dormir/mafee project
雁渡し

炭治郎は優しい人だ。
人のことを気にかけて、自分のことのように寄り添ってくれる、とても温かい人。そんな彼に惹かれるようになるのに時間は掛からなかった。
見つければ目で追ってしまい、別れるとまた会いたくなる。そんな彼が、同じように自分を好いていると思いを告げてくれた時は夢のように思われた。瞳と同じ色に頬を染めた炭治郎と見つめ合うと、胸がとくとくと速まってきゅうと締め付けられたように苦しい。その苦しみまでが愛おしく感じるほど、同じ気持ちでいてくれたことが、幸せでたまらなかった。

でも人は強欲だ。

満足したはずなのに、またその次が欲しくなる。
手を握りたい、口付けて欲しい、抱きしめて欲しい、それから……
口には出来ないような、はしたない願いの数々を胸の中に秘めながら、なんでもないような顔で過ごすのだ。まるで聖人のように、欲望などないかのように。



「ねぇ、これ俺聞かなきゃダメ?」
「善逸は私の友達でしょう、聞いてくれないの?」
「いや、名前ちゃんとはお友達だよ?だけどさぁ、炭治郎と名前ちゃんの恋の相談とかさあ、俺どんな顔で炭治郎に会えばいいんだよぉぉ」
「……いつも通りでいいんじゃない」

街を歩きながら、目についたお店を二人で冷やかしていく。禰豆子ちゃんにと髪留めや玩具を手に取る善逸の隣で、特に欲しいものも、目的もなくふらふらと棚から棚へと移動しながらここ最近ずっと胸を占めているわだかまりを善逸に吐き出す。

炭治郎に胸の内をそのまま伝えて引かれてしまったら嫌だし、だからといって今まで通りの距離感で隣にいることも不満を口にしてしまいそうで怖かった。炭治郎はなにも悪くないのに。
街に下りれば少しは気分も変わるかと思ったけれど、結局どこにいても考えてしまうのは炭治郎のことだった。

「炭治郎のすきって、私のすきと違うのかな」
「いやいや、あいつめっちゃ名前ちゃんのことすきだよ?」
「でも、私のすきは、もっと……」

いやらしくて重たくて束縛的な、綺麗なものだけじゃなくて醜い感情もごちゃ混ぜになった『すき』なのだ。それを言葉にできなくて黙り込むと、善逸が訝しむように顔を覗き込んできた。

「名前ちゃん?」
「……なんでもない。お土産買って帰ろっか」



怪我をして蝶屋敷に入院中の炭治郎へのお見舞いとお土産の両方を兼ねて買ってきた和菓子の袋を片手に、勝手知ったる蝶屋敷の玄関を上がり奥へと進む。廊下の先で話し声がする、と気づいた時に目に入ってきたのは蟲柱の腕を縋るように掴む炭治郎の姿だった。話の内容までは分からなかったが、炭治郎から掴んだように見えるのは気のせいではないだろう。

「ただいま」

普通に声が出せているのだろうか。動揺を隠すように小さく息を吐いてから二人のそばに行くと、炭治郎がぱっと顔を輝かせる。

「名前、おかえり!」
「おかえりなさい。善逸くんは一緒ではないのですね」
「善逸は禰豆子ちゃんに花を見せに……」
「そうですか。炭治郎くん、私はこれで」
「あ、はい。すみません」

にこりと微笑んで去っていくしのぶさんを見送りながら、横目で隣に立つ炭治郎を盗み見る。蝶の鱗粉を模した羽織が廊下の角で見えなくなるまで、その背中をじっと見つめている炭治郎に胸がちくちくと痛かった。何を話していたんだろう。どうしてそんなにしのぶさんを気にしているのだろう。考えれば考えるほど、鋭い棘が胸の奥に深く刺さってしまった。

嫌な想像を振り払うように炭治郎の左手を握って小さく揺らせば、ようやく丸い瞳がこちらを映してくれた。

「あ、えっと、おかえり!」
「さっきも聞いたよ。ただいま」

困ったように笑みを浮かべた炭治郎に、蟲柱とのことを問詰めることは躊躇われた。なんでもないのだと言われても信じられるかどうか、分からなかった。それならば見なかったことにしておこうと、喉につっかえた言葉を飲み込んで、どうにか笑みを浮かべる。

