1stanniversary
告白

「名前、いってくる」
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」
「あぁ。早く帰るようにするから待っていてくれ」
「…はい」

 見送りに立った玄関で主人である煉獄杏寿郎は溌剌とした声で別れの挨拶と共に私の頬を何度も大きな掌で撫でる。硬く、自分の指よりも節くれて太い指先が執拗なまでに頬や首筋を撫でるので、少し肩を引くと駄目だと言うように大きな瞳にじっと見つめられる。彼の言いつけ通り、屋敷の引き戸の内側で足を止めると、名残惜しげに頬から離れた手を振って門扉へと続く敷石を足早に進んでいく。その背が見えなくなるまで見送ってから、玄関扉を閉めて上がり框を登る。しんとした屋敷にほう、と安心からくる吐息を漏らしてしまった。

 煉獄といえば、鬼殺隊に関するものならば一度は耳にする名である。
隊士や隠ではない、藤の家の者であってもその特徴的な容姿と、勇しい後ろ姿を尊敬の目で見ないものはいない。かく言う私もその一人であった。時折我が家の藤の暖簾を潜る見目麗しい隊士のことを、陰ながら慕っていた。直接言葉を交わしたことは数えるほどであったが、彼の来る日は紅を指してみたり、香水を振りかけてみたりとほんの少しでも可愛らしく思ってもらえないかと苦心したものだ。目が合えば大きな瞳をほんの少し細めて笑いかけてくれる、それだだけで嬉しかったし、それだけで満足だった。
そんな些細なときめきを楽しんでいた私は、鬼狩りの彼とどうにかなることを夢見ていたわけではなく、ただほんの少しの楽しみであると自分自身に言い聞かせてきた。だから、まさか彼が私に結婚を申し込んでくるなどと、それこそ夢にも思っていなかったのだ。
彼ならばいくらでももっと良縁を結べるであろう。もっと美しい女や、気の利く女など彼の周りにはたくさんいるはずだ。名家の嫡子であり現役の炎柱が、ただの商家の娘を嫁に望む理由がわからなかった。父はなんという良縁だと喜んでいたし、鬼殺隊に恩義を感じている我が家から断ることなどできない縁談である。私は嬉しいというよりも、どうしてという疑問ばかりが胸に渦巻いていたが、そんなものは家と家の縁談にはなんの意味もなく、あっという間に祝言を挙げることになった。


「おいで、ここが君の家だ」

大きな手に引かれて踏み入れた立派なお屋敷は二人で暮らすには十分すぎるほどだった。生家と同じように家事や炊事をしようとすると、杏寿郎さんはしなくていいと笑顔で私の手を引いて自分の隣に座らせる。彼がいない間に掃除でもしようかと道具を手に持つと、慌てた様子で女中が止めにくる。はっきりとは言わないが、屋敷の主人にやらせてはいけないと言いつけられているのだろう。一日することもなく、ぼんやりと過ごすことなど慣れておらず、息苦しさを感じるようになり、なんとか炊事だけでもと任務帰りの杏寿郎さんに頼み込む。「杏寿郎さんに私の手料理を召し上がってほしいの」そう言って困ったように微笑むと、彼は円環の連なる眼を少しだけ細めて了承してくれた。

なんて贅沢な暮らしだ、良かったじゃないかと母には笑われた。祝言を見た身内や近所の人たちも立派なお家に輿入れて名前は幸せだねと、笑顔で祝いの言葉を投げてくれた。

それなのにどうして私は−−…

杏寿郎さんは、決して声を荒げたり暴力を振るような真似はしない。いつだって私の手を大きな手で包むように握ってくれる。褥の中では何度も愛していると囁いて、体の隅々まで愛撫し私の意識がなくなるまで抱いてくれる。大きな瞳はいつも私をじっと見ていて、微笑みを返すと彼の顔にも艶めいた笑みが浮かぶのだ。優しいひと。なのにその眼から逃げたいと思うのは、どうしてなのだろうか。

最初は確か、外出だった。

「杏寿郎さん、明日は街に出ようかと思います。そろそろ夏用の着物を誂えないといけません」
「街へ?」
「えぇ。杏寿郎さんはどんな色がお好きですか?青磁や浅葱がお似合いになりそう」

寝支度をしながら文机で書き物をしている杏寿郎さんに伺うと、墨を含んだ筆を置くと隣にやってきて大きな腕の中に抱きしめられる。軽い抱擁なのに、決して私では解けない力で胸の中に包まれると耳元でいつもは溌剌とした声をひそめて言い聞かせるように話すのだ。

「君の着物も選ぶのなら一緒に行こう。日中ならば任務の間に出かけられるだろう」
「でも、それではお休みが足りなくなってしまいます」
「大丈夫だ。君も一人より二人の方がいいだろう? これからも外出は二人で行こう」

そう言われてしまえば、断ることは悪いことのように感じてしまい頷くしかなかった。

彼は優しいが、強情な面もある。
時折、笑みを浮かべながらもはっきりと私の行動を縛る。外に出てはいけない、出る時は二人の時だけ。生家に帰ってはいけない。女中とは話してもいいが、庭師の男とは会話してはいけない。思い返せばどれもこれも、私の自由を奪うものばかりだ。それなのに、この約束を交わした時はそれほど疑問に思わなかった。彼の話術のせいなのか、それともあの炎のように刻々とその輝きを変える不思議な瞳のせいか。

そうして私はこの屋敷で杏寿郎さんを待つだけの女になってしまった。
一人になった途端、どうしてこんなことになっているんだろうと、ぐるぐると思考が巡るのに杏寿郎さんが家にいると、全部彼の言う通りにしてしまうのだ。それが少し、怖い。

杏寿郎さんが次々に贈ってくれる着物や小物でいっぱいの部屋を片付けるのが最近の仕事になりつつある。藤の描かれた友禅の着物も、飴玉のような帯留めも、良い香りの香水瓶も、どれもとても美しく綺麗だが、これらはこうして蒐集されるよりも使われることを望んでいる気がする。

杏寿郎さんにとっては私も、蒐集物の一つのようなそんな気がした。お屋敷という立派な箱に飾るための、お人形なのかもしれない。

そのうち誰とも口をきけなくなり、外に出なくなった私という人間は忘れ去られて、杏寿郎さんだけのお人形になってしまうのだろう。きっと彼はそうなって初めて、にこりと心から笑ってくれるのだ。