リクエスト企画

これは進行性のやまいです

「不死川さーん」

受付の妙齢の看護師に名前を呼ばれ、待合の長椅子座にことを座らせたまま立ち上がる。ガラス越しに優しく微笑みかけられ、診察券と保険証を下の小窓から返された。

「ことちゃんお熱何度でした?」
「7度8分です」

体温計を渡しながら、看護師をよく見れば自身の幼少期にかかった時と同じ女性のような気がする。もう今では母親よりも年上の祖母のような年齢だろう。

「…ふふふ、実弥ちゃん久しぶりねぇ」
「あー…ご無沙汰してます」
「小児科なんだもの、ご無沙汰になって当たり前よぉ。次診察なのでまたお名前呼んだら奥のお部屋に行ってくださいね」

にこりと笑う彼女に軽く頭を下げてことの隣に戻ると、くしゅん、とくしゃみをしていた。ティッシュで顔を吹いてやりながら、久しぶりに訪れた家の近くの小さな医院を見回す。
ところどころ見覚えがあり、幼い頃に数回来ただけでもよく覚えているもんだなと思う。


昼休みに母親からかかってきた電話で、ことが熱を出したので小学校に迎えは行くがパートが入っているので代わりに病院へ連れて行ってくれと頼まれたのだった。
七人兄弟の不死川家は、実弥は就職して家を出ているが一番下の兄弟である就也やことはまだ小学生だ。

「大丈夫かァ?次ことの番だからな」

小さく頷いた妹は顔を赤くしてぼんやりしている。普段ならば実弥がかまおうとすると自分で出来る、とそそくさと逃げてしまうのだが今日はやはり体が辛いのだろう、鼻をかんでやったり湿った髪をとかしてやったりと、世話を焼いてもされるがままだった。





「不死川ことさん、診察室へどうぞ」

しばらくすると奥の診察室のドアが開き、耳障りのいいアルトの声に呼ばれる。ことの手を引いて診察室に入ると消毒のアルコールの匂いと一緒にシトラスの香りがした。パソコンのモニターに向かっていた小柄な女性がこちらを向く。優しげな瞳がことに向けられたあと、実弥の顔に辿り着き二人の視線が絡まる。

 それはほんの数秒のことだったのだろうが、体感では数十秒にも数分にも感じられた。蒼く澄んだ湖のような無垢なものに目を奪われる感覚だ。実弥は彼女から目が離せなかった。
いつのまにか始まった診察の声を、薄い膜の外側から聞く。世界から隔絶されたかのようで、徐々に医院の診察室に意識が帰ってきたが、彼女との一直線に結ばれた視線がどうやって解けたのかはいつまでも分からなかった。


「…えっと、ことちゃんお熱はいつから出たのかな?」
「昼前に、学校から母親に電話がありました。登校時は特に以上はなかったそうです」

聴診器をことの胸や背中に当てながら問診する女医の白衣の胸元には。ローマ字で名前と入っている。
実弥が通っていた頃はこの医院の医者は爺さんだった。幼少時の記憶の中でも既に白髪だった優しげな老人だ。十年以上の月日が経った今も彼が医院の主治医のはずがない。しかし思い込みで実弥はここにはあの爺さんがいるものだとばかり思っていたのだ。
娘…いや孫なのだろうか。それとも赤の他人が医院を継いでいるのだろうか。
名前はつるりとした頬や穏やかな雰囲気から楚々としたものは感じるが、特段目立つ美人というわけでもアイドルのように可愛いわけでもない、ごく一般的な顔立ちだ。なのに、どうしてこんなにも彼女に目を引かれるのだろう。

「ことちゃん、あーんしてくれる?」

言われるがまま小さな口を開けた妹の喉をペンライトで照らした名前は、そのまま喉を指先で押していく。

「痛いところあったら言ってね。…ここちょっと扁桃腺腫れてるねぇ。しんどいね」

労わるように小さな頭を撫でた彼女は、入ってきた時と同じようにパソコンに症状を打ち込んでいく。すっと背筋が伸びた理知的な横顔にまた魅入ってしまう。ことがくいくいと横から袖を引いたのでなんとか彼女から目線を外すことができた。

