1stanniversary
桜の雨

『義勇さん』

そう名を呼んでくれる柔らかな声を、愛おしいと思うようになるのに時間はかからなかった。

 少し世間知らずでおっとりした名前は、あの最後の戦いの後に移り住んだこじんまりとした屋敷の隣人だった。屋敷の手入れを始めた日に、隣の家の二階の部屋からこちらを覗く彼女を見かけた。軽く会釈すると、向こうも同じように頭を下げてくれた。長い黒髪が、動きに合わせて艶めく様子が美しかった。
翌日、挨拶に訪ねると客間に通してくれた彼女は、名字名前だと名乗った。広い屋敷は静かで、両親は既に他界し、彼女の他には祖母と住み込みで世話をしてくれている年配の女中の三人だけだそうだ。

「お名前はなんと仰いますの?」

歌うように話す名前は細い首を傾げて義勇をじっと見つめて、この世の醜いものや悲しいものなどなにも知らないような、幸福に満ちた笑みを浮かべる。きっとそうではなく、彼女は苦労や寂しさをたくさん知っているのだろうが、それでもそんなものを一切見せない微笑みに、義勇もいつまでも暗い顔をしていてはいけないのだと、思い知らされた。

 近所を案内してくれたり、もらった菓子を持ってきてくれたりと、世話を焼いてくれる彼女に甘えて週に何度も隣の家の敷居を跨ぐようになっていた。名前の祖母は歳のわりには足腰はしっかりした柔和な老人で、孫娘である名前をとても可愛がっていた。そんな大事な孫娘に寄り付く悪い虫のように思われていたらどうしようかと思ったが、義勇と顔を合わせた時も言葉少なに微笑んで受け入れてくれた。


「義勇さん、お夕飯ごいっしょに召し上がっていきませんか」
「……昨夜も世話になったと思うのだが」
「まぁ、もう我が家の食事には飽きてしまわれたのですか?」
「そういうわけではないが、迷惑だろう」
「そんなふうに思っていたらお誘いしませんわ」

名前は、柔らかな微笑みを浮かべて義勇を見上げる。分かった、と了承し同じようにぎこちなく口元を緩ませると、名前はぽっと頬を赤く染めた。
名前は同年代の友人が周りにいないようで、歳の近い義勇によく懐いていた。そこには異性を慕う好意が混じっていることは、いくら鈍い義勇でも分かる。可愛らしい、と思う。人柄もよく可憐な名前は引くて数多であろうと容易に想像がついた。だからこそ、その隣に自分の姿を思い描くことは、とても滑稽に思えた。


「冨岡殿は、あの子が気に入りませんか」

 食事の後、お茶と茶菓子を持ってくると名前が席を立つと、彼女の祖母にそう言われた。気に入らないところなど何もないが、気に入っていると口にすることはできなかった。

「俺は見ての通り片腕を失っています。それにあまり長く生きることができない……こんな俺では幸せにしてあげられません」
「病を抱えていらっしゃるか、それはお辛かろうね。でもね、今日明日に死ぬわけじゃあないんでしょう。どれだけ生きられるかなど誰にも分かりません。自分から諦めて良いもんじゃありませんよ、お若いんだから」

彼女の目元に刻まれた皺がきゅっと濃くなる。彼女の言葉は歳を重ねた者が持つ特有の説得力と柔らかさがあった。生きていてもいいのだろうか、と時々ひっそりとした闇が心に生まれることを、見透かされているような気がした。生きながらえた命を無駄にしてはいけないと思いつつも、寿命の終わりは短く、鬼殺隊を離れ一人の人間として何をすればいいのか分からないのだ。

「まぁ少し考えてみてください」

そう言って話を切り上げた彼女に、義勇もはい、と返事をするしかなかった。


「聞きました、その、祖母が失礼なことを言ってすみません」

数日後、義勇の家にやってきた名前は顔を真っ赤にして今にも泣き出しそうな表情だった。とにかく座るように言って、縁側から日の入る明るい和室に彼女を通す。品の良い友禅の淡い色の着物を着た名前は小さく座布団の上で縮こまっていた。

「かまわない。俺が、健康な体であれば喜んで受けた話だ」
「へ…」
「聞いていないか?俺はあまり長く生きられない、腕も失っているし、」
「そ、そうではなく、義勇さんはわたくしを嫌ってはいらっしゃらないのですか」

赤かった顔をさらに朱色に染めて、名前は小さな声で尋ねる。その言葉で、そうか彼女は好意を持っているのは自分だけだと思っていたのだと合点する。お前は分かりにくい、と不死川に入院中何度も叱られたことを思い出した。言葉にしなければ、誰ともわかり合うことなどできないのだ。

「可愛らしい人だと思っている。明るく、心優しく、俺のような男にはもったいないと思う」

口に出せば、その思いははっきりと輪郭を得た一つの塊となり義勇の胸の中に確かな存在感を持つ。名前の日に焼けていない白い肌は瑞々しく、青白い血管が薄い肌の下に走る様子まで美しいと思う。長い睫毛の影も、柔らかく女性らしい声も、名前という人を形作る全てがすみずみまで可愛らしく、そっと大事にしまっておきたいと願ってしまった。

「もったいないことなど、ありはしません」

義勇が膝の上で握り締めた拳を、名前の小さな両手がそっと包み込んだ。その温もりに顔を上げると、名前は真っ赤な頬を緩ませて微笑んでいた。

「義勇さんは悲しい目をされています、きっとこれまでの人生でお辛いことの全てをその身に抱えてこられたのでしょう?子供っぽいかもしれませんが、貴方を一目見たときから、私は恋に落ちておりますの。心が落ち着かず、どこからいらしたのだろうか、なにがお好きなのだろうか、と知りたいことが尽きません」

ここまで女性に言わせてしまったことが不甲斐ない。名前は恥ずかしそうに目を伏せて義勇の言葉をじっと待っている。名前の手を握り返すように指を動かせば、艶々と梳られた髪を揺らして可愛い顔を上げてくれた。

「名前といると温かい気持ちになる。笑いかけてくれるだけで、とても幸せだと思う。迷惑をかけると思うが、そばにいてはくれないだろうか」

名前の手に重ねた自身の手が熱い。名前は潤んだ瞳をくしゃりと細めて何度も頷いてくれた。彼女の背に片腕を回すと、ぎゅっと小さな両手が義勇の背に回る。
隙間もなく抱きしめながら、もう片方の腕があればよかったな、と初めて腕をなくしたことを惜しいと思った。