グッドバイ

さようならと胸の中に閉じ込めて

「凛」

直哉が私を呼ぶ声は、どこか密やかで青い竹林を揺らす風の音みたいに静かだ。任務から帰る途中、駅前の繁華街に響いた聞き間違えるはずない直哉の声に、深く考える前に反射的にぱっとに振り向いてしまった。相変わらず怜悧な顔に微笑みを浮かべる直哉を見つめながら、どんな顔をしたらいいのかさっぱり分からず薄く開いた唇を閉じることも出来ずにただただ立ち尽くす。ゆっくりとこちらに向かってくる和服姿の直哉は、東京の街中とは相容れない異物のようで背景から浮き上がって見えた。

「久しぶりやね」

怒っているのだろうか、蔑んでいるのだろうか、とその微笑みの後ろにある感情を読み取ろうとしたが、直哉は悠然と微笑むだけだ。そういえば彼の考えが分かったことなど一度もない、いつだって直哉は教えてくれたからだ。

「元気そうで安心したわ。急におらんようになるし、ほんまに死んでしもたんとちゃうかと思っててんで? 最後の任務で病院運ばれたって聞いてたしなぁ」
「ごめんなさい」
「ほんまに反省してるん? あかんやん、勝手におらんようになったら」

二歩の距離を残して足を止めた直哉は徐ろに手を伸ばすと、頬にかかる髪をゆっくりと耳にかけていく。「凛はすぐに忘れてしまうんやなぁ」と叱るような言葉をのんびりと口にするので、もう一度ごめんなさい、と返す。

「東京なんてゴミみたいに人の多いきったないとこにずっとおるつもりとちゃうやろ?」

言外に早く帰って来いと言われているのだと分かる。帰ったらまた、私のことを役立たずと罵る禪院の家で体を小さくして、時折来てくれる直哉だけを神様みたいに思いながら彼からの施しのような愛を欲しがるようになってしまうだろう。耳の淵を撫でる直哉の指にぴくりと肩を竦めると、機嫌良さそうに直哉の口角が上がる。

「ちゃんと覚えてるやん。ええ子やなぁ」
「直哉様…やめてください」
「そや、五条の坊えらい凛のこと気にってるみたいやね」

やっぱりどこで誰といるのか、既に禪院家にはばれていたらしい。
直哉は五条悟の名を何でもないように口にしたが、二人の間にあった二歩の距離が一歩詰められる。直哉以外の人と、そういうことをしていると彼の口から言われることがひどく後ろめたい気持ちにさせた。直哉にとって私は婚約者でもなんでもない、ただの都合の良い女なのだから、私が罪悪感を抱く必要はないのだと頭では分かっているのにまだ心の隅のどこかでこの人のことを自分の主だと思っているのかもしれない。

「誰とやっても気持ちようなれるようにしといて良かったなぁ。痛いのは嫌いやもんな。でも坊は凛がええかもしれんけど、凛はそうとちゃうもんな」
「そんなことっ、私そんな、」
「嘘が下手やね。何されても全部比べたやろ? 俺の教えたこととちゃうなぁと思ったやろ。凛のそういうやらしいところもほんまに可愛らしいな」

蛇に締められるような心地がする。
直哉の言葉が心の中をぐちゃぐちゃにしていく。涼やかにも見える微笑みを口元に刷いて、私の反応を全て記録するようにうっそりと両目を細める。その目から逃れたくてぎゅうと目を瞑る。

確かにその通りだった。

何をされても直哉のことを思い出した。五条さんが優しくしてくれればしてくれるだけ、それが直哉の触れ方に似てくるから、これはまた悪いことになるんじゃないかって、前みたいにひどくされた方が気が紛れた。手を握るのも、キスも、体の繋ぎ方も全部直哉のものしか知らないのだから、仕方がないと言い聞かせていた。この人といたら禪院から、直哉から逃げられるはずだと、そう思って手を伸ばしたのに、どこか悪い方へ進んでいるような気がしていた。

