リクエスト企画

天国ならばまた会える?

「煉獄さん!」

任務から鬼殺隊本部に戻ると、よく通る高い声に名を呼ばれた。また来たのか、と無意識に杏寿郎は笑みを浮かべた。名字名前は花が綻ぶように笑って、一直線に杏寿郎の元へ駆け寄ってくる。黒い隊服に身を包み、背中に「滅」の字を背負う華奢な体躯の彼女は柱以下の隊士の中では指折りの剣士である。

「今日はどうした」
「お姿が見えたのでお話に来ました」

人好きのする愛嬌のある笑顔でにこにこと見上げてくる名前は、こちらに向ける好意を隠そうとはしない。きっと鬼殺隊内で彼女の恋心を知らない者はいないだろう。いつからだったか自身の後ろを付いて回るようになった年若い可憐な隊士をさっさと嫁にとればいいと、同じ柱の間では事あるごとに揶揄われたりもしているほどだ。

「そうだ、見てくださいこの髪紐。煉獄さんの髪の色によく似ていると思いませんか?思わず買ってしまいました」

後頭部に結われた黒髪を縛る赤色の混じった橙の結紐を、嬉しそうに首を揺らして見せてくれる彼女の頭に手をのせる。自身の癖っ毛とは質の違う真っ直ぐな髪を一度だけ撫でて、名残惜しくなる前にそっと手を離す。

「よく似合っている」
「ふふふ、嬉しい…」
「…君はもう発つのか?」
「はい。次の任務は南に向かいます。もしかしたら海が見れるかもしれません」
「夜の海など、見たところでただの暗闇とさして変わらなくないか?」
「そうなんですか?…じゃあ綺麗な海には煉獄さんが連れて行ってくださいね?」
「なんだそれは…」
「だって海行った事ないんです!」

約束ですよ?なんて頬を染めて言われると、男なら誰しも悪い気はしないだろう。可愛らしい恋心を向けられて邪険にする方が難しい。

だがいつ死ぬかも分からない男の伴侶になることは、果たして幸せなのだろうか。
杏寿郎は名前と同じ文字を背負った者として、いつもその問いに悩まされるのだった。

名前の純真に応えられるものを、自分は持っているだろうか。





「煉獄、おい!聞いてんのかぁ?次お前の担当クラスだぞ」

職員室で不死川に大きな声で呼ばれ、ぼんやりと夢現だった意識がカメラのピントが合うように目の前の灰色のデスクに戻ってきた。

「よもや!あと3分ではないか!!」
「だから呼んだんだよ!」
「すまん!助かった、行ってくる」

事前に用意した教科書や復習テストのプリントを脇に抱え、授業を行う三年生の教室を目指して大急ぎで校内を移動する。走ってはいけないと胡蝶に厳しく言われているので、なるべく大股で足を動かしていると向かいから一人の職員がやってくる。両手に本を抱えて足早に歩く女性は、この学校の保健医の名字先生だ。
『名前』と呼びかけたい気持ちを抑え、じっと彼女の顔が見えないかと、長い前髪で隠されたおでこに視線を送る。
両手に本を抱えてこちらを見ないようにしているかのように、足元に視線を落とした彼女は横を通り過ぎる時も杏寿郎を一瞥もしなかった。

まただ。

何とも言えない残念な気持ちが胸にこみ上げてくる。
杏寿郎は気持ちを切り替えようと、一つ息を吐いてから目的の教室へと向かった。


高校教師になる前の人生を、杏寿郎はぼんやりと覚えていた。
黒い服を身に纏い、日本刀のような長剣を振るい、化物の首を斬っていた。若くして死んだ自身の最後もなんとなく知っている。
この学校にいる数人の教師たちはどうやら自分と同じように、その縁がまだ残っているらしかった。同じように『柱』だった不死川に冨岡、胡蝶、宇髄…懐かしい顔ぶれとの再会をお互いに喜び、この世はなんと不思議なものかと驚いたものだ。

だが名字名前はその中に入らなかったようだ。

今の彼女は俺を知らない。産休に入った前任者が復職するまでの代理として赴任してきた彼女は、あの可憐な容姿はそのままに、内気で大人しい女性になっていた。はじめて顔を合わせた時も、ちらりと目があっただけで会話すらしなかった。その後は形式的な挨拶を交わすだけの、個人的なやりとりはなにもないただの同僚である。
杏寿郎は彼女の電話番号も、SNSも、何一つ知らなかった。機会があれば話しかけるようにはしていたが、どうやら彼女は構われるのは嫌いなようで会話が続いた試しがなかった。

