2nd anniversary

あの日のいつか

 過去を思い出させるきっかけは、嗅覚だと何かで読んだことがある。視覚や聴覚よりも本能的に脳の奥に仕舞い込んだ記憶の蓋をこじ開けるのだろうか。そうであるなら、理性と知性を持ち合わせていようとも、人も動物の一種であると思わされる。結局のところ、いくら取り繕うとも我々は本能で生きているのだろう。


「七海さん、美味しくないですか?」
 七海の向かいの席に座った補助監督のみょうじなまえは、くりっとした丸い目をきょとんと瞬いた。七海よりも幾つか年下の彼女は、口の周りに齧り付いたBLTサンドのソースを付けたまま話し続ける。
「五条さんから七海さんは洋食の方がお好きだって聞いてたんですけど、もうちょっとちゃんとしたお店の方がお好みでしたか?」
「いえ、美味しいですよ。特にこのサラダなんて新鮮でハーブも多くて好みです」
「よかった。ドレッシングも自家製みたいですし、砕いたナッツまでのってるのいいですよね。都内のお洒落なカフェならあれですけど、地方でこれはなかなかないです」
「そうですね。パンの方もしっかりした生地でいいと思います」
 二人の間にはそれぞれランチセットのカスクート、BLTサンドをメインとしたプレートが置かれている。プレートの半分ほどを占めるルッコラやトマトの彩り豊かなサラダを頬張りながら、七海の感想に満足したのかみょうじは大きく頷いた。七海は若干の居心地の悪さを隠すように、表面がパリッとした香ばいカスクートを一口齧る。



「七海、今度みょうじと一緒に出張なんだってー? あの子面白いから楽しんできなよ」

 そう言って任務前に長身に見合った人よりも大きな手で七海の背中を力任せに叩いてきた、全く尊敬できない先輩のお気に入りだという補助監督がみょうじである。あの五条悟に気に入られるのだから、きっと自分とは合わないタイプであろう。特段誰と一緒だから嫌だとか良いだとか、そういった好き嫌いを仕事に持ち込むつもりはないのだが、五条の一言でみょうじなまえとの今回の任務は始まる前から些か憂鬱であった。
 そんな七海の心配を他所に、みょうじなまえは一般的な自己紹介を簡単に済ませ、任務についての事前資料を手渡すと至極スムーズな運転で七海を任務地へと運んでくれた。アクセルとブレーキのタイミングが合うのだろうか、みょうじの運転は心地よく東京から数時間かかる車中は快適だった。

 呪霊の発生場は随分と古い寺院だった。みょうじも車を降りた時からその気配を感じ取ったのか、ふっくらとした頬に緊張の色を浮かべていた。
「では、帳を下ろします。七海さん、お気をつけて」
「はい。よろしくお願いします」
 真っ黒な帷が彼女と自分の間にカーテンのように垂れ下がる。本心からであろう、心配の言葉を受け取って軽く首を回しながら呪いの気配を辿っていく。密度の濃い呪霊の気配に等級間違いだけは勘弁して欲しいと思いながら七海は呪具を握り直した。
 
 結果として、呪霊の数こそ多いものの、窓からの事前報告とほぼ相違ない呪いだった。時間こそかかったが、七海は無事に無傷で任務を終えた。

 帷が上がったいつもの世界から入った時と同じ場所、同じ姿勢のみょうじがにこやかな笑顔を向けていた。思わず笑い返しそうになり、慌てて意味もなく右手で自身の頬を撫でた。なんのてらいもなく、心の内を露わにする彼女につられそうだった。この人はあの五条悟のお気に入りなのだ。下手に関わらない方が安全だ。ただでさえあの人には学生時代からウザ絡みされるのに、これ以上ネタを提供してどうするのだ。
「お疲れ様でした」
「少々時間を取られました」
「そんなことないです、流石七海さんです」
 みょうじの言葉はわざとらしさもなく、真っ直ぐに七海に投げかけられた。呪術師は褒められたくてやっているわけでも、誰かに感謝されたいわけでもない。それでも嫌味なく賞賛されたことは素直に嬉しいものだった。


「もうお昼も過ぎてしまいましたが、どこかで昼食を食べてから戻りましょう。お腹空きましたよね」
「……まぁ、そうですね」
 ゆっくりと走り出したセダンを運転するみょうじは迷いなくハンドルを切る。20分ほど走らせたところで洒落た煉瓦造りの建物が見えてきた。緑の蔦が壁の半分ほどを覆っている。
「ここのランチにしましょう」
「はぁ、別にどこでもいいですよ」
「そんなことないです。せっかく食べるのなら、美味しい食事の方が良いに決まっています」 
 真面目な顔をして断言するみょうじは、ここのレストランは自家製のパンを使っているのだと言う。いつの間に調べたのだろうかと七海は不思議に思いながら、駐車場に停車した車から降りる。ランチタイムの終わりに差し掛かっていたおかげか、すぐに席に案内された。窓際のテーブル席に向かい合って座ると、みょうじはいそいそとメニューを広げてじっくりと検分し始める。伏目になった目元に睫毛の影が広がる様子をそっと眺めながら、七海も同じようにメニューを広げた。

