1stanniversary
サンキューマイガール

「杏寿郎」

名前の桃色の唇が自身の名を音にすると、とびきり甘やかに聞こえる。

「どうした、名前」
「これ、味見してみて」

女子高生の象徴のような紺色の制服を脱ぎ去り、きっちり第一志望に合格した名前は、春から大学に通っている。少し大人になった彼女は、理知的で穏やかな顔をするようになっていた。
相変わらず同じマンションに二人で暮らしていたが、社長令嬢である名前の送り迎えを中心に面倒をみる生活も少しづつ変わり始めていた。名前は学業のほかにも国際交流のサークルや、高校時代の友人たちとテニスサークルにも所属しているらしく、忙しそうにしている。水、木は迎えに来なくてもいい、と先月言われてしまい、平日の夜は少しばかり時間を持て余すようになっていた。
杏寿郎自身も以前よりも社長の補佐で呼ばれることが増えてきた。名前の帰宅に合わせて社長からの仕事を終えるようにはしているが、持ち帰り仕事がないわけではない。幸い一人でもどうにかできる内容を任せられているので、在宅でも問題はないのだが、名前が家にいる間は彼女のために時間を使うのが自分の仕事であり、またそうしたいと思うのだった。

味見だと名前の差し出した蓮華には、崩れた豆腐が艶やかな赤いたれをまとって湯気を立てていた。背を屈めて一口で口に入れるとぴりりとした辛味とひき肉の旨味が広がった。

「うまいな、この麻婆豆腐」
「よかった。でも料理ってあまり得意じゃないな」
「そうだろうか、最近よく頑張っているじゃないか」
「家政婦さんに教えてもらいながらだからね」

かちりとガスを切った名前と食事の準備をしながら、家政婦さんが作っていった副菜や作り置きの小皿をテーブルに並べる。近頃は名前も一つ二つ手伝って作るくことも増えて来た。家庭科の調理実習くらいでしか包丁を握ってこなかった名前は、まだ料理は慣れないようだが、嫌いではないようだ。

「「いただきます」」

名前の装ってくれた杏寿郎の白ごはんと麻婆豆腐は、彼女の皿に盛られたものの倍はあるのではないかと思う。本当にそれだけでいいのか、とついつい聞きたくなってしまうが、名前に言わせれば杏寿郎がおかしいのだそうだ。

「うまいな!」
「うん、おいしいね」
「…そうだな!」

にこりと笑った名前に、同じように美味しいと返事をしながら、以前の彼女よりも随分とよく笑い、よく話してくれるようになったことが嬉しいと思う。

広い家で親の与えるお金と物に囲まれ一人でぽつんとしていた彼女の孤高は、決して自ら望んだものではないのだ。本当はよく話す子で、人を思いやることのできる、人一倍孤独が苦手な女の子なのだと、杏寿郎は一緒に暮らす中で知っていた。

「そう言えば明日、新しい留学生の歓迎会があるの」
「じゃあ迎えは遅くしようか」
「んー…電車と徒歩で帰ってもいいんだよ?」
「だめだ。社長に君の安全を……」
「だよね、じゃあ1時間遅くして」

名前が最後に電車に乗ったのはいつだろうか。杏寿郎が彼女の執事兼ボディーガードとして仕事を始めてからは、乗ってないのではないだろうか。そもそもicカードも持ってないだろう、切符の買い方知っているのか、といろいろ気になったが、あまり言うと拗ねられてしまうのでぐっと我慢する。

「分かった。…その、もしかして友人と帰りたいとかか?」
「ううん。私の友達って、みんな同じような家の子だもん、お迎えあるよ。あ、でも最近彼氏ができた子がいて、彼女は彼の車で帰るかな」

彼氏、というキーワードに杏寿郎は食事の手が止まりそうになる。不自然な間を開けないように、へぇ、と軽く返事をしておく。

名前は以前よりも柔らかな雰囲気になった。あどけないものを残しながらも、女の子というよりはすっかり女性というのが相応しい。きっと、学内でも彼女のことが気になっている男子学生が幾人もいるだろう、と容易に想像がついた。

「杏寿郎、なにか変なことを考えてるでしょ」

半分ほど食べ終えた名前が、向かいの席からじっと黒い瞳で見つめてくる。

「いや、あー、…うん」
「はっきり言ってよ」

口をへの字に結んで問い詰める名前に苦笑いを浮かべて、こうなってしまうと絶対に話すまで納得しないだろうと隠すことを諦める。

「君は綺麗だ。だから、彼氏ができてもおかしくないなと思っただけだ」

むっとしていた名前は、きょとんと長い睫毛を瞬いて不思議そうに首を傾げる。

「どうして?私は杏寿郎のことがすきだから、彼氏なんて作らないよ」
「…そうなのか?」

照れもなくすきだと伝えてくれる名前に、今度は杏寿郎が目を瞬く番だ。

高校生の名前を一度だけ抱きしめたことがある。泣いている彼女の背をさすりながら、兄のような顔をして、名前のことが大事だと、そばにいると、恋人に贈る言葉を口にした。その時は若い彼女が、将来杏寿郎を選ぶことなどないだろうと思っていた。その場だけでもいい、名前が安心してくれればこの気持ちはそれで満足だと、そう思っていた。

「杏寿郎が言ったんじゃない。ずっとそばにいてくれるんでしょう?それとも、もうあの約束はなくなってしまったの?」

まるい瞳が不安げに揺れていた。思わず手を伸ばして、テーブルの上の名前の手を握る。自身の手にすっぽりと覆われてしまう、細い小さな手をぎゅっと握ると、名前も指先を握りかえしてくれた。

「なくなってないさ。俺はもうとっくに君のものだって、言っただろう」
「…でも杏寿郎ちっとも手を出してくれないから、あれは夢だったのかと思っちゃった」
「高校生には手を出さないさ」
「大学生なら?」

名前の目に浮かぶ期待とも不安とも言えない熱を、杏寿郎は困った顔で見返す。我慢するのはあまり得意ではないのだ。


出会った日のことを、今もずっと覚えている。
不安と寂しさを抱えて、泣くのを我慢した顔で立っていた君に、大丈夫だ、ここではなにも心配せずに息をしていいのだと知って欲しかった。

杏寿郎があの頃抱いた気持ちは、きっと今の彼女にきちんと伝わったのだろうと思う。