夏の日差しの中でするすると枝を伸ばしていたいた緑が少しづつその色を黄金色に色を変えはじめた秋、杏寿郎はかねてよりの想い人であった名字名前にその思いを伝えた。彼女は胡蝶の管理する蝶屋敷の医療班で働いており、怪我をして担ぎ込まれた杏寿郎を献身的に支えてくれた。慎しくもよく気の利く可愛らしい彼女に惹かれるのに、時間はかからなかった。白い頬を朱に染めて潤んだ瞳を揺らす名前は、小さく頷いて杏寿郎の想いを受け入れてくれた。
しかし喜びから握り合った杏寿郎の手をやんわりと押し返し、名前は公表するのは少し待って欲しいと遠慮がちに申し出た。
「しばらく、人には言わないで頂けないでしょうか」
「…そうだな。落ち着くまでは公言しないようにしよう」
杏寿郎がそう言えばほっとしたように笑顔を見せる名前に、理由を問いただすことは何となく憚られた。それに、名前が気持ちを受け入れてくれたことが、杏寿郎にとってはこれ以上ないほど嬉しかった。人に言えないことなど些事でしかなかった。
「名前」
「煉獄さん」
名前を呼べば、もう一度杏寿郎の掌に小さな手が戻って来てくれた。そのままぎこちなく腕の中に招き入れた温かい体を壊さないように、恐る恐る抱きしめる。柔らかい小さな体を今まで以上に大切にしよう、そう心に刻んで杏寿郎は目を閉じた。
人に言えないとあっても、それから杏寿郎と名前は徐々に二人だけの時間を増やしていった。手を繋ぎ、抱きしめ、その唇に口付け、十分に彼女と恋人らしい関係になっていた。好きだと伝えると、同じように好きと答えてくれる。それがどれだけ杏寿郎を喜ばせているか、きっと彼女は知らないだろう。
ただ、名前には伝えていないかったが、言わない方がいいと言うのは杏寿郎にも言えることだった。お館様からやんわりと縁談の話があると持ちかけられていたのだ。その場ではっきりと断っていなかったので、そちらの方をきちんと整理してから名前とのことお伝えした方がいいだろう。
この任務が終われば、お館様へお時間を頂き正式に断ろうと心に決めて、杏寿郎は鴉の持って来た任務に向けて炎柱邸を出る。しばらくすると向かいからよく知る男がやって来た。
「煉獄」
「宇髄、今戻りか」
「おう、入れ違いみたいなだ。…なんだ?なんかお前浮かれてね?」
鉱石の嵌め込まれた煌びやかな額当てをしゃらと鳴らし、音柱は人の悪い笑顔を浮かべる。
「む。分かるのか!今が俺の人生で一番幸せだ!」
「お?おお?それってつまりあの子と?」
「まだ言えん。秘密にしろと言われてな」
「それ…ほとんど言ってないか?任務終わったら詳しく聞かせろよ」
手を振る宇髄に、杏寿郎も手を上げて応えると逆方向に別れる。
夕日に染まる街道を走りながら、時折ふわりと鼻腔に甘い香りが入ってきた。この香りを放つ橙色の小さな花の名を教えてくれたのも名前だった。
金木犀。
花の名前などほとんど知らない杏寿郎が覚えたのは、彼女がすきだと言っていたからだ。
これまでも秋になるとこの香りを嗅いだことがあったが、甘い香りだとしか思わなかった。だが名前のすきな香りだと知ってからは、この金木犀の香りは彼女を思い出させる大切な香りとなった。
指先に乗るほどの小ぶりな花は、慎ましく可憐な彼女を思わせる。大輪の牡丹や華々しい百合のように主張することはないが、その香りは千里を超えるとも言う。家々の庭先から濃い緑の葉に守られるように鈴なりに連なった小さな花弁が、うっとりするような芳しい香りを振り撒き、杏寿郎に名前のことを思い出させたるのだ。
先日初めてこの腕の中に抱きしめた感触が蘇える。
柔らかな肢体は男のものとは違う。照れた赤い頬が林檎のようで許されるのであればそのまま齧ってしまいたかった。そして名前は消毒液と石鹸の匂いがするのだと知った。
ーーーあぁ、早く君に会いたい。
