1stanniversary
シュガーソングとビターステップ

 スピーカーからチャイムが鳴ると、すぐに教科書を閉じる。

「今日はここまで。気をつけて帰れよォ」

 実弥の声を合図にざわざわと騒がしくなる教室は、返事とも言えない返事を返す。ノートに進行度をメモして足早に職員室に向かう。途中で顔を合わせる生徒たちが鞄を持って昇降口に駆けていく姿に、走るなよ、と声をかけるが「ばいばい実弥ちゃん」という挨拶で逃げられてしまう。いつもならば追いかけるところだが、ここしばらくは早く帰宅することが一番の使命である。

 帰り道に食材を買い足し、名前が使っている化粧水も手に入れなくてはいけないと、いつものスーパーマーケットではなく、駅前にあるショッピングビルをどう回るか算段をつけながら職員室のデスクを片付ける。持ち帰り仕事があれもこれもと仕事用のバックパックに書類を突っ込んでいく。最後にラップトップを入れると、同僚に「お先」と簡単に挨拶して職員室を出る。背中にお疲れ様、と煉獄からの大きな声の挨拶を受け、足早に階段を降り車へと向かう。ここ二ヶ月ほどほぼ毎日定時で帰る実弥には、それほどまに家に帰らねばならない理由があるのだ。


「ただいま」
「あ、おかえり実弥さん」

ひょこっとリビングのドアから顔を出す名前は、とことこと実弥の元にやってきて買い物袋を受け取ろうとする。その手に袋を渡さずに、実弥は名前に鋭い眼光を向ける。

「……おい、なんで起きてんだァ。寝てろって言っただろ」
「えっと、今日はちょっと体調良いみたいで」
「ほんとかぁ?」

脱いだ靴を揃えて、名前の様子に目を走らせる。確かに顔色もよく、無理をしている様子はない。背を屈めてこつんと額を合わせて熱を確かめると、名前がひゃあ、と可愛らしい悲鳴を上げる。

「熱あるんじゃねーか?」
「さ、実弥さんが顔を近づけるから……」
「……今更こんなんで照れんのか」

 名前との付き合いは決して短いものではない。それこそ最初は手を繋ぐだけでも胸がいっぱいになったものだが、キスをして抱きしめて、もう何度も数え切れないくらい体を繋げた今では、名前と二人でいることが実弥には日常だった。

「だって、恥ずかしいんだもん。それに熱いのは妊婦は平熱が高いからだよ」

 ぱっと顔を背けた名前は赤くなった頬を両手で抑えている。結婚しているというのに、いつまでも可愛らしい反応を返してくれる彼女が愛おしい。


 名前のお腹に新しい命が宿っていると分かったのはつい先月のことだ。病院でもらったエコー写真と母子手帳を見せられと時は、どれほど嬉しかったか。今もまだエコー写真の見方が分からない実弥であったが、名前のお腹には子供がいるのだと知ると、彼女が少し動くだけでも大丈夫なのだろうかと不安になった。何もないところでも躓いたり、足や腕に小さな擦り傷や打身を知らぬ間に作る名前は、お世辞にも運動神経が良いとは言えない。実弥が仕事に行っている間に何かあったらと思うと、いてもたってもいられず、なるべく早く帰るようになっていった。

 帰宅を迎えてくれた名前をソファに座らせて、ブランケットをかけ動くなよと言えば、彼女は困ったように笑う。

「実弥さんが優しいのは知ってたけど、こんなに心配性だったなんて知らなかったよ」
「安定期に入るまでは体調悪そうじゃねーか。名前はソファでじっとしてろ」

休日に立ち寄った本屋であれもこれもと買ってしまった出産準備の本や雑誌、妊婦向けのレシピ本なども名前よりも実弥の方が読み込んでいる。今日は少しマシだと本人は言っているが、料理の匂いで気持ちが悪くなっている様子を何度も見てきたので、なるべく自分で作るようにしていた。名前には食べられそうなものを聞いておいて、冷蔵庫にストックしている。今日の学校の様子や、名前の見たテレビの話を聞いている間に簡単な晩ご飯が完成した。

「食えそうか?」
「うん、少し食べられるかも」

 さっぱりしたものなら大丈夫、と言っていたのでトマトスープをよそってテーブルに持っていく。名前は動くなと言ったのにテーブルを拭いたり、食器を出したりと手伝ってくれる。そうして二人向かい合って食事をはじめるが、やはり半分も食べ切れずに名前は箸を置いてしまった。
名前は日によって口にできるものが違うらしい。悪阻の大変さは男の実弥には想像するしかないが、体験談などから少しで楽になれるような情報があればいろいろと名前と試していた。


「ごめんね、実弥さん。せっかく作ってくれたのに」
「気にすんな。冷蔵庫に入れておくから明日も試してみてくれよ、冷たいとイケるって話もあったしなァ」
「確かに。何も食べないのも良くないし、お昼に再トライしてみる」

くたりとソファに寝そべる名前の頭を撫でてやると、すりすりと掌に額を押し付けてくる。猫のような彼女の横に座って、まだ真っ平らな名前のお腹にも、恐る恐る手を伸ばす。

「パパが触ってくれてるよー」
「…動いたか?」
「ふふっ、まだ動かないよ」

 名前の手が実弥の手の上に重なる。実弥の掌の下には、確かに二人の子どもがいるのだ。そのことが、こんなに満ち足りて幸せな気持ちにしてくれるとは知らなかった。名前と結婚した時も、これ以上の幸せはないと思ったのに、またこんなにも幸福な気持ちになるとは。

「男の子かなぁ?実弥さんに似て格好良いかな?」
「女の子なら名前に似てくれないと困るぞ」
「そう?凛々しい勝気な女の子でも素敵だよ」
「お前に似た方が美人だろ。あ、名付けの本も買わねーと」
「早くない?男か女かも分かんないのに」
「どっちも買って、どっちも考えておけばいいだろォ」

実弥の提案にクスクスと笑って返す名前に、少し急ぎすぎているのだろうかと恥ずかしくなる。でもきっとこの子が生まれてくるまで、心配はつきないし、名前とお腹の子のためにできるだけのことをしてやりたいと思うのだ。

「パパは準備万端みたいだから、安心して生まれてきてね」

そう言って名前がお腹を撫でる。顔を上げた名前が、あまりに穏やかに微笑むので実弥は堪らなくなってぎゅっとその体を抱きしめるのだった。