あの時代を覚えているだろうか、と聞くことはできなかった。
各々の記憶の精度はバラバラのようで、宇髄は細かく記憶に残っているようだが冨岡や胡蝶は途切れ途切れだと言う。名前が何一つ覚えていないとしても、そういうこともあるのだろうと思われた。それに、思い出したくないような酷い記憶もたくさんある。

あんなに血に濡れた記憶をわざわざ蘇らせる必要はない。
いまの彼女が幸せならばただの同僚でも良いと、杏寿郎は日々自身に言い聞かせていた。



「煉獄先生、あの、お願いがあるのですが」

放課後の職員室で小さく、おずおずと掛けられた声に杏寿郎は驚いた。聞き間違いかと思いながら勢いよく振り返ると、両手を胸の前に握った名前がびくりと驚いたように目を見開いた。目に掛かる前髪の隙間から、黒い瞳が暗がりからこちらを覗く小動物のように警戒心を顕に怯えていた。

「なんだろうか、名字先生」
「その、部活動で怪我をした生徒がいるのですが病院まで送ってもらえないでしょうか…。すみません、私免許を持っていないので…お忙しければ他の先生にも聞いてみます」
「大丈夫だ!すぐに車を回すから正面玄関で待っていてくれ」

だんだんと小さくなる声をかき消すように、食い気味に了承すれば彼女はまたびくりと小さく肩を震わせる。ぺこりと頭を下げると白衣を翻して小走りで職員室を出て行く姿をしばし目で追ってしまう。

これは千載一遇の好機というやつではないのか?
杏寿郎はほんの少しの下心がぱちぱちと炭酸水のように弾ける音が聞こえるようだった。

サッカー部の生徒と名前を車に乗せて市内の病院に送る。帰りのこともあるから、と診察まで付き添うと申し出れば名前はしきりに頭を下げた。骨にヒビが入っていた生徒は親御さんが迎えに来てくれたので、すっかり日が暮れた夕闇の中、助手席のドアを開けて促せば、名前は一瞬躊躇を見せたが小さく頭を下げて乗ってくれた。

「家まで送ろう」
「いえ、駅までで…」
「どうせ俺もあとは帰るだけだから、送らせて欲しい」
「…じゃあお言葉に甘えて、、お願いします」

簡単に彼女の住所を聞き、三十分くらいかと計算する。これまでの関係からすれば十分な時間である。ハンドルを握りながら時折隣の彼女に目を向ける。高すぎない控えめな鼻から顎のラインが街頭やヘッドライトの明かりで切り絵のように浮かび上がっては消えていく。
当たり障りのない会話をしながら、少しづつ彼女が小さく笑ってくれるようになったことが嬉しかった。

ふと、信号待ちの間に名前の手首に目が吸い寄せられた。長袖の袖口からオレンジ色の組紐のようのアクセサリーが覗いていたのだ。古い記憶の中にある、名前と最後に顔を合わせた日に、買ったばかりだと見せてくれた髪紐に良く似たそれから目が離せなくなる。

「煉獄先生、青です」
「いや、それはオレンジだろう」
「え?青です、信号」

パーー、と後ろからクラクションを鳴らされてしまい、慌てて前を向いてアクセルを踏む。
偶然の一致なのだろうか。
どこにでもあるもの、というには少し古風な気がする。流行りの女性向けアクセサリー事情に詳しいわけではなかったけれど、それでもあれと同じものを手に入れるとなると難しいのではないか。


杏寿郎は賭けに出ることにした。


その後も穏やかな会話を続け、名前の指定したコンビニの駐車場に車を止める。すぐそばのマンションだと言う彼女はシートベルトを外し、今日何度目かの感謝を口にした。降りようとした彼女の手首をすがるように緩く引き止めて、その細い手首に巻かれたオレンジ色をじっと見つめる。

「…俺は一つだけ忘れられない後悔をしている」
「…煉獄先生?」
「すまない、気味が悪いと思うかもしれないが、よければ今から海を見に行かないか」

しんとした沈黙に耐えかねて顔を上げると、名前の頬には涙が一筋伝っていた。初めて見る泣き顔は、明るく振る舞っていたあの頃は決して見せなかった弱さを見せてくれたようで、杏寿郎はどうしてか嬉しく思ってしまった。

「夜の海は…何も見えないんじゃないんですか」
「うん、でも行きたいんだ。君と二人で」

ゆっくりと名前を怖がらせないように腕の中に抱き寄せる。
細い肩を抱きしめて、あの時もこうすれば良かったのだと思い返す。そうすればこんな愚かな後悔をすることもなかったのだと、ようやく長い長い一つの思いに決着がついたのだった。