1stanniversary
maborosi

 誰にでも、自身と同じように胸の中にぽかりと空いた穴があるのだろうと思っていた。
ここでは無い何処かへ行きたいと、青春時代に誰もが思うのと同じく、満ち足りなさのようなものを、目に見えないだけでこの世全ての人間が抱えていると、そう思っていた。

何かが足りないという喪失感は、自分だけが抱えているものだと知ったのはいつだっただろうか。



「こんにちは、ご注文はお決まりですか?」
「あぁ、ドリップコーヒーを頼みたい」
「はい。サイズは、いつものでいいですか?」
「うむ、問題ない」

 白いシャツに、カフェの制服である緑のエプロンを付けた店員は、出勤前にほぼ毎日顔を合わすので、すっかり顔馴染みになっていた。綺麗にまとめた髪を揺らして、一言二言声をかけてくれる明るい彼女は接客業の鏡のようだ。店員と客、という間柄以上のものは何も無いが、この店に寄るのがちょっとした楽しみだった。

「やっと暖かくなってきましたね」
「そうだな。この時期は別れが辛いんだが、気温が上がることは嬉しいな」
「そっか、先生されてるんでしたよね。卒業式、晴れるといいですね」
「ありがとう!」

会計を終えてしばらく待ってコーヒーを受け取る。

「お待たせしました。熱いので気をつけてくださいね」
「一口目は要注意だな」

いってらっしゃい、と軽く手を振ってくれる彼女に手を上げて店を出る。片手に持ったコーヒーのカップには小さくてるてる坊主の絵が描かれていた。

「かわいらしい…」

杏寿郎はそのイラストに小さく笑うと、職場である高校に向かって歩き出した。



 卒業式というのは何度経験しても、寂しく感じるものだ。天気にも恵まれて咲きはじめの桜が木々に白く色をつける中教え子を見送り、電車に揺られて人並みのセンチメンタルに浸っていると、開いたドアから乗り込んできた女性が杏寿郎の前でぴたりと足を止めた。

「あ、いつもの……」
「ん?」

小さな呟きに車窓に向けていた視線を顔の位置まで上げると、少し照れたように小さな会釈が帰ってきた。彼女の耳にかかっていた髪がこぼれ落ちるようにベージュのコートの上を滑る。丸い瞳にはどことなく愛嬌があって、知っているような気がする。

「…あ!コーヒーの」
「そうです。すみません、お見かけしてつい声がでちゃいました」

ようやくいつものコーヒーショップで顔を合わす緑のエプロン姿の彼女と合致し、自然と笑みが浮かんだ。休日の午後の電車は人もまばらで、座席の空きは他にもあったが、彼女はほんの少しスペースを開けて杏寿郎の隣に座った。いつもはカウンターを挟んで対面していた相手が、隣に座っていると少し不思議な感じがした。

「君の可愛らしいおまじないのおかげで晴れたようだ」
「あ、卒業式。今日だったんですね」
「うん、午前中に終わって帰るところだ」

それから当たり障りのない範囲で自身が高校の社会科の教師だと言うことや、彼女が大学院生だということなどを話した。店員と客という立場ではない、個人としての会話がほんの少しこそばゆく、そして心地が良かった。午後の穏やかな日差しと、どこかの窓が開いているのだろう、車内にふわりと吹き込む春の匂いをまとった風が気持ち良く、あっという間に駅についてしまう。

「ここで降りるんだ。ありがとう、声をかけてくれて」
「あ、いえ、こちらこそすみません」

ゆっくりと電車がスピードを落としていく。かたん、とリズムよく揺れる車内に立ち座席の上の網棚に載せた花束や手紙の入った紙袋を取る。卒業生たちがくれたそれらのプレゼントはなかなか大きく、二つに分けたのだがどちらもそれなりに幅をとってしまう。邪魔にならないようにドアの前に移動して、彼女に目線だけで挨拶をして前を向く。駅のホームにすうっと滑るように止まった電車のドアが開いた。

ホームに降りた時に前から少し強い風が吹き付けた。春一番のような吹き付けに顔を逸らすと、髪がぱたぱたと頬を叩く。

「あ、しまった」

風に揺れた紙袋から手紙が飛び出してしまい、そのままホームの奥へと飛んでいく。慌てて追いかけようと踵を返すと、まだ開いたままの電車のドアから彼女が降りてきて杏寿郎より先にひらひらと舞う手紙を追いかけてくれた。小走りで駆ける彼女の茶色いローファーがぱたぱたと音を立てる。