「お兄ちゃん、トイレ行きたい…」
「おう、借りてこい。兄ちゃんが先生のお話聞いといてやるからなァ」

目線で彼女に了解を求めると、ことの手を引いて診察室のドアを開けて向かいの扉だと教えてくれた。
よたよたとトイレに入ったことを見送って診察室の付き添いの椅子に腰を下ろすと、興味深そうに彼女から話しかけられた。

「…お兄さんだったんですね」
「あぁ、年が離れているもので…えっと先生は…」
「名字です。ここはもともと町医者の祖父が開いた医院なんです。受付は今も祖母がやってくれているんです」


名字名前さん。


実弥は頭の中でその名前を何度も唱える。特別な呪文のようなその名を声にしてみたい、そんな単純な欲望が熱々のコーヒーから立ち上る湯気のように実弥の心の中を揺蕩った。

「そうですか…努力されたんでしょうね」
「え?」
「っぁーー、すみません。高校の数学教師をしているので…。毎年数人ですが、うちの生徒も医学部を目指すんで…あの子たちを見ていると俺は全然学生時代勉強してこなかったなぁーと、思い知ります」

なんでこんな話をしてしまったのだろうかと、照れ隠しに愛想笑いを浮かべる。名字先生は初めて外に出た子供のような顔をしてこちらを見ていた。薄く口紅がのった柔らかそうな唇をわずかに開いて、数度瞬いた彼女は急に心底嬉しそうに笑った。

「そんなふうに、素直に感心してもらったの初めてです。…不死川さんみたいな先生がいらっしゃるならきっと生徒さんも受験も頑張れますよ」

いいなぁ、と確かに小さく彼女は呟いた。音になる手前の吐息のような小声のそれをどういう意味か聞きなおしたかったが、カタンと扉を開ける音がしてことがお手洗いから帰ってきた。

ことの診察の結果を聞きながらも、時折視線を彼女に向けてしまう。柔らかそうな頬にかかる髪、視線を落とした時の薄い瞼、控えめな小さい鼻。瞼の裏に彼女の造型を刻み付けるように見つめていても、最初のように二人の視線が交わることはなかった。
処方する薬のことも丁寧に話してくれた名字先生に『お大事に』と診察室の前で見送られ、軽く頭を下げる実弥の横でことは小さく手を振っていた。

待合に戻る前に最後にもう一度だけ、と小さく振り返る。黒い瞳がぴたりと実弥の瞳と合う。吸い寄せられるような彼女の瞳にも自分が映っているのだと思うと、言い知れぬ喜びが胸に芽生えた。

「ありがとうございました、名字先生」





「おばあちゃん!」
「あらなぁに、患者さん帰った途端に大きな声出して…」

診察時間の終わった医院で、名前は落ち着かない自身の胸を押さえるように白衣を掴む。

「あの人、不死川さんって昔の患者さんなの?」
「そうよぉ」
「名前、下の名前は?」
「そういうのはコンプライアンス違反じゃないかねぇ?」
「も、もう!意地悪!さっき呼んでたでしょう?なんとかちゃんって…」

面白そうに唇に笑みを浮かべる祖母は帰り支度を始める。

「いい大人なんだから名前くらい自分で聞きなさいな。お疲れ様、また明日ね」
「そ、そんな!ここ小児科だよ、もう来ないかもしれないじゃない…」
「大丈夫よぉ、本当に会いたい人ならちゃあんと会えるように出来てるから」
「なにその非科学的な話…」

ふふふと楽しそうに笑って医院からすぐ近くの家に帰っていく祖母の背中を見送り、はぁと大きなため息を零す。

不死川さん。不死川、なにさんなのだろう。
一見怖そうな見た目だったけれど、ことちゃんの手を引く時はとても柔らかな顔をしていた。

凛とした涼しげな瞳と視線が交わった時、確かに心の奥から湧水の如く何かが溢れたのだ。体の中をどんどん満たして溺れてしまいそうなこの甘い衝動を、私は知っている。
とくとくといつもより早い心音に苦しいくらい張り詰めた胸。この病は一度かかればひどく厄介で、病巣は根深く、治療が困難だ。


こちらを振り返った彼とぴたりと交わった熱を孕んだ瞳を、名前は忘れられそうになかった。