気持ちが通じ合った後も、恋しいと思う気持ちは収まることなく、むしろ大きくなっているようだ。
赤い太陽が真っ赤に染め上げる夕焼けの中を駆けながら、杏寿郎は己の頬を両手でぱんと叩く。
「集中!」
鬼を狩りに行くというのにこのように浮かれていては、炎柱の名が泣くというものだ。今日の任務が一人で良かったと杏寿郎は一人苦笑いを浮かべた。
任務を終え、朝日の中人々の生活音に穏やかな気持ちになる。朝食の米の炊き上がる匂いや味噌汁の出汁の匂いにぐぅと腹から空腹を訴える声が上がった。
炎柱邸に戻る前に一目でもいいので名前に会えないだろうかと、邪な期待をして蝶屋敷に立ち寄る。屋敷の主人である胡蝶に一言声を掛けようと、玄関にあがったところで怪我人に宛てがっている病室に繋がる廊下の方から物音が聞こえた。
「朝食をお持ちしました」
「ありがとうございます!」
「美味そうだな」
「それだけ食欲があるようでしたら、お二人とももう直ぐ退院出来ますね」
名前だ。
病室に朝食を運んでいる後ろ姿を捉え、杏寿郎はそれだけでも満たされた気持ちになる。勤務中だったので声をかけるのは躊躇われ、名前に渡そうと山際で一枝折った金木犀を手に踵を返す。
廊下の角に置かれた花瓶に金木犀を挿せば、はらりといくつか小さな花弁が木製の床に落ちた。直接彼女の白い手に渡せば、きっと瞳を煌めかせて喜んでくれただろう。その表情が見れなかったことは残念だが、こうして置いておけば、きっとこの香りが彼女を笑顔にしてくれるだろう。
奥の病室に向かって去っていく名前の足音を聞きながら、杏寿郎も戻ろうとしたところ、先ほどの朝食を届けられた病室から聞こえる話し声に足を止めてしまう。
「やっぱり名前さん素敵だよなぁ」
「胡蝶様も美人だけど、名前さんの控えめな感じいいよな。恋人とかいるのかな」
「やめとけ、お前じゃ無理無理」
「でも男の影も見ないじゃないか。名前さんが家で待っていてくれたら最高だろうな」
「お帰りなさいあなた、ってか?ないない、高嶺の花に手出すなよ」
名前のことを話す男の隊士の声がぐるぐると杏寿郎の頭の中を巡る。名前はやはり他の男からも可愛らしいと目を付けられていたのだ。それはそうだ、彼女は愛らしい。いや、そういうことではない。名字名前はもう杏寿郎の恋人だ。今すぐに病室の二人の会話に割り込んで、名前の恋人は煉獄杏寿郎だと言ってしまいたい。
たとえ想像であっても、名前のことを他の男が恋人に擬えることが我慢できなかった。
だが、秘密にしてくれと言った彼女との約束がある。
指先が白くなるほど拳を握りしめ、杏寿郎は足音もなく蝶屋敷を後にした。
どうして名前は人に言うのを待ってくれと言ったのだろう。
杏寿郎と同じように何かけじめが必要だったのだろうか。
鬼殺隊という社会の中で、恋仲であることをひけらかしたくないのだろうか。
それとも、もしや彼女にはもっと大きな、杏寿郎には言えない秘密があるのだろうか。
答えのない問いを何度も繰り返し、よくない想像ばかりが頭に残り鬱々とした気持ちになって来た。
炎柱邸にとぼとぼと帰りついた時には、想いが通じた時の幸せがどこかに消え失せて心に穴が開いたようだ。握強く握り過ぎて掌から血が滴っていたことも気づかなかった。玄関の上がり間口を汚してしまったことも、どうでもよく思えてしまう。
しんと静まり返った無人の屋敷で休もうと布団に入っても、悶々と考えてしまい徹夜で任務に当たっていたにもかかわらず眠れそうになかった。
「で、この宇髄天元様のところに来たわけか」
非番だった宇髄は杏寿郎の訪問を快く受け入れると、酒を飲みながらその悩みを聞いてくれた。話を聞き終え快活に笑う宇髄に力強く背中を叩かれた杏寿郎は、朝からずっと胸に溜まっていたもやもやとしたものが少し薄らいだように感じた。
