黙り込んでしまった。表面的なことを褒められたって、悔しいはずなのに少し喜んでしまっている。

「責任とって付き合えだなんて頼んでません」
「とりたいの。責任。遅くなったのは、悪かったと思ってるけど」
「…信じられません」
「いいよ、今は信じてくれなくても。とりあえず来週デートしよう」
「えっ」
「初めてだし、京都散策にする?行きたいとこあればどこでも付き合うけど」
 五条悟はにこりと笑みを浮かべてスマホを触り始めると、テーブルの上に置いたままの私のスマホをとんとんと長い指先で突く。

「まずは連絡先の交換しようか」
「…本気なんですか?」
「マジ。そもそも今日だって名前が休みだって補助監督経由で聞いたから、任務終わりに急いで新幹線飛び乗ったんだから」
「……でも、付き合うとか、そんなの」
「ちょっと前まで婚約してた仲だろ? 破棄しなかったら今頃セックスだってとっくに終わってるよ?」
「セッ…!? そ、そんな言葉こんなところで言わないでください!」
「名前はお嬢様だもんねーごめんごめん。まぁまずはお試ししてみようよ、僕のこと」
「…絶対別れないってヒステリー起こすかもしれませんよ」
「いいよ、そこまで執着してもらえるなんて嬉しいね」
「浮気とか受け入れられないですよ?」
「大丈夫、大丈夫!」

 軽い返事に眉を顰めながらも、私の指先はスマホのロックを外してた。
 もう一度、差し出された彼の手をとってみよう。随分大きく、分厚くなった男の人の手を、もう一度だけ握ってみよう。私に価値があると言ってくれた人を、少しだけ信じてみようと思う。



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