1stanniversary
ラブアトミック・トランスファー

 一年間付き合っていた男に浮気を疑われたことをきっかけに大喧嘩の末に別れてから三ヶ月も経たないうちに新しい恋人が出来た。
煉獄杏寿郎という字画の多い古めかしくも派手な名前の彼氏は、その名に負けない目立つ容貌をしたとても優しい人だ。出かける時は必ず家まで送り迎えをしてくれる。連絡もまめに返してくれて、会えば「可愛い」「名前が彼女で俺は幸せだ」「愛してる」とまるでハリウッド映画の俳優のように甘い言葉をくれる。同じ職場ではあるものの、接点も多くなく顔見知り程度の煉獄さんに急に告白された時は何か裏があるのだろうかと訝しんでいたが、今ではすっかり彼のことが好きになっていた。

 時計の針が頂点を過ぎた頃、もうすぐ二年目の更新時期が迫った単身者用のマンションにチャイムの音が響く。ぐつぐつと沸騰する鍋の火を弱めてから駆け足で玄関に向かい、ガチャリと扉を開ける。予想通り人付きのする笑顔を浮かべた煉獄さんは、休日仕様のラフな服装で片手を上げる。

「いらっしゃい、煉獄さん」
「お邪魔します」

今日は初めての我が家でのおうちデートということで、得意のイタリアンを御馳走する約束をしてた。スニーカーを揃えて脱いだ煉獄さんを決して広いとは言えないが、昨日から本格的に片付けてかなり綺麗になったリビングへ通す。

「今パスタ茹でてるの、ちょっと待っててね」
「あぁ、楽しみだ!あぁ、あと俺かどうか分からないのだから玄関のドアはちゃんと確かめてから開けた方がいいぞ?」
「あ…ごめんなさい、煉獄さんが来てくれるの楽しみだったから…つい」
「怒ってるわけじゃない、君に何かあったら嫌なだけだ」

困ったような顔で笑う煉獄さんの言葉にはい、と返事をする。彼の言う通り、盗撮だの女性への待ち伏せだのという怖い事件がつい最近も近所でもあったらしい。こうして心配してくれて煉獄さんはなんて優しいのだろうか。

「名前の部屋、緊張するな」
「そんなこと言わないで、出来上がるまでちょっと待ってて」

部屋を見回した煉獄さんにはソファに座ってもらい、まだぐつぐつと音を立てているパスタの大鍋の前に戻る。

「もうちょっとかな…」
「今日は生パスタだったか?」
「そう、知り合いのイタリアンのシェフから教えてもらったトマトソースととっても合うの」
「名前の好きな恵比寿の店か?」
「うん!あ、あれ…この話したことあったっけ…ごめんね同じ話してる?」
「先週デートで今日の予定を決める時に君が少し話してくれたろ?同じ話でも何回でも聞くさ。名前の声ならずっと聞いていたいからな」

一瞬胸に浮かんだ疑問は煉獄さんの甘い言葉で霧散していく。ずっと聞いていたい、だなんて普通日本人の男の人言わないと思う。煉獄さんは髪色も瞳も特徴的だし、もしかしたらイタリア人の血が入っているのだろうか。

そうしているうちにアルデンテに仕上がったパスタの湯を切り、白いプレートに手首を捻りながら盛り付ける。トマトソースとベーコンの食欲を唆る匂いに釣られたのか、煉獄さんもキッチンにやってきた。

「うまそうだな!」
「でしょう? これは自信あるの」

くんと香りを嗅ぐ仕草をした煉獄さんに後ろから肩を抱かれる。仕事の顔しか知らなかったので、スキンシップも多いのだと付き合ってから驚いた。

「あ、あぶないよ」
「んー? そうだなぁ」

屈むようにして頬に唇を寄せる煉獄さんからは石鹸とシトラスの爽やかな香りがする。ちゅ、と頬に口付けた煉獄さんが離れると少し寂しく思ってしまう。自分から言ったのに、彼のぬくもりに依存して来ているのかもしれない。

