1stanniversary
隣に

風が冷たくなり、日がどんどん短くなる秋は、何を見ても、何を感じても全てが杏寿郎に繋がってしまう。
美しく色づいた木々のような鮮やかな髪、燃える炎のように瞬きのたびに変わる煌めくような瞳。少しふっくっらとした耳たぶと、秀でたおでこ。
凛々しく整った顔立ちも、高い体温も、ほのかに香る白檀と男の汗の混じった匂いも、全部はっきりと蘇るのだ。


家が近く、母親同士が仲がよかったので、兄弟のいない私にとって杏寿郎はとても良い遊び相手であり初めての友人だった。それこそ二人の自我が目覚める前から、日の当たる縁側や風通しの良い畳の上で私たちは共に寝かされ、まだ言葉を覚える前から稚児の愛らしい会話をしていたそうだ。
杏寿郎の家は「武家」というものだと、物心がつく頃に教えられ、その頃から彼の父親が熱心に剣術を教え始めた。二人で遊んでいた時間は剣術の時間になってしまい、加えて鍛錬とやらをしなくてはいけないのだ、と困ったような顔で謝る杏寿郎を責めることは出来なかった。

このあたりで遊べなくなったことに子どもらしく癇癪を起こして、喧嘩でもしていれば、私と杏寿郎の繋がりは途切れていただろう。そうすれば、私は先日申し込まれた商家の子息との縁談に頷いていたのかもしれない。


「名前、こっちだ」

杏寿郎は剣術の合間にこっそりと家を出て我が家の庭先にやって来ては手招きをする。杏寿郎と遊ばなくなってからは、私も刺繍や本を読んだり習字の練習をするようになっていたが、彼がひょこりと顔を覗かせると母や女中の目を掻い潜って外に抜け出していた。
柔らかかった掌にいくつもの硬い剣だこを作った、節くれた男の子の手に引かれて近くの山道に踏み入ると、急に世界が二人だけのように思えてくすくすと笑い出してしまう。背の高い薄の草むらに囲まれた小高い場所が二人のお気に入りだった。

「ねぇ、どうして剣をあんなに一生懸命やっているの?」
「煉獄の家の子は皆、剣術を修めねばいけないそうだ」
「ふぅん。誰かをやっつけるの?」
「いや、俺はやっつけたことはないんだが、父上はなにかと戦っているらしい」

二人して分かったようなわからないような顔で、頷いた。杏寿郎のお父上は、少し苦手だ。いつも私のことを困った顔で見て、お話もあまりしてもくれないし、じっと見ているとどこかに行ってしまうのだ。
真っ赤な夕日が辺りを黄金色に染める頃、そろそろ帰ろうと言う杏寿郎にねだってふわふわにひらいた薄を一本、彼の小刀で切ってもらう。片手に掴んだ薄の穂を揺らしながら家の前まで帰ると、またな、と杏寿郎は煉獄家の方に駆けて行った。その背中が見えなくなるまで見送ってから、自室にこっそりと戻ると、ほとんど毎回母に見つかってしまい笑いながらため息を吐かれるのだ。

「名前は本当に杏寿郎さんがすきなのね」
「うん。だって杏寿郎しか遊んでくれないもん」
「杏寿郎さんは剣を修めねばいけないの、邪魔をしてはいけませんよ」
「邪魔してないよ、だって杏寿郎がこっちに来るんだもん」
「まぁ、そんな言い訳はいけませんよ。それにあなたもそろそろお花やお茶を習いに行かないといけませんね、あまり遊んでられませんよ」
「…はい」

良い子、と頭を撫でた母は、きっと杏寿郎が、煉獄の家が、なんのために剣術にその全てを懸けているのか知っていたのだろう。知っていたから、そろそろ私と杏寿郎の間に距離を置いて欲しかったのかもしれない。

春には桜を見に行って、持ち出したお団子を半分づつ食べた。夏は川に行って水遊びをして、浴衣の裾を盛大に濡らしてしまった。冬は雪うさぎをたくさん作った。どの季節も杏寿郎とこっそりと二人で出かけて遊んでいたが、どうしたって彼を思うのは秋なのだ。

