リクエスト企画

百色万華鏡

 鬼を斬ることだけを考えて、そのためだけに生きていけた方が楽だったのではないか。

義勇は任務帰りの朝焼けの空の下を一人駆けながら、そんなふうに思う。夜になれば与えられた任務に従い、憎い鬼と闘うことに専念できた。しかし一度太陽の光が差し込めば、近頃この胸に去来するのは一人の女のことばかりだった。
考えたくない、心の中に入ってくるな、と締め出そうとすればするほどに、彼女の幻影はその影を濃くしていく。
すらりとした体躯に黒い隊服を纏い、静かな眼差しを湛えた両の目がじっとこちらを映す。笑いかけてくる彼女の顔をもう何度瞼の裏に思い描いただろう。多くを語らない物静かな彼女の名を、なるべくなんてことないように呼べる日は来るのだろうか。

あぁ、またこうして彼女のことを夢中になって考えている。


 水柱邸が見えてくると、門前に佇む人影が目に入る。まだずいぶん距離があったが、それが彼女であると義勇はすぐに気づく。立ち方一つでそれが名字名前であると分かるようになったのはいつからだろうか。
表情まで見えるようになったところで足を緩めると、じっと前を見据えていた視線がこちらに向く。折り目正しく腰を折って礼を取る彼女に、形ばかりの目礼を返す。
 
 名字名前は甲の階級を持つ水の呼吸の使い手だ。義勇としてはむしろ柱に相応しくない己に代わり、水柱の名を彼女に継いで欲しかった。継子にして欲しいという名前の願いをすっぱりと断ってからも、嫌な顔一つせず変わらぬ態度で義勇を慕ってくれている。一体誰の差し金なのか、水柱邸に使いに来ることも多く、今日もいくつかの荷物を持たされたようだ。それをどこかで喜んでいる自分がいることを義勇は認めたくなかった。


「冨岡様、任務お疲れ様です」
「あぁ、今日はどうした」

 しんと静まり返っていた広い屋敷に二人で上がり、お茶の一つも出せないまま客間で向かい合う。任務が長引いたのでその間に出た通達や、預かってきた食べ物を机に並べた名前はこれはお館様から、これは胡蝶様から、と言付けと共に義勇に説明する。伏し目がちに話す名前の横顔の陰影や、瞬きとともに揺れる長い睫毛に度々目線を奪われてしまう。こうなると彼女の落ち着いた声も耳に入らなくなってしまう。

彼女が顔を上げると、薄紅色の耳からはらりと艶やかな黒髪が溢れる。同じ黒髪でも自身の硬い髪とは素材が違うような柔らかそうな真っ直ぐ伸びる髪が揺れていた。

「髪が、伸びたな」

思ったままを口にしてから、いきなり何を言っているのだろうかと自分の顔に手をあてる。
名前は仕事ではないにしろ、上官への報告のような真面目な態度で話していた口を薄く開いたまま、瞬きを二度三度繰り返している。

「はい、伸びました。切った方が良いでしょうか?」

剣を握っているのが嘘のような細い指が顔まわりの髪を一束掴むと、僅かに首を傾げる。

「…切らなくて良い」

そもそも、彼女の髪に関して口を出す権利など誰にもない。それでも、その背に流れる黒髪を切ってしまうのはとてももったいなく思われた。
義勇の言葉にわかりました、と穏やかに返事をした名前がじっとこちらを見る。髪と同じ真っ黒な瞳は、透明な水の膜に覆われ水面のように光が揺れていた。
彼女の唇が薄く開く。
何かとんでもないことを言われるような、そんな予感めいたものを感じてとっさに義勇は言葉を紡ぐ。

「いつも、こんな任務以外のことをさせているが、しなくてもいい。柱相手で断りにくければ、俺から言う」

何を言うか決めずに口を開いたせいで、突き放すような言葉がつらつらと出てきてしまう。名前がわざわざ時間を作ってこうして尋ねてくれていることを理解しながら、それを撥ねつけるような言い方をしてしまう己の愚かさに口を閉じると、しんと静寂が広がった。風の音や鳥の羽ばたきまで聞こえる静けさの中で、義勇は己の鼓動が耳元でなっているような錯覚に陥っていた。撤回しようかとも思ったが上手い言葉が思い浮かばなかった。

「私は自分の意思で冨岡様に会いにきています」

名前の声は落ち着いたものだったが、その顔には寂しげな笑みが浮かんでいた。義勇は水面に向かって投げた石が、どんな波紋を立てるのか確認するようにその表情の真意を読み取ろうとした。

「冨岡様へ伝言役を頼まれることも多いですが、決して義務感だけで来ているわけではないのです…ご迷惑でしたか?」

今度は義勇がその心のうちを覗き込まれる番だった。黒く澄んだ瞳は不安げに揺れながらも、義勇をじっと見つめたまま逸されることはなかった。緊張から口の中が乾いており、一度こくりと喉を鳴らしてから今度は間違えないようにゆっくりと言葉を選ぶ。

「迷惑などと思っているわけではない。ただ……名字、が面倒ではないのかと」
「冨岡様……面倒などと思ったことはありません。というよりも、その、いつもお会いしたいと…」

そこまで口にした名前は、だんだんと薄く紅をさしたように赤く染まっていく顔を逸らす。都合の良い聞き間違いではないのかと、己の耳を疑ってしまう。しかし目に映る羞恥に潤んだ名前の表情からは、やはり先ほど耳にした言葉が嘘ではないと思われた。

「それこそご迷惑ですね。お忘れください」

固まった義勇の反応に曖昧に笑みを浮かべ、立ち上がろうとした名前の手首をほとんど反射で掴む。力を入れすぎないように気を使う余裕もなく、初めて触れた肌のぬくもりに義勇の心臓が痛いほど迅る。

「名字のことを、俺もいつも…」

それ以上どう言えば良いのか分からず、義勇は掴んでいた手の力を緩める。簡単に振り解けるような力で、手首から骨張った手の甲を撫でて、指先を握る。しっとりとした女の肌を指先に感じ、手の中の彼女の指が義勇の手を握りかえしてくれたことにはっとする。

いつも冷静な名前の目が熱のこもった年相応の少女のように、義勇を見つめている。義勇はそれが勘違いではないことを、指先に触れている名前の熱で確認してどうにかもう一度唇を動かそうとする。

たった二文字。

その二文字の言葉を名前に伝えなくては。
耳元で聞こえる迅る鼓動に急かされるように、義勇は大きく息を吸い込んだ。