 ランチセットをそれぞれカスクートとBLTサンドをメインにオーダーした。大きめのサンドイッチに齧り付いたみょうじは小さめの口に精一杯詰め込んでモグモグと咀嚼している。補助監督としてはしっかりしているように思えたが、こうしていると見た目よりもさらに幼く見える。無邪気というか、衒いがないというのか。呪術師という捻くれ者ばかり周りにいるせいだろう、みょうじのような素直なタイプは珍しかった。
「いつ、調べたんです。この店」
「任務の連絡がきて、七海さんとだって分かった時に。道路の確認と一緒に近隣のお店も調べるんです。食べてから戻ることも多いですし、できるだけ美味しいお店の方が良いじゃないですか」
「はぁ、そうですかね」
「そうですよ、食べることは生きることですから。私たちの体は食べたものでできているんです、だからうんと美味しいものを食べた方が良いに決まってます」
 そうだろうか、と七海は残り半分ほどになったカスクートを眺める。これが血肉となっていることは間違いないが、そこに美味いか不味いかが関係しているだろか。食べられるものならば、なんであれ体力回復には役立っただろう。だが七海とてわざわざ不味いものが食べたいわけではない。親切というには些かお節介ではあるが、みょうじの心配りに素直に感謝することにした。
「わざわざありがとうございます。ここまでするのは業務外かと思いますが、確かに良いランチタイムが過ごせました」
 意識的に頬の筋肉を緩めて控えめに微笑む。そういえば、任務前からずっと表情が硬いままだったなと七海は自身の痩せた頬を指先で撫ぜた。
「いえ、そんな。私、呪力がほとんどないので呪霊なんて祓えないですし、補助監督として出来ることはなんでもしたいんです。五条さんには大笑いされましたけど、術師の皆さんのお腹から幸せに出来れば少しはお役に立てるかなって」
 みょうじが肩をすくめと、ふっくらとした頬に笑窪ができる。努力の方向性がおかしいというか、気の使い方が斜め上というか下というか。補助監督という仕事柄か、控えめな質の人間が多い中で、ある種の積極性を持って術師と関わろうとするみょうじは確かに異質であった。それが五条悟のいうところの、面白い、なのかもしれない。きっとみょうじは七海でなくとも、ふわりと垣根を乗り超えて術師のためと言って関わるのだろう。まっすぐな瞳で見つめて、てらいもなく笑いかけ、そうして食事に誘うのだ。
 それが、それだけのことがどうしてかあまり面白くないと感じた。

「お腹いっぱいです」
「そうですか」
「はい。美味しいもの食べると幸せになれますよね」
「単純な人ですね、あなた」
「よく言われます」
 今度こそ呪術高専に向かって走り出した車内には、二人がカフェから連れてきた香ばし小麦の香りと、コーヒーの豊かな香りが漂っている。七海は左腕でドアに頬杖をつきながら、ハンドルを操作するみょうじの横顔を眺める。仕事を終えた後とは思えないほどリラック出来ていた。だからだろうか、思いつきがするすると言葉になって出てきていた。
「では、今度は私のおすすめの美味しいものを食べに行きませんか」
 口角を上げて前を見ていたみょうじが驚いた顔で助手席を振り向いた。今日一日七海を振り回していた相手を驚かせたことに気分が良くなり、珍しく勤務時間中だというのに自然と頬が緩んでいた。


「七海さん、どうしました?」
 彼女が行きたがっていたハンドドリップが売りのカフェは週末ということもありよく賑わっていた。街中にある最近流行りのシンプルな内装のこのカフェは、初めてなまえと任務後に立ち寄った山奥のあのカフェとはタイプが違う。それでも店内に漂う焼き立ての香ばしいパンの香りや、ぽとぽとと注がれる漆黒のコーヒーの香りは、なまえとの出会いを思い起こさせる。あれから何度、こうして彼女と食事を共にしただろうか。数えきれなくなった頃には二人の関係は同僚以上のものになっていた。
「いえ、あの日も貴方はサンドイッチに齧り付いていたなと」
「齧り付く…なんだか食い意地張ってるみたいに聞こえます…」
「その通りかと思いますが。ほら、またパン屑付いてますよ」
 七海が腕を伸ばしてなまえの右頬を指先で撫でる。子供のようにその手を受け入れるなまえの素直で少し抜けたところは出会った頃から変わらない。それが今では愛おしく思うようになった七海の心境はあの頃とは大きく変わった。
「七海さん、美味しいですね」
 なまえはランチセットのパンを片手に、にっこりと笑う。美味しいものを食べて幸せそうなその顔に、七海も頬を緩める。

 食事をするなら美味しいものがいい。素材にこだわって、手間と時間をかけられた、美味しいものがいい。それが自身の血肉となる。
 さらに言えば、一人よりも二人で食事をしたい。なまえと二人、今日は何があったのか、些細な出来事まで共有したい。それは自身の血肉にはならないが、なくてはならないものなのだ。