母の言うがままに花道や茶道に加えて日舞まで習い始めた頃には、ひょろりと背が伸びてしまい、杏寿郎よりも僅かばかり背が高くなっていた。英語の勉強に飽きてぼんやりと秋晴の空に雁が列をなして飛ぶ様子を見ていると、杏寿郎が来ていると女中が呼びに来た。頻度は減ったものの、いつも庭先に顔を出す幼なじみをどうしたのだろうかと訝しむ。玄関に向かうと黒い袴に白いシャツを纏った杏寿郎がすっと背筋を伸ばして立っていた。道着や和服姿しか見かけなかったが、彼も洋装をするのだと驚いた。いつもとは違う服装に、胸がざわざわとして嫌な予感がした。

「どうしたの、杏寿郎」
「名前。挨拶に寄ったんだ」
「…どこかへ行ってしまうの?」
「あぁ。俺はやらなくてはいけないことがあるんだ。暫く帰ってこれないと思う」

杏寿郎の言葉に、体の血が重力に負けて足元に溜まっていくようで、くらりとした。黙り込む私を他所に、杏寿郎は言葉を続ける。

「身体に気をつけて、おばさんに心配をかけるなよ」
「杏寿郎…」
「最後にこれだけは約束してくれ。絶対に夜は外に出ないでくれ。どんなにあの薄畑に行きたくても、祭りの後に小川に寄りたくても、日が沈む前に家に帰るんだ」

どうしてそんな、小さい子に言うようなことを別れ際に言うのだろう。そんなことよりも言うことがあるんじゃないのか、とどう受け取って良いのか分からず狼狽てしまう。でも杏寿郎の目がいつになく真面目で、彼が本心で伝えたいことなのだと分かる。分かった、と頷くとどこかほっとした顔で、杏寿郎は片手を上げて玄関から出て行った。
その背中を見送ったものの、もう二度と会えないのではないかと漠然とした不安が押し寄せてきた。慌てて履き物を突っかけると、急いで追いかける。門扉を出て左右を見れば、左手の坂道の途中に鮮やかな金色の髪を見つける。

「杏寿郎!」

名前を呼べば、杏寿郎もすぐに坂を走って下って来てくれた。言いたいことがたくさんあるのに、その目を見れば何を言って良いのか分からなかった。少年の活発さはとうに鳴りを潜め、穏やかで芯のある目をするようになっていた彼を、引き止めることは出来ない。言葉の代わりに溢れ出る涙を浮かべ、じっと杏寿郎を見つめていると、ふいにその腕の中に抱きしめられる。

「いつでも、名前のことを想っている」

返事をする前にぱっと抱擁が解かれると、杏寿郎は背を向けて勢いよく坂道を登って行ってしまった。その背中が見えなくなっても、暫くその坂道から動けなかった。色づいた木々の美しさが、余計に彼との別れを際立たせるようで、両手で顔を覆って涙が止まるまで泣き続けた。


それから季節が何度も廻り、すっかりと大人と言える歳になってしまった。結婚を周囲から勧められ流ようになったが、頑なに首を縦に振らない私に家族は困っているだろう。
煉獄の家業が『鬼狩り』というものだと、母に教えてもらった。鬼を倒すために彼は剣術に励んでいたそうだ。鬼など本当にいるのだろうか、と思ったが最後に杏寿郎に言われた言葉がいやに真剣だったから、私はずっとあの言いつけを守っている。

家の前から左手に続く坂道を毎日見上げる。秋の季節は特に、あの美しい紅葉にも負けない鮮やかな金色の髪を揺らして杏寿郎が帰ってくるのではないかと、ほんの僅かな期待をしてしまう。何度も、何千回もその淡い期待は裏切られているのだが、それでも諦め切れないのは、杏寿郎が抱きしめたりしたからだ。そのせいだ、と自分自身に理由をつけて今日も私は坂道を見上げる。


やはり、今日も彼がいるはずはないなと家へ戻ろうとした時、ふいに遠くから人の声がした。じっと坂の上に目を凝らすと、黒い服の男が手を上げている。坂道を駆け下りてくる男の流れるような鮮やかな髪は、一度目にすれば忘れられない黄金色だ。
私は気づけば着物が乱れることも構わず走っていた。待ち焦がれた男の顔は、涙で滲んでよく見えない。坂道の途中で、ぶつかるように体を抱きしめられる。見慣れない黒い服も、大きくなった体も、とうに抜かされて頭ひとつ分も高くなった背丈も、どれも記憶とは違っていた。

「名前、ただいま」

見上げた杏寿郎は笑いながら泣いているような笑顔だった。その不思議な煌めきを宿した金環の瞳は、毎日頭の中に思い描いていた、昔のまま何ひとつ変わっていない。

「おかえりなさい、待ちくたびれたわ杏寿郎」