リクエスト企画

怨嗟の声はまだ消えない

煉獄杏寿郎は上弦の参との闘いのにより瀕死の傷を負いながらも、奇跡的に一命を取り留めた。
数日の昏睡状態から意識を取り戻したことには誰もが驚き喜びに咽び泣いていた程だ。蝶屋敷の病室で意識を回復した時、杏寿郎は自分のすぐ側から黒髪の女性が離れていく気配がした。胡蝶の養い子達だろうかとぼんやりした意識で体の様子を確認するも痛みと痺れで怪我の程度は分からなかった。すぐにまた意識が落ちそうになる中で、闘いの中で起こった事が切れ切れに脳内に思い出された。目に焼き付いていたのは燃えるような残像を見せる自身の日輪刀と、この世のものでは無い、人でも鬼でも無い不思議な女の姿であった。

それは己の力量を上回る強さを持った鬼との戦いであり、敗北を悟るには充分な怪我を負った状態で杏寿郎が見た白昼夢なのかもしれない。


次に目が覚めると、胡蝶が一人診察に来てくれた。
「煉獄さん、お加減はいかがですか?」
「胡蝶、、痛いところが多すぎで怪我の程度も理解できていない」
「…左眼は失明されてます。頭部や手足も裂傷が多く、肋と腕の骨が折れてます。あとは腹部に穴が開いており、貫通は免れてますがこれが一番酷い…
臓器の欠損も大きいので今まで通りとはいきません」
一息に伝えると、ふうと息をついた胡蝶は珍しく感情を露わに口元をぐっと噛み、言葉がそれ以上漏れないように自ら蓋をしたようだった。年若く可憐な容姿の女子がする顔ではない。大丈夫だと笑えば胡蝶の大きな瞳に薄く膜が張る。
「泣いてくれるのか…柱でありながらこのような傷を追って生き延び、情けない限りだな」
「なにを…!煉獄さんがどれだけの人を守って戦ったのか、竈門くんからも嘴平くんからも聞きました。
情けなくなんてありません、情けなくなんてないです…」
「…もう俺は鬼を斬れないだろうな」
胡蝶からの全身の負傷を聞きながら、腹の傷がどうしようもないものだと直感した。育てぐらいにはなれるだろうか、とこの先を思いながらあまり悲愴感を感じていない自身にやはりと、どこかで納得する。

世のことわりを変えるような出来事だったのだ。

あの夢か現か分からない幻の話を、目元を拭った彼女にも聞かせてみようか。救いにはならずとも意味はある気がした。
鬼の頸を斬れない毒使いの胡蝶しのぶに、俺が柱として話してやるべき話があるとするのなら、それはきっとこの朧げで忘れ難い白昼夢についてだろう。

「少し話を聞いてくれるか」

二人きりの病室で柔らかくカーテンが風に揺れる音だけが響く。胡蝶は少し赤くなった目元を気にしながら小さく一つ頷いてくれた。


猗窩座と名乗った上弦の鬼は、しきりに鬼にならないかと誘ってきた。
鬼と会話すること自体があまり好きではなかったし、その上人間の一度きりの命を諦めた言い草に腹が立っていた。人は与えられたただ一つの生を全うすることに意味があり、弱いからこそ替がきないからこそ、その尊さを知っているのだ。そんな言葉を鬼に返し、炎の呼吸の大技を躱した敵の拳が鳩尾に入ったところまではしっかり覚えている。その時点でもう俺の負けは見えており、俺は柱としてここで相討ちに持ち込むしかないと覚悟を決めたのだ。

「その時、目の前のにいた猗窩座が後ろから誰かに引っ張られた。奴も驚いて振り返っていたし、俺も目の前に突如現れたそれに大層驚いた」
「隊士ではなかったのですか?」
「隊士どころか、人ですらないと思う。正直、言葉は通じたがあれがなんなのかまだよく分からない」

胡蝶の質問に答えながら、その場になんの前触れもなく現れた女の形をしたそれの衝撃をどう伝えようかと言葉を探す。
気配も音もなく、気づけばそこに居たのだ。古風な袖も裾も地につくほど長い黒い服を着た女。まるで夜そのもののような出立に白い肌が青光りしており、唇には微笑すら浮かべて戦闘に割り