「ああ…それより、俺は名前との約束を破ってしまった…」
「いやいや…お前この前会った時も半分言ってるようなもんだったじゃねえか」
「だが恋仲だと言ってはいけないと…」
「俺が言わなきゃいいんだろう。まぁどうせすぐ方が付くだろうさ」
恋人との約束を破ってしまった罪悪感と、悩み事を相談できたことの安堵という相反する感情が胸に去来する。茶化すような、あまり真摯な態度ではない宇髄の様子に言いたいことはあったが、相談した手前口に出すことはしなかった。
「俺が恋人ではいけないんだろうか」
「隊士に慕われている炎柱と付き合ってることで女に妬まれてんじゃね?」
「人に言えないような相手ということだろうか」
「…暗いな、煉獄!いつものデカイ声はどうした?」
「暗くもなる。こうしている間にも名前は他の男に言い寄られているのかもしれない」
「だがよ、煉獄。お前の知ってる名字名前は、意味もなくこんな隠し事を頼むような女なのか?」
名前は意味もなく人に言えないような関係でいることを、よしとしないだろう。彼女は真面目で誠実な人間だ。人を傷つけるようなことを態とやるはずはない。それは彼女の人柄を側で見て来た杏寿郎にはよく分かる。
ふと心が軽くなった。
何一つ、憂うことなどない。杏寿郎が好きになった名前は、いつだって真摯に向き合ってくれる優しい女性だ。恋仲であることを隠すことには、何か彼女にとって大事な理由があるのだ。それはきっと杏寿郎を困らせるようなものではないはずだ。
「宇髄!」
「うおっ!なんだ、もう復活か炎柱様?」
「うむ!礼を言う。こうして悩んでいても仕方がないな!名前と話してくる」
今度上手いものを持ってこいと言い、見送ってくれた宇髄には頭が上がらない。蝶屋敷の近くにある名前の家まで向かう前に、一度自身の屋敷に戻ると玄関扉の前に名前が立っていた。
「名前!ちょうど君のところに行こうと思っていたんだ」
「煉獄さん!金木犀があったのでもしやお戻りなのかと思って訪ねたのですが…怪我をされたんですか?血が…どこか痛いのですか」
「血?あぁ、ちょっとした不注意だ」
杏寿郎の顔を見るなり駆け寄って来た彼女を受け止めると、蒼白な顔で体の傷を確かめる。そう言えば掌を傷つけていたことを思い出し、彼女に見せればほっとしたように肩を落とした後に、困った顔で見つめられる。
「家の前に血痕があったので、何事かと驚きました」
「大したことはない。すまない、心配させて」
「大事に、してください。どんな小さな怪我でも煉獄さんが傷つくのは嫌なんです」
杏寿郎の掌を小さな手がぎゅっと包み込む。
こんなに心配してくれる名前が、疾しい理由で二人の仲を隠しているはずがない。
「名前、恋人だと皆に言ってもいいだろうか?やはり隠し事は俺には向いていないようだ」
「煉獄さん…私の都合で我慢してもらってすみませんでした。もう大丈夫です。煉獄さんの恋人だと私も胸を張って言いたいです」
名前が目をくしゃりと細めて笑う。彼女に握られた手を繋ぎ直し、杏寿郎は家の外に向かって歩き出す。
「今から御館様にお伝えに上がろう!きっと喜んでくださるだろう」
一歩遅れて歩き出す名前は驚いたように目を大きく開いたが、すぐにはい、と頷いてくれた。
歩きながら暫く二人の仲を黙っている事にした原因である縁談の話を打ち明けると、名前も秘密にしておこうと思った理由を教えてくれた。
手を繋いで顔を合わせて話をすれば、どちらも最初に言っておけば、大したことのない理由だった。杏寿郎は悩みの種が消え去り、晴れ晴れとした気持ちで上を見上げる。空の青の上に、色付いた紅葉が数百、数千と重なってそれは美しい紅色の錦の帯を広げていた。
まるで二人を祝福するようなその紅に、杏寿郎は名前と目を合わせてひっそりと微笑んだ。