2nd anniversary

明日も明後日もその先も

 夜の帷の中で日輪刀を鞘に仕舞う、キンとした金属音だけがいやに大きく響いた。同じようにたったいま鬼の首を斬り落とし、赤い刀身を鞘に収めた杏寿郎の背中を横目で見ながら、重たいため息を吐きそうになるのをぐっと堪える。上空から舞い降りて来た鴉を左腕に留まらせると、濡羽色の美しい羽をそっと撫でる。鴉でさえもこの気まずい雰囲気を感じ取ったのだろうか、不思議そうになまえを見上げて首を右に傾けた。

 煉獄杏寿郎とみょうじなまえは鬼殺隊の同期である。杏寿郎は歴代の炎柱を輩出してきた名門の出身であり、同時期に入隊した隊士たちの間では飛び抜けた才を持っていた。初めは遠巻きにされていたが、彼の持って生まれた明るい人柄と、生まれを鼻にかけることのない実直な性格はすぐに皆に受け入れられた。親やすさと、実力を持ち合わせた杏寿郎は同期の中でも尊敬と憧れの存在になっていた。そんな杏寿郎がなまえ個人にとっても特別な存在になるのに時間はかからなかった。会えば心が弾み、ついその姿を目で追ってしまい、会えない間は毎夜寝る前に鮮やかな彼の髪色が目の奥ちらついた。
 勘違いでなければ、杏寿郎にとってもなまえはただの同期ではなく、特別な存在であるはずだ。目で追っているのは、なまえだけではない。幾度となく重なる視線は明確な言葉の形を持たなくとも雄弁だ。金環の連なった瞳から向けられる燃えるような熱量が孕んでいるものは、そう長く知らないふりを続けさせてはくれないだろう。
 そんな恋仲に発展しそうなほどに親密な関係の二人だったはずなのに、いまこの場を包む空気は殺伐としてひどく冷たい。

 普段ならば任務がうまくいったことを優し気な笑顔と明るい声で良かったと言ってくれるのだが、今日は一言もない。それならばなまえから杏寿郎に声を掛ければいい、そう思うのに、たったそれだけのことがどうしても出来ない。この意地の張り合いのきっかけはもうほとんど忘れてしまった。売り言葉に買い言葉。些細な言い争いが思いの外長引いた事は、きっとお互いに予想外の事態であった。

「報告書は俺が書く」

 業務連絡として口を開いた杏寿郎の声は、知らない人のように固く冷たい声に聞こえた。なんと返事をしていいか分からず、小さく頷くことしかできない。それでも杏寿郎には伝わったのだろう。彼はくるりと背を向けて元きた道へと足を向ける。歩き出したその背中は会話だけでなく、なまえ自身も拒んでいるかのようだった。
 まだ夜明けまでは数刻あるだろう時間帯に、一人で山の中に残るなど愚か者のすることだ。それでも滅の文字を背負った黒い隊服を追いかける気になれず、なまえは鴉の背中をもう一度撫でると木々の間から覗く夜空に向かって腕を伸ばす。不思議そうに主人の様子を伺いながらもばさりと大きな羽を広げて飛び上がった鴉を見送り、もうほとんど見えなくなった杏寿郎の背中へともう一度視線を向ける。

ごめん、と謝れば彼は許してくれるだろう。
杏寿郎、と呼び掛れば足を止めてくれるだろう。

 でも、なまえの乾いた唇は一向に開いてはくれなかった。一言も言葉にできないまま喉の奥がひりつくように熱を持ち始める。いい歳をして、子どものように仲直りすらできないのだろうか。情けなくて、目の淵に涙が滲む。泣くのは負けたような気がして、暫くして涙が乾いてから彼の後を追いかけようと、反対方向の少し拓けた木立の中で震える息を吐く。指先で目尻を擦れば、濡れた感触がした。夜の闇を照らすのは薄暗い月明かりだけで、なまえが流した涙は誰にも見られずに頬を滑り落ちたはずだった。

「なまえ」

 名を呼ばれると同時に、自分よりも大きな体に正面から包み込まれた。藤の花の香りを纏った隊服に鼻先が沈む。視界の端で揺れる鮮やかな黄金色の髪が、杏寿郎の腕の中であることを教えてくれた。

「杏寿郎……」

 涙声で呼びかけるとそれに応えるように、抱擁が強くなる。初めて抱きしめられた杏寿郎の腕の中は高い体温が心地よかった。頑なになっていた心が柔らかく溶けていく。自分でさえ解き方の分からなかっら固い結び目が、するりと緩むようだ。さっきまでどうしたって喉の奥につっかえて言えなかった謝罪も、今なら言えるだろう。なまえがごめん、言葉にする前に、杏寿郎の低い声が耳元で聞こえた。

「すまない……言い過ぎた」
「ううん、わたしが意地張って、杏寿郎は何も悪くないよ」
「もう、怒ってないか?」
 
 真っ直ぐな謝罪の言葉とは裏腹に、杏寿郎は少し体を離すと困ったような顔で眉を下げてた。いつもはキュッと上がった凛々しい眉が、こちらの様子を伺うように垂れているのが可愛らしく、思わず口元に笑みを浮かべていった。

「怒ってない。杏寿郎も怒ってない?」
「俺は最初から、怒ってない。ただ、君があまりに自分を顧みないから少し言葉が過ぎた。……俺は、心配なんだ」

 優しい目をした杏寿郎の顔には、寂しげな笑みが浮かぶ。

「君が、いなくなるんじゃないだろうかと任務のたびに思う。次に会えるのはいつだろうか、怪我を負ってはいないだろうか、酷い目にあってはいないだろうか。隊士としとしての実力を疑っているわけではないんだが、どうも君のこととなると冷静でいられない」

 困ったように目を細めて笑った杏寿郎の顔を見ていたら、せっかく止まった涙がまた溢れそうになるので、なまえはもう一度その逞しい胸に顔をつけてぎゅっと硬い体を抱きしめた。

「わたしも、同じことを思う。杏寿郎に明日も会えるのかなって。会いたいなって。だから、帰らなきゃって思うの。明日も、明後日も、その先もずっと貴方に会いたい」

 杏寿郎が小さく息をのんだ気配がする。抱きしめ返してくれる腕の力が強くなり、二人の間には一分の隙間もないほどだ。

「喧嘩などするものじゃないが、こうしてなまえの気持ちを知れたからには悪くないな」
「でも、もうしたくないかな」
「俺もだ。口をきいてくれない君との時間は辛かったし、これがなまえとの最後になどなったらと思うと……絶対に後悔すると思った」

 杏寿郎の腕の中は、夜の肌寒さを忘れるほど温かかった。火の呼吸を使う彼の体はその名の通り、熾火のようにじんわりとした温かな熱を放っているのだろうか。隊服越しに胸に耳を押し当て、規則的に脈を打つ鼓動に耳を澄ます。血潮の巡る、命の音。少し速いその音は、杏寿郎の身体から鳴っているのか、それともなまえ自身のものなのか。どちらであってもいい。
 見えない明日も、その先も、二人ならばこの音を繋いでゆける。