異郷

よく知る瞳

「そんな、困るよ。夏油くん……」
「どうしてですか、荷物運ぶだけですよ」
「で、でも…」
「いいから。資料室まで付き合います」

 放課後の夕陽色に染まった廊下の奥から聞こえてきたそんな会話に顔を上げると、傑がダンボールを女の腕から持ち上げているところだった。また愛想振りまいて、と半ば呆れながら見送ろうとしたが、相手の女の顔を見て足を止める。野暮ったい服に分厚い前髪、胸も尻も特別大きくない、どこにでもいそうな地味な女だ。確か、彼女は補助監督だったはずだ、とあまり人の顔を覚えていないながらもぼんやりとした記憶を辿る。傑がにこやかな笑みを張り付けて愛想を振り撒くのは、ヤりたい相手だけだと思っていた。後輩だとかOGだとかの綺麗な女には、いつもの仏頂面を嘘くさい表情で隠してホイホイと持ち帰ったり連れ込んだりしているのを何度も見てきた。だから傑が声をかけるのはそういう感じの女だけだと思ったのに、どういう風の吹き回しだろうか。見慣れない光景に首を傾げている間に、廊下の奥へと2人の後ろ姿は消えていった。


「なぁ、お前趣味変わったわけ?」
「なに、藪から棒に」
「だから、女の趣味だよ」
 人より大きめの耳に長い髪をかけながら傑は僅かに眉を寄せた。一日の終わりに解かれた髪は肩を超え、初めて会ったときよりもずいぶんと長くなっていた。
「特に変わったつもりはないけど、何。誰か狙ってるの?」
「別にぃー」
 傑は特に気にした様子もなく、両手で握ったコントローラーを動かす。テレビ画面の中でアクションを決めるキャラクターの動きを目で追いながら、ならあれは何なんだ、と口に出す前に画面には大きく「KO」の文字が浮かぶ。

「はは、また私の勝ち」

 細い目を線のようにして笑う傑に、もう一戦申し込む。いつもと変わらない親友の様子に、地味な女のことはどうでもよくなっていた。


 そうして、どうでもいいこととして俺の記憶から消された頃、不意に彼女と再会した。任務先への送迎車の中で今日の対象呪霊について説明を読み上げる女の目元がバックミラーに映る。重たい前髪に、化粧っ気のない顔はいつかの廊下で傑と消えていった女だ。

「あ」

 唐突に漏れた俺の声に、びくりと細い肩を揺らして紙面から顔を上げた女は、遠慮がちにこちらを振り返る。
「どうか、されましたか。五条さん」
「あー……いや、何もない。続けて」
 後部座席から背中を浮かせて、彼女の容姿を近くで眺めれば本当にどこにでもいそうな女だった。特別に綺麗ということもない、平凡な容姿。きちんと上までボタンの締まったシャツと黒いスーツは彼女の個性というものを完全に消し去る効果を持っているようだ。一つだけ気になったのは、その目がどこか傑に似ていることだった。真っ黒な瞳は、どこまでも深い水のようでその仄暗さは、親友の目にも時折浮かぶものだった。
「……五条さん、聞いてます?」
「え?」
「……もう一度、ご説明します」
 いつの間にか彼女の観察に夢中になっていたようで、上半身だけ後ろに捻った体勢の彼女の顔には困ったような苦笑いが浮かんでいた。
「被害状況としては、」
「なぁ、それより名前教えて」

 みょうじなまえ。補助監督として5年目だという。元は呪術師だったという彼女の呪力は、弱々しいもので何かしら後遺症が残った結果なのだろう、と勝手に推測した。
 呪霊の消滅を確認した後、帰路に付く車内で質問を繰り返すとなまえは何でも答えてくれた。興味を持ったのはその目の暗さだというのに、案外彼女との会話は苦にならずすらすらと続いた。そういうところが傑にとっても良かったのだろうか。気にはなったが、同級生と寝ているのか、という質問だけは流石にできなかった。もしそこで肯定の返事が返ってきたら、俺はどういう反応をしたのだろう。

「つーか、腹減った」
「国道沿いなので……ファミレスかラーメン屋くらいしかないですが、寄りますか?」
「ファミレス、寄って。パフェとかあるとこがいい」
「……パフェ」
「ケーキでもいいけど」
「わかりました」
 バックミラー越しになまえと目があった。ほんの少しだが彼女が笑っている。目尻に寄った皺が、程なくして消える。彼女にはパフェを提供するファミレスに心当たりがあるのだろう、しばらくしてウィンカーを出した車は、吸い込まれるように駐車場へと止まった。
 
 季節のフルーツパフェ、チョコレートケーキ、そしてコーヒーを2つ。値段の割にうまいものだった。なまえは向かいの席でコーヒーを飲みながら、報告書を書いていた。伏し目がちになると、細い睫毛が扇状に広がって目元に影を作る。化粧をしていないように見える肌は、所々青白い血管が透けて見える。なまえより綺麗な女は大勢いる。けれど、彼女の楚々とした美しさの欠片のようなものは見飽きなかった。

 そういう彼女の細かなパーツを黙って観察しながら、甘いものを食べる時間は一度で終わらず何度か続いた。
意識したからだろうか、任務でなまえが補助監督になることが増えた気がする。今までその存在を気に掛けていなかっただけかもしれないが。任務の後に甘いものが食べたいと毎度のように言い続けていると、何も言わなくともなまえはファミレスへと寄り道してくれるようになった。
 外見だけで寄ってくる女達のようにぺらぺら喋らないなまえとは大した会話はしていないはずなのに、言わずともこちらの要求に応える姿は忠犬のようだ。
「なぁ、なまえって犬みたいだって言われない?」
「……言われません」
「あ、そう。じゃあ俺だけの犬な」
「……わたし犬じゃないですし、五条さんのお世話は任務だけで十分です」
「はぁ?お前に世話されてる覚えないけど。つーかお前が犬だって」
 相変わらずブラックコーヒーしか頼まずにノートパソコンを開いて仕事をするなまえは、少しだけ画面から顔を上げると困ったような顔で嫌です、と珍しく反抗してきた。つまり彼女の中では俺が犬なのだろうか。ムカついたので「ワン」と低い声で吠えてやった。