五条さんのそばにいると安心できるようになっていたし、あの広い家のどこになにがあるのかもうすっかり覚えていた。恋人になればいいのに、と軽く言う五条さんの本意は分からなくともあの人が故意に人を傷つける人ではないと分かっている。それでも期待してはいけない、不確かであってもこの奇妙な関係で居続けなくてはいけないと、私は自分自身に言い聞かせていた。五条さんが救ってくれたことで訪れたこの平安もいつか終わりが来て、私はまたあの屋敷に舞い戻る羽目になるのではないかと、目に見えない不幸の鋒が私の首元に掛かっている気がするのだ。ここで五条さんに全てを明け渡して、また裏切られたらもう一生立ち直れない気がした。

男から逃れるために男を利用しようとしたことが、そもそもの間違いなのかもしれない。それでも私は女であるこの身以外に差し出せるものを何一つとして持っていないのだ。


「なぁ、俺が可愛らしいなぁと思うのも、気持ちよくなれるように大事に抱いたるのも凛だけやで。凛だけ」

甘い毒を流し込まれるような心地がする。耳元で囁かれる言葉はどろどろとした愛の形をしたなにかであろう。嬉しいと思ってしまう自分がいる。この人のことが大好きだった。小さい頃からずっと、この人のことだけ見て、この人のお嫁さんになりたかったのだ。
その人が私だけだと言ってくれている。

「直哉様、でも、直哉様はわたしだけの直哉様じゃないでしょう…? 私だけの貴方になってくれないじゃない」

隣に立てるのは私じゃない。
彼の奥さんには別の人がなる。直哉の言葉を疑っているわけではない、きっと彼が大事にしてくれるのは私だけだろう。それでも、それでいいと思ってしまったらもうそこでおしまいだ。私はちゃんと生きていきたいと、彼の言う通りに頷くだけのお人形はもうやめよと、思ったのだ。
どれだけ直哉が好きでも、彼と一緒にはいられない。

「えらい欲張りになったな」

いつの間にか流れ出していた涙が、頬に触れる直哉の指先を濡らしていく。

「しゃあないやん、凛を妻には出来ひん。ほんまに凛はかしこいなぁ…でもかしこすぎたらやっぱり女はあかんな。五条悟に頼るんが一番やってゆうんもよう分かってるやん、禪院から離れたかったらそれが正解やね」

表情を変えずに直哉が顔を近づけてくる。

「でも凛は俺のやで。ずっと変わらへんから安心して五条の坊のとこでもどこでも行ったらええよ。死んだら冥土まで迎えに行ったるわ、待っとき」

直哉の目はひどく穏やかで、波紋ひとつない水面を覗き込んだみたいだ。口付けはとても短くて、唇に触れた淡い感覚よりも、直哉の肌から香るあの家の焚きしめられたお香の匂いの方が鮮明に残る。

「もう禪院の誰に会っても口きいたらあかんよ」

愛犬を撫でるように頬から顎先に滑る指先が皮膚から剥がれてゆく。くるりと背を向けて雑踏に歩き出した直哉の背中はすぐに見えなくなる。途端に寂しさとも恐れとも言えない不安感にかられて、足元から暗い穴に吸い込まれてしまいそうになる。

私は直哉のものだと言っていたけれど、きっとそれはそっくりそのまま言い換えられるのだと思う。
直哉はずっと私のものなのだ。
二度と会うことも触れることもなくても、彼は私にとっての永遠の初恋であり同じように直哉にとっても私はずっと特別な存在でいられるのだと思う。誰と愛を交わしあい、誰に抱かれてもそれはそのまま変わらない。

「さようなら、直哉様」

涙に濡れた頬をごしごしと拭ってもう見えない背中に向かって小さく呟く。
瞼が熱を持って重たく感じる。けれど頭はすっきりとしていた。駅前の喧騒が息を吹き返したようにその音を耳に届ける。たくさんの人が帰路につく流れに乗って、歩き始めるとどこかの店で流している有線の曲が聞こえてきた。最近よく耳にする流行りの歌の感傷的なメロディーに合わせて一歩一歩進む。

いつか今日の日を懐かしく思い出せるのだろうか。
不確かだった愛を確かめられた日を。
別離を選ぶことができた日を。


冥土まで縛りつけようとする直哉の言葉を思い出して、地獄絵の中に佇む彼を思い浮かべる。黒い炎が燃え盛る中、私は差し出された手を取るのだろうか。