リクエスト企画

あらゆるひかりの糸を編み込めば

握った手が随分と小さくて驚いいた。

小枝のような指が薄っぺらい掌からひょろひょろと伸びている。あまりに自身の手と違うので、これは困ったなと思ったのだ。

大事に、そっと触れないと壊しそうだ。
母さんのゆらゆらと揺れる耳飾りやきらきら光るチェーンみたいな華奢な細工のものを触らせてもらう時と同じ。
杏寿郎は掌に乗る手をそっと、できるだけ優しく握った。落としたら壊れてしまう宝物を持ったような心地がして、気持ちがきゅっと引き締まった気がした。

それがたぶん名前の手を引くはじまりだった。



「杏寿郎、あの、もうここでいいよ」
「何故だ?大学の前まで送る」

助手席で外の様子をちらちらと伺って慌て始める名前の様子に首を傾げながら、アクセルを緩めずにカーステレオの音量を一つ下げる。朝の通学時間とあって大きなスケッチブックを持った学生も多く、自分の通っていた総合大学とは一風違う雰囲気だ。

隣に乗っている名字名前を今年の春から通い始めた美術大学に送るのは、毎朝のことだというのにどうしたというのだろう。昨日まで機嫌よく乗っていたのに、やはり年頃の女の子の気持ちはよく分からない。

いや、年頃でなくなっても女性の気持ちは自分には一生分からない気がする。

小学生の頃、近所に越してきた母の友人とその娘が煉獄家を訪れた。それが名前との出会いであり、そこからは遊びに来るとにこにことした笑顔で杏寿郎、と俺を慕ってくれた彼女が、いつの間にか高校生になり真っ赤な顔で俺を好きだと言い出した時は、驚いたけれど嬉しかったし今まで以上に大事にしようと決めたのだ。
だが社会人になってしまった自分とまだ学生の彼女とでは、少しばかり気持ちに差ができてしまっているのだろうかと残念に思う。

「あ、あ、あー、もう、あそこの角でいいの、お願い」
「……分かった。あそこならもう大学の入口が見えているからいいだろう」

街路樹の横を通り過ぎるたびに、鈴のような高めの声であう、と狼狽る名前に負けて、今日はいつもより手前で車を路肩に寄せる。サイドブレーキを引くと、名前は教科書の詰まったリュックを膝に抱えて右手にクロッキー帳を握りそわそわとしていた。

「帰りは?」
「来てくれる?」
「いつもの時間でいいなら」
「……ありがとう」

律儀にぺこりとこちらに頭を下げた名前は、助手席から外に出ると周りを見回してから恥ずかしそうに小さく手を振ってくれる。
名前の後ろ姿を見送ってから、自身の職場である鬼滅学園に向かってハンドルを切る。



「まじで毎日送り迎えしてんのなー」

同僚である宇髄の声は間延びしていて感心とも呆れとも取れた。

「そうだ、朝は大学の前まで送って、夜も迎えに行ってる。放っておくとずっと大学で絵を描いてそうだしな」
「過保護だよな、いくら彼女と年離れてっからってよくやるわ」
「俺がしたいだけだ!それに大学生になっても…心配なんだ。名前は可愛らしいし、小さいし、おっちょこちょいだし、人を疑わないし」
「あそー。まぁいいけどよ、もう法律的にも立派な大人だろ?」

大人、だろうか。彼女は。
杏寿郎、と幼い頃に出会った時と同じように少し舌っ足らずに名前を呼ぶ彼女の顔は、今でもどうもあどけなく見えてしまう。
俺が十八の時どうだったかと思い出そうとするも、少し前のはずなのにぼんやりとしか思い出せなかった。社会人というのは学生とは大きく違う。だが確かに高校生から大学生になったときも同じように変化に驚いたはずだ。でもどうしても思い出せはしなかった。

幼い頃に名前と出会った日のことは今もこんなにも鮮明に覚えているというのに。



「遅い」

朝下ろした場所と反対車線に車を止めて、車内で彼女を待っていたがいつもの時間を15分過ぎても出てこなかった。エンジンを切って外に出ると、暗い夜の気配の中に学校という大きな建造物がどっしりとした存在感を持ってたたずんでいる。ちらほらと明かりの灯った窓を見上げて電話をかけてみるも呼び出し音が流れ続けた。時折、名前は自分の描く世界に夢中になって時間や約束を忘れてしまう。これまでも何度かあったことなのだが、帰ってこないとご両親が心配して煉獄家に来たこともあるくらいだ。

構内は紙や木の匂いと塗料や染料の嗅ぎ慣れない香りがほんの少しただよっている。何度か訪れた彼女の実習室がある建物は、人気はあるものの、その実習室には名前一人だけだった。
イヤホンを耳に入れているのか、こちらを振り返りもせずに自分の身長よりも大きなキャンバスに向かって手を動かす名前を見つめる。
足音を立てて近づいても振り返りもしない彼女の筆がキャンバスから離れたタイミングでポンと肩を叩く。びくりと猫が背中を丸めるように体を縮こまらせて振り向いた名前は、丸い目が溢れそうなほど見開いていた。

「き、きょうじゅろう」
「また忘れてただろう」

とんとん、と自身の左腕に付けている腕時計を指させば、しまったというように眉を下げた名前がごめんなさい、と頭を下げる。

「電話もしたのだがな」
「あ、鞄に入れっぱなしで…」

もぞもぞと帰り支度を始める名前を待ちながら、つい小言を言ってしまう。

「迎えに来なかったらまた真夜中を過ぎても描いてたんだろう」
「……描いててもいいでしょ?たまには、朝まで描いたりする日もあるよ…杏寿郎だって剣道やってた時は夢中になってよくおばさんに怒られてたもん」

俯いた名前が小さな声で反論する。
昼休みに宇髄に、もう大人だろうと、言われた言葉を思い出す。確かに過保護かもしれない。彼女の意思を尊重していないと言われればそうだ。

「……そうだな、君のしたいようにするべきだろう。でもこんなに遅い時間に一人で学校にいるというのはやはり心配なんだ」

指先についた絵具をぺりぺりと剥がしている名前の両手を取って、自分の掌で包み込む。すっぽりと隠れてしまう細い指先が所在なさげに掌を撫でていた。

「小さい手だ」
「杏寿郎の手が、大きいんだよ」

ようやく顔をあげてくれた名前が気まずそうにこちらを見上げて、小さい声で約束したのにごめんね、と呟いた。俺もよくなかった、と返し名前の描きかけのキャンバスをじっと見つめる。
まだ俺にはこの絵がどうなるのか分からないけれど、彼女のそばで見続けていたいと思う。そのためにはこれから二人のあり方も変わっていくことになるのだろうか。

「杏寿郎が大事にしてくれてるの、ちゃんと分かってるよ…いつもありがとう」
「だが、朝も車で送るの嫌そうだったじゃないか」
「あれはっ、その、お友達に見られて……杏寿郎カッコイイっていっぱい言われてるから、あんまり見せたくないの」

だんだんと尻すぼみになっていく声と比例するように頬が赤くなっていく。
とんでもなくかわいい理由を聞いてしまい、思わずぐいっと抱きしめてしまった。名前は驚いたように何か言っていたけれど、聞こ得ないふりをして腕の中に仕舞い込むように彼女の体を抱き寄せる。

やはり過保護と言われても、この可愛い生き物を俺は守らなくてはならないと改めて決意するのだった。