1stanniversary
2時間だけのバカンス

 春は教師にとって最も忙しい季節となることが多い。
新学期、新学年、新入生。ホームルームで生徒たちに向かって笑顔で口にする『新』という言葉とは裏腹に、学校という場所は、同じ箱に何度も繰り返し中身を入れ替えるだけの新しさとは無縁の職場だと感じる。
未成年の青々とした輝きを側で見守っていくことは嫌いではないが、自分自身はどんどん輝きを失い、くたびれていく様を見せつけられているようでゴールデンウィークが待ち遠しかった。一週間あまりの休暇は両親と旅行に行く他は、昔馴染みの女友達との定期的なお茶会が入っているだけで、時間はたっぷりある。撮り溜めたドラマを一気見し、ピザを取り、本屋で話題の漫画を大人買いしよう、そんな独身だからこそできる大人の休みを夢に見ながら、まずは目の前の報告書をどうにかしなくてはいけない。
最終の下校時刻を告げるチャイムは鳴ったはずだが、記憶にない。「さようなら」と規律正しく声をかけて手渡される部活動で使用した鍵の返却確認も全て終え、広い職員室を眺めると半分以上の同僚が姿を消していた。持ち帰り仕事にしたのか、要領良くさっさと終えたのかは謎だが、既に帰路についた同僚たちの顔を思い浮かべて羨ましく思う。デスクの上に開いたノートパソコンに再度向き合いながら、今日は何時で帰ろうか、と深いため息が漏れ出てしまった。


「名字先生」

ビリと空気が振動するような溌剌とした声の持ち主は、残業の疲れなど一切見せずに口元に微笑みを携えて隣のデスクの島から歩み寄ってくる。

「…煉獄先生、どうしましたか」

長時間のパソコンとの睨めっこで重くなった目の窪みを、ブルーライトカットのメガネを外してぎゅっと抑える。顔をあげた時には随分と近い距離にフワフワの癖毛を持つ少し苦手な先輩がいた。明るい髪色に、大きな猫目の社会科の教師は、この学校の人気者だ。その人気と比例するように、彼が受け持つ歴史科目の平均成績は県内でもかなり高い。つまり教師として優秀なのだ。私と違って。

「何時まで残るつもりだ?」
「…終わるまで」
「ふむ。だがもう俺と君で最後だぞ、そろそろ帰らないか」
「もうそんな時間ですか」

時計を探して視線を彷徨わせると、時計の針は随分と進んでいた。時間の経過を知ると現金な腹の虫が「きゅう」と鳴いた。

「ふっ、ははは、ほらそろそろ帰ろう。明日の準備はもう終えているのだろう?」
「…そうですね」

赤くなった顔でこれ以上会話を続けることも恥ずかしく、煉獄先生の言葉に素直に頷く。帰り支度を整えて職員室の施錠と点検を二人で行い、最終のチェックシートに「名字」と名前を記入する。よく見れば最終退出者の名前は、煉獄と不死川ばかりであった。彼の授業は毎度お手製の地図や、当時使われていたものを持ち込んだりと創意工夫が凝らされているそうだ。昨日は螺貝の音が隣の教室から響き渡ったことで、一時騒然としたが。職員室では見かけないが、社会科の準備室で毎日遅くまで残っているのだろうか。彼の人気の裏側を覗き見たような気がして、羨んでいた自分を恥じた。


「うわ、次のバス30分も来ないんだ」
「送って行こうか?」

ありがたい申し出だが、そこまで煉獄先生と仲が良いわけではない。遠慮しようと首を振るも、大きな目を細めてにこにこと提案してくる彼を無碍に断ることも出来ない。

「…駅まで歩きます」
「夜道の一人歩きはよくない!送ろう!」


 何度か同じやりとりをした結果、私が折れることになった。乗って、と運転席側から助手席のドアを開けてくれた煉獄先生の車はクラシックなセダンだった。くたびれてはいるものの、車内は綺麗に整頓されており彼の性格を表しているように思う。
ハンドルを握る横顔は、同僚のはずなのに知らない男性のようにも見えて、不覚にも少しときめいてしまう。そういえば男性の車に乗るなどいつぶりだろうか。恋人と別れたのも随分と前のことだ、とまた自身の行末に暗雲が垂れ込めて来た気がして、知らないうちにため息を吐いていた。

「随分がんばっているのだな、名字先生」
「1年生の担任になってしまいましたからね」
「まだ中学生と変わらないから大変だろう」
「そうですねー、元気が良過ぎて付いていけません。まだどういう子達で、ちゃんとクラスとしてまとまるのかも読めないですし」

先生わかーい、カワイーだなんて生徒たちにもちやほやされていた新任の頃とは違う。もう一人前、と同僚からも生徒からも見られている気がして、どんどん気を張るようになってしまった。生徒たちの黒々とした艶やかな瞳を向けられると、この子たちを導き、教えるという責任が重く両肩にのしかかる。

私はちゃんと出来ているのだろうか。

気がつけば車窓の景色をぼんやりと見つめて黙り込んでしまっていた。いけない、なに話してたっけ、と煉獄先生を見れば、信号待ちをしながら横目で優しく見つめられていた。

「君は良くやっている。なにも心配することはない」

欲しかった言葉をごく自然に投げかけられて、ひゅっと喉が鳴る。瞬きを忘れて煉獄先生に見入ってしまった。青になった信号でアクセルをゆっくり踏み込み加速していく車内から、一際明るい建物が目に入る。

「…え?あの、煉獄先生、駅過ぎましたよね」
「ははは!駅までとは言ってないからな」

感動して泣きそうになっていた涙が引っ込んだ。快活に笑う煉獄先生におろおろと言葉をかけるも、してやったりと楽しそうに笑われてしまう。

「あの、どこ行くんですか」
「どこだと思う?」
「…ホテルとか、嫌ですよ。訴えますからね」
「あははは、信用がないな!」

吹き出した煉獄先生からは、悪意は感じられない。もうどうにでもなればいい、とぽすんとシートに背を預けると煌々と輝く街のネオンが流れていく。

「ほんとにどこ行くんですか」
「当ててみようと思わないのか、つまらんな」
「…海?」
「へぇ、君は意外とロマンチストだな。海は今度にしよう、ゴールデンウィーク一日くらい空けられないか?」
「…空いてたらなんなんですか、海行くんですか」
「今のはそういう流れだろう」

前を向いたまま答える煉獄先生と二人で海に行くことを考える。この車で晴れた日差しの下をドライブして青い海に着いたら足元だけ白い波に晒して冷たいとはしゃぐ。それはなんだかとてもデートのようで、今私はデートに誘われたのだろうかと胸がもやもやと何かに埋め尽くされていく。

「考えときます」
「うん、考えておいてくれ」

平日の夜の街を煉獄先生の車で走りながら、これからどこに行くのかも分からないという不思議な状況が面白くなってきた。何やっているんだろう、大人になってからこんなことして。しかもデートに誘ってくるし、この人変な人だな、もう一度運転席に目を向ける。ぱちりと大きな猫目と目を合うと、ふっと瞳を滲ませて笑いかけられた。