「フォークとナイフ、持って行こう」
「ありがとう、そこの引き出し・・・ってもう開けたんだ」
「あぁ・・・キッチンというのはどこの家も同じだな」

そう言ってカトラリーを二人分手に持った煉獄さんと、出来立てのパスタと作っておいたアイスコーヒー、サラダで昼食をとる。テーブルに向かい合って座ると、煉獄さんが自分の家にいるという違和感が喜びとちょっとした緊張をともなって胸に渦巻く。美味しい、と褒めてくれる煉獄さんは大盛りにしたパスタをどんどんその口に吸い込んでいく。

「はやく名前と一緒に暮らしたい」
「ふふふ、煉獄さん気が早いね」
「俺は本当にいつでもいいぞ?名前のことが大好きだし、ずっと一緒にいたい」

真っ直ぐにこちらをじっと見つめる煉獄さんの眼差しに、恥ずかしいが応えなくてはいけない。

「…私も煉獄さんのこと好き」
「はやく『大好き』になってもらわないとな」

照れが勝ってしまい少しもごもごとした口調になってしまったが、こんな言葉も彼氏しかいない空間なら私でも口にできる。

 外でのデートもいいが、家の中だと誰にも邪魔されずに二人きりでいられるのはいいなぁと思っていた時、遠くからパトカーのサイレンが鳴る。少しづつ近づいて来たそれが、マンションの前で止まる。なんだろうか、と二人でベランダから道路を見下ろし玄関口から中に入っていく警察官の姿を見守る。しばらく経ってもパトカーはマンション前に停車したままだったので、煉獄さんが少し話を聞いてくる、と言って部屋から出て行った。なにか事件だったらどうしよう、少し怖い。煉獄さんに早く帰って来てもらいたいとそわそわと食器を片付けながら待っていると、しばらくして煉獄さんが戻って来てくれた。

「なんだった?」
「ストーカー被害だそうだ。盗聴機があったとか…」
「えっ、そうなの? 盗聴なんて、怖い…気持ち悪いね」

急に自分の部屋が絶対安心の場所に思えなくなって来た。もしこの部屋にもあったらどうしよう、元彼がしかけた何かがあったりしたら、今日のこの会話も全部聞こえているのかもしれない。落ち着かない気持ちで部屋を見回していると、ぎゅっと大きな腕に抱き寄せられた。

「大丈夫か? 本当に名前さえよければいつでも一緒に住もう。こんなことがあったら一人で暮らすの不安だろう」

逞しい男の人の硬い体に頬を寄せると、強張っていた肩から力が抜けた。
確かに煉獄さんと一緒に住めば、こういう怖いことはないだろう。でも彼との付き合いは短いから、まだ何か知らないことが多いのではないだろうか。でも同じ職場だから身元はちゃんと分かっているし、なによりこうして私のことを大事にしてくれる。一緒に住む、という提案は全ての問題と悩みを払拭するとてもいい案に思えてきた。

「でも、同棲してもしお互いのこと嫌になったらいろいろ面倒でしょう?」
「俺は名前のことはどんなところも大好きだ。嫌うはずがない。名前は違うのか?俺のことまだ信用できない?」
「そんなことないよ、煉獄さんのことはとっても素敵な彼氏だって思ってる」

寂しそうに眉を下げる煉獄さんに慌てて言葉をかけると、ほっとしたように笑ってくれた。いつも気丈な彼の弱さを垣間見たようで、こんな人を少しでも疑ったことが申し訳なくなる。

「うん、そうだね。一緒に住んでくれる?」
「もちろんだ! ありがとう、名前……じゃあこのあと不動産屋に行こう」
「え、今から?」
「善は急げというだろう」

さぁ上着と判子持って来て、と煉獄さんに言われてリビングを出る。扉が閉まる前に煉獄さんが何か言った気がしたが、ちゃんと聞こえなかった。まぁいいか、大事なことならあとでまた話題になるだろうと急遽決まった予定に高揚した気分でクローゼットの扉を開けた。


「あぁやっと、やっと一緒に住める。名前のことはもうなんでも知ってるから嫌いになどなるはずがないのに…本当に可愛いな」

うっとりと目を細めた彼が私の部屋を感慨深げに見回してからコンセント近くの何かを取り外したことも、私はなにも知らない。