「炭治郎?」

声を掛けると、徐ろに炭治郎に抱き寄せられ、彼の匂いに包まれる。閉じ込めるように腕の中に抱えられて視界が炭治郎だけになると、ついさっき胸に生まれた痛みがほろほろと消え去っていった。
ふと、彼も自分と同じように不安なのだろうかと思う。規則正しい炭治郎の心音が聞こえる。落ち着いた一定の速さで脈を打つその音を聞きながら、目を閉じてその背中に手を回す。

「……どうしたの?辛いことあった?」
「辛いこと……」

言葉に詰まった炭治郎の背中をさすると、一つ息を吐いた炭治郎がぽつぽつと言葉を零す。

「うん、多分、あった」
「なにそれ。ねえ、一緒にお菓子食べようよ」

炭治郎の胸に預けていた顔を上げると、赤みを帯びた瞳が瞬いた。忘れかけていたお土産の袋を手に持って見せると、やっといつもの炭治郎らしく笑ってくれた。


「治ったら、一緒に町へ行こう」
「うん、早く治すよ」
「急がないでいいよ」
「でも、早く名前と出かけたいから」

炭治郎が二つに割った紅葉饅頭の片方を口元に差し出されて、少し恥ずかしく思いながら唇を開いて口の中に受け取る。そのまま咀嚼していると、炭治郎の視線が唇に止まっていることに気がついて、とくとくとまた胸が鳴る。

口づけを自分から強請るだなんて、あさましいと思うだろうか。
それでも、気持ちが確かめられる口づけが欲しくて炭治郎の服を掴んで目を閉じる。すぐにふに、と柔らかな感触がして唇が触れ合うと、心の奥からすきが溢れ出すようで幸せな気持ちでいっぱいになる。炭治郎も私のことをすきなんだと、そう強く思わせて欲しい。
けれど柔らかい唇は、ふいにぱっと離されてしまった。

「…………」
「?」
「なんでもない」

もっと、口付けてくれてもいいのに。優しくなくてもいいのに。
そんな言葉の代わりに、私は炭治郎の口元にお菓子を差し出した。
触れ合っている間は消えていたもやもやが、また胸の中に蠢いていた。



大笑いする音柱の反応に相談したのは間違いだったかもしれないと、さっそく後悔の念が押し寄せる。
浮かない顔だな、と同行した任務の帰りに声をかけてくれた宇髄さんにぽつりぽつりと最近の悩みを話す。途中から肩を震わせてひぃひぃと笑いだした長身の白皙を下から睨む。

「ひどい。真剣に悩んでいるのに」
「悪い悪い。それにしても餓鬼が一丁前に色気付いてんなぁ!」
「餓鬼じゃないです」

上からぬっと伸びてきた大きな手が、犬でも撫でるようにぐしゃぐしゃと髪を乱していく。

「すきだったら、手を繋いで口付けて抱きしめて、もっと深く繋がりたいと思わないですか?炭治郎は、そういうこと、あまりしたがらないから、他にすきな人がいるのかもしれない」

言葉にしてしまうと、目を背けようとしていた現実が急に形を持って、心の中の一番弱いところに突き刺さるようだ。
宇髄さんの手が一瞬、ぴたりと止まって、今度は優しくゆっくりと髪を撫でてくれた。

「男はな、一番大事な女にはそう簡単に手は出さないもんだぜ」
「大事……」
「大切にしたいんだろ、お前のこと」
「でも、それならもっと、言葉や態度に出してくれないと……」
「じゃあお前はどうなんだ。こうやって俺には素直に言えることを、炭治郎には言ったのか?」

言ってない。だって恥ずかしいから。
はしたないって、あさましいって、思われそうで怖くて言えなかった。嫌われたくなくて、全部飲み込んで、わかって欲しいって態度でしか示してこなかった。

宇髄さんの指摘が的を得ていて、恥ずかしいような悔しいような気持ちになる。むすっとしたまま下からもう一度見上げると、にやにやと人の悪い笑みを浮かべていた。

「仕方がねぇから俺のとっておきを紹介してやるよ」

両腕を組んで胸を張る宇髄さんの様子に、本当に大丈夫なのだろうかと思いながら、ありがとうございます、とお礼を言う。



しかし、そんな宇髄さんおすすめの逢引場所である温泉宿の前まで行ったにも関わらず、炭治郎の純粋な心の前では役に立たなかった。

宇髄さんが奥方と泊まると教えてくれた雰囲気のいい温泉旅館の話題を額面通り取られてしまい、任務の帰りに寄りたいと返されてしまえば、それ以上何も言えなくなってしまった。