「取れました!」

かがむようにして足元の低いところを舞っていた手紙を捕まえた彼女が、満面の笑みを浮かべて振り返る。

「すまない!助かった」

杏寿郎が彼女に追いつくと、同時にプシュっと空気音を響かせて電車のドアが閉まった。

「「あ」」

綺麗に重なった二人の声を置き去りに、ホームからゆっくりと加速して出ていく電車を眺めると、くすくすと隣で笑い声が聞こえてくる。つられて杏寿郎も笑ってしまった。

「はぁ、面白かった。タイミングが、合いすぎてましたね」
「映画のようだったな」
「はい、お手紙」
「ありがとう」

拾ってくれた卒業生からの手紙を差し出され、受け取ろうと手を伸ばす。その時、杏寿郎の指先が彼女の指先に触れてしまった。

ぱちん、と静電気のように何かが弾ける音が頭の中に響く。
彼女を知っていると、天啓のように閃いた。そんなはずはないと目を瞬いていると、彼女も同じく困惑したようにこちらを見上げる。触れた指先から、何かが体の隅々に行き渡るように、広がっていく。

「すまない、手が当たってしまって……」
「い、いえ」

杏寿郎は掴んだ手紙をぎこちない動きで紙袋の奥に入れると、一歩距離を取るように後ろに下がる。自分でも説明のつかない奇妙な感覚に、軽く混乱しながら今自分の中に起こったことを整理すべく無意識に顎に手を当てていた。

「あ、あの!私、貴方を知っているような気がします。今、本当に今……なにか思い出したような気がするんです」

彼女は、眉を下げた困り顔で何かを我慢するように唇をきゅっと引き締めていた。

「とても変なことを言ってますよね、それは私も、分かるんですけど……」

じっと杏寿郎の顔を見つめるその目にはじわりと涙が浮かぶ。その切ない顔に、こちらまで胸が苦しくなる。彼女を泣かせてはいけない、そう自身に囁くのは誰だろう。
気がつけば紙袋をホームに置いて彼女に手を差し出していた。遠慮がちに杏寿郎の掌の上に置かれた白い指先が、確かめるように指先から掌の皺をなぞっていく。すり合わせるように彼女の手を同じように撫でて、骨張った指の間に己の指を入れ込み、確かめ合うように手を繋ぐ。

「君は誰なんだろうな。でも俺は、君をずっと待っていたのだと思う」
「わたしも、わたしもそうです。私の名前は名前、名字名前です」
「名前、俺は煉獄杏寿郎だ。どうだろうか、俺が君をずっと待っていたように、君にとって俺は探していた人なのだろうか?」

なくしていたものがなにかすら知らなかった。それでも、今この瞬間、それは彼女だったのだと分かる。この世界で感じていた喪失感を、満たされなさを、埋めるのは名前なのだ。そう呼ぶのが当たり前のように、名前、と何度も呼んでしまう。
名前は大きな瞳からほろほろと大粒の涙の粒を駅のホームに落としながら、杏寿郎がその名を呼ぶたびに頷いた。

「貴方だと思う、うん、絶対そうです。私がずっと会いたかったのは、貴方です。杏寿郎さん」

きん、とこめかみが痛むように耳鳴りがする。
映画を見るようにたくさんの人物や場面が目まぐるしく切り替わり、その中に何度も目の前の名前が出てきた。笑った顔や怒った顔、泣いている顔、杏寿郎の腕の中で安心したように目を閉じる幼い寝顔。どれもこれも忘れられないと、いつかの自分が思った表情だ。同じものを見たのだろうか、名前が背伸びをして杏寿郎の首筋に顔を埋めて抱きついてきた。ぎゅっと彼女の背中に腕を回して抱きしめると、懐かしい甘い香りがした。

名前がおだやかな春の見せる幻ではないと確かめるように、ゆっくりとその髪に指を滑らせた。杏寿郎の髪に鼻先を埋めた名前は、すん、と小さく息を吸う。
よかった、彼女はちゃんとここにいる。

名前とこの奇妙な出来事の答え合わせをしなくてはいけない。きっと二人とも同じ答えだろう。一つの間違いもなく、二人は同じものを感じていると、そう思うのだった。