1stanniversary
ファイター

「名前さん、こっちを向いて」
「は、恥ずかしいです」

長い髪を揺らして名前は首を振る。目線を下げてこちらを見てくれない名前の様子に、杏寿郎は負けじと手に入れたばかりの馴染みのない機械を抱え直す。

「大丈夫だ!どんな角度でも君は綺麗だ!」
「そんなことは…」

パシャ、とシャッターを切る音が響くと名前は大きな目をこちらに向ける。


「婚約の祝いだ」

名前の二番目の兄が杏寿郎にカメラをくれた。丸いレンズのついた精巧な作りの機械は、街中の写真館にある足のついた木箱のようなものとは随分と様子が違う。見慣れないそれを手にとって興味深く見ていると、彼は写真の撮り方を教えてくれた。ファインダーを覗いて絞りを動かし、シャッターを切る。中のフィルムを1枚撮るごとに回して、また撮りたいものを写す。

「ま、習うより慣れろ」

撮った写真を見せる約束をして、仕事だとさっさと名前の屋敷を後にする義兄を見送ると、早速このカメラを名前に向けたのだった。


「わ、わたくしなどよりも、もっと良い被写体があるはずです!」

名前は胸元に小さなくるみボタンが連なった水色のワンピースを揺らして部屋の隅に逃げてしまう。腰のところで結ばれた同じ色のリボンがふわふわと彼女の後を舞う。それさえも可愛らしいと、杏寿郎はまたシャッターを押していた。

「兄上は、綺麗なものや、大事なものを撮るといいと仰っていただろう」
「だからといって先ほどから私ばかりではありませんか」
「撮らせて欲しいのだが……そんなに嫌か?」

洋室の隅でカーテンの生地に埋もれるようにして、カメラから逃げた彼女を杏寿郎は上から覗き込むようにして逃げ場を無くす。壁についた自身の腕の間で、小動物さながら困った顔でこちらを見上げる名前は、紅のひかれた唇を小さく噛む。

「…嫌ではないのですが、その、恥ずかしいのです」
「どうして?君は写真を撮られることに慣れているだろう」

庶民と違い、彼女の家は裕福だ。洋館の通路や書斎の机の上には彼女の家族や、友人の写真がたくさん飾ってある。微笑んで写真に収まる彼女の姿は、緊張などしていないような自然な表情に見える。

「だって、杏寿郎さんの目が…」
「俺の目?」

胸元に引き寄せた両腕をもぞもぞと動かしていた名前は、ちらりと目を合わせると頬を赤らめる。可愛らしい表情に、またカメラを向けたくなる。何をしていても愛おしいのだから、どうしようもないと、最近杏寿郎は自身の胸に芽生えた気持ちを持て余し始めていた。手を繋ぎ抱き寄せて口付けてもこの愛おしく思う心を注ぎ切れないような気がするのだ。胸の内にどんどんと募っていく気持ちと、彼女に伝えられる気持ちが不均衡で、いつか胸の中が膨れ上がって破裂してしまいそうだと、夢のようなことを考えてしまう。

「…どこまでも、私の中に入ってくるから。じっと、その丸いレンズを通して私を見れば、私の中身まで写ってしまいそう」
「君の心のうちが覗けるのなら、この機械はすごい発明品だな」
「杏寿郎さんには、見られたくありません」
「俺は見たい。君が何を考えて感じているのか、全て知りたい」
「…きっと嫌になりますよ?男の方は、女性の愛を重たく感じてお逃げになるものです」
「君は本当に…、そんなことはありえない」

可愛らしい不安を消しさるように名前の額に唇を寄せると、彼女からもすり、と杏寿郎が纏った和服の胸元に頬を寄せてくれた。

「…よし、では今度は名前さんが俺を撮ってくれ!」

細い手を引いて窓の前に連れ出すと、両手にカメラを渡す。名前はしばらくカメラと杏寿郎を見比べていたが、こくんと頷いた。

「では、こちらに立ってください。お顔をもう少し、こちらに向けて…」

細い指がカメラのボタンを調整して、ファインダーを覗く彼女の眼差しが杏寿郎に刺さる。確かにこれは、愛しい人の視線が普段よりもまじまじと感じられるな、と思う。窓の前に立った名前さんの顔は逆光で見えない。パシャ、とシャッターの音が響く。

「…もう一枚、撮りたいです」
「…君だって俺と同じじゃないか」
「だって、杏寿郎さん格好いいんですもの」

はにかみながら、両手に持ったカメラを手放そうとしない名前と、残りの枚数を確認する。初めは二桁あった数字が5になっている。

「残り5枚か……折角だから後の5枚は二人の写真を撮らないか?」
「そうですね。杏寿郎さんとのお写真があれば寂しくありません」
「あぁ、俺も肌身離さず持っていよう」

名前が嬉しそうに頷く。写真は美しいものをそのまま残す。忘れたくないものも、消えて欲しくないものも、あのレンズを通して切り取ったものは時間すらも閉じ込めるのだ。名前が杏寿郎に向けてくれる愛しい表情を、全て切り取っておいておきたい。瞬きの隙間さえ残さず、杏寿郎が大好きなあの春のような眼差しまで余すことなく全て写すには、何千枚のフィルムがあっても足りはしないだろう。

「鈴音に撮ってもらいましょうか」
「そうだな、あぁ、それと一枚は鈴音と三人で撮ろう」
「まぁ…!それはいいですね!早速呼んできます」


くるりと背を向けた名前が部屋を出ていく足音を聞きながら、杏寿郎はカメラの縁を撫でる。
金属特有の冷たさを指先に感じながら、このレンズでこれからも名前の姿を撮り続けることが出来ればいいのにと思う。歳を重ねていく記録を二人で残し、いつの日か皺が刻まれた手で、今日の日の写真を手に取り二人で笑い合えたとしたのなら、どんなに幸せだろうか。

「これから長い付き合いになるのだろうな」

物言わぬカメラはまだ少し手には馴染まないが、ほんのりと杏寿郎の熱が移ったのだろう、もう冷たくは感じなかった。