私としては勇気を出して温泉宿の話題を出したし、疲れが取れるのだ、ゆっくりしよう、と間接的に泊まろうと誘ったにも関わらず、何故かこうして甘味処に座ることになっている。

炭治郎は困った顔で向かいの席からこちらの様子を伺っていたけれど、目を合わすこともできなくて、ただただ注文したプリンを見つめる。何か言うべきなのだろうと思うのだが、作戦が失敗した今、どうしていいのか分からなかった。

やっぱり私とはもう、男と女の関係ではいたくないのだろうか。私のすきと彼のすきは、もう同じではなくなってしまったのだろうか。先日の蝶屋敷での様子もおかしかったし、もしかして既にしのぶさんと何かあったのだろうか。それとも、もっと他にすきな人がいるのだろうか。


「名前」
「……ん?食べないの?」
「名前は俺のこと、好きでいてくれてるんだよな?」

目の前の甘味からようやく視線を上げる。
予想外の質問に瞬きながら、どうにか言葉を返す。

「な、なんで、そんなこと聞くの」
「えっいや、あ、その」

真意を探るように炭治郎の赤い瞳を見つめる。綺麗な色のこの眼が大好きだけれど、今は取り繕うようにうろうろと宙を彷徨っている。口籠る様子に、気づけば勝手に言葉が溢れてしまった。

「炭治郎は私のこと、もう好きじゃないの?」
「……へ?」
「……しのぶさんが好きなの?」

ずっと引っかかっていたことを口にすれば、今度は炭治郎が固まってしまった。訪れた沈黙が肯定のように思われて、喉の奥がきゅうと狭くなる。苦しい。瞬きの合間に涙が溢れそうで、目を閉じることもできずにじっと見つめていると、ふ、と炭治郎の表情が柔らかくなった。

「俺が好きなのは名前だよ」

そっと手を握ってくれた炭治郎は、決して綺麗とは言えない硬い肌を慈しむように撫でてくれた。包み込むような炭治郎の視線に、今なら抱えている不安をぶつけても大丈夫なような気がしてきた。

「だって……、」
「……」
「よく顔赤くしてるし。大人っぽい人が好きなのかなって」
「っそれは、仕方ないというか、顔近づけられたりしたら、……すまない」

炭治郎は本当に申し訳なさそうに眉を下げて、謝っている。嘘をついているようには思えない、正直な反応に胸の中のわだかまりが一つ解けていった。

「それに、その……」

不安げな顔で私の言葉を待つ炭治郎に、もう一つの不安を口にするのには緊張する。こんなに真剣に聞いてくれているのに、もっとたくさん触れ合いたいだなんて、恥ずかしい願いを言ってしまって幻滅されないだろうか。
躊躇して口を噤んでいる間も、炭治郎は手を握ったままじっと私の言葉を待っていてくれた。ここで誤魔化してしまえばもう二度と、伝えられない気がする。意を決してぎゅっとその手を握る。

「全然、してくれないでしょ」
「……全然してくれない……?」

カチャカチャと店員が食器を下げる音がやけに大きく聞こえる。炭治郎の反応が怖くてじっと握り合った手を見つめているとだんだんとその手が熱くなってきた。
こくり、と喉が鳴る音が聞こえ、恐る恐る炭治郎の顔を見れば、丸い頬が窓から差し込む夕日の色よりも、もっと濃い赤色に染まっていた。

「名前」

呼ばれた自分の名が、熱をもっているようだ。

「……うん、」
「疲れたよな、今日」
「…………」
「屋敷へも、結構遠いし」

炭治郎の言葉が全部熱い。耳から入ってきてどんどん私の体を熱くしている。とくとくと速まる心音が、繋いだ手から炭治郎にも聞こえているんじゃないだろうか。

「今日は、泊まっていこうか」

いつも穏やかで優しい炭治郎の瞳が、男の人の目になっている。溶けてしまいそうな熱を孕んだ視線を向けられて、自分から誘ったのにとっくに主導権は炭治郎の手に握られてしまったようだ。
声を出すことさえもできないくらい胸がいっぱいで、私は小さく頷くことしか出来なかった。