1stanniversary
サーカスナイト

 隣を歩く名前のつむじを見ながら、杏寿郎はほどよい満腹感に充たされながらも、駅まで彼女を送ってしまえばこの時間が終わってしまうことを寂しく思う。なるべくゆっくりと歩いているのは、自分なのか彼女なのだろうか、それとも二人とも同じ気持ちでこの夜を楽しんでいるんだろうか。

「煉獄先輩、見てください三日月が綺麗です」

 『煉獄先輩』そう杏寿郎を慕ってくれる一つ下の名前とは同じ日本史の研究室に所属している。教授のご好意で時折開かれる座談会は毎度多くのOBやOGも顔を出す、賑やかな会だ。四年目を迎える杏寿郎には慣れ親しんだ面子であったが、名前と口実もなく会えるということだけで毎度参加している。

「本当だ」
「三日月って、地球の影だって分かってても不思議だなぁって思います…」

名前と同じように紺色の夜空に浮かぶ薄い三日月を見上げて足を止める。月の満ち欠けは太陽と地球と月の位置が公転によって変わることで起きる。それは学生時代の理科の時間に習ったことで、大学生の名前にも杏寿郎にもその理屈は分かっていたが、それでも目に見える月の姿は美しく不思議なものに見える。こうも整った美しさを自然が生み出しているということが、人間の力の及ばぬところに創造主という存在が本当にいるのではないかと思うのだった。

「地球は大きさもわからないくらい大きいのに、月はここからだとあんなに小さくって、その影がこうやって三日月に見せてるって果てしない話ですね」
「そうだな、それに俺も君も文系だから余計にそう思うのかも知れないな」
「ふふふ、同じ月の満ち欠けでも平安時代の歌人たちの読む月の方が気になりますね」
「ちょうど今日はその話題だったしな」

毎回集まりの度に教授は短い談話をしてくれる。今日は平安時代における風俗習慣だった。名前は熱心に耳を傾けていたなと、真面目な彼女の横顔を何度もちらちらと盗み見ていた杏寿郎は些か不埒な行動であったと反省する。おかげで題目は覚えているものの、教授の話の内容はあまり頭に残っていなかった。

立ち止まった名前は月から目線を下げると、駅へと続く道に目線を向けるものの歩き出そうとはしなかった。夜の住宅街は車も人通りも少ないとはいえ、そこのままずっと二人で立ち止まっているわけにはいかない。けれど歩き出してしまえばまた駅への道のりがどんどん短くなって、二人きりの時間が終わってしまう。それが分かっているから、杏寿郎は『行こう』とは言いたくなかった。


会話の途切れた二人の間に漂う夜のしっとりとした空気が音を吸収しているように思う。
静かな夜に二人沈んでじっと名前の黒い瞳を覗き込んでみたい。杏寿郎の日の光を透かす琥珀の瞳とは異なる、神秘的な真っ黒な彼女の丸い目の虹彩の一つ一つまでも見てみたかった。誰にも遠慮せずに名前、とその名を音にしたい。触れる許可を貰わなくとも、いつだって名前の小さな手を握っていたい。そしてその手を繋ぎ返してくれたのならば、どんなに幸せだろうか。

「…先輩は、三日月に意味があるの知ってますか?」

杏寿郎が街頭の明かりを受けて夜の藍色にぼんやりと光る名前の白い手を見つめていると、ふいに名前がこちらを振り返る。

「三日月は、はじまりを意味する特別なものです。三日月にお祈りをすることで幸運に恵まれる、願いを叶えると、そう言われてます」

はじまり、その言葉はすとんと杏寿郎の胸の中に落ちてきた。
三日月について名前が話した意味を考えながら、それがただの知識ではなく杏寿郎に向けられたメッセージだと捉えることは自惚だろうか。はっきりと見えない名前の表情を覗き込むように一歩、彼女に近づく。

「煉獄先輩、私の願いは叶うでしょうか」

名前はいつもと変わらない様子に思えたが、両の目はきらきらと薄い涙の膜で潤んでいて、きゅっと結ばれた薄い唇からは緊張が伝わってきた。

「名前」

そっと彼女の手の甲に指を滑らせると、大袈裟なまでに肩がぴくりと跳ねた。

「…間違っていたか?」

尖った指の関節を撫でながら尋ねると、名前は杏寿郎の指に絡めるように指先を動かした。指先だけを固く繋いだ二人の不器用な触れ合いは、杏寿郎の心臓をとくとくと速らせていく。名前の黒い瞳が滲むように細くなる。

「あってます」

囁くような名前の言葉が終わらないうちに、杏寿郎は背を屈めてその薄い唇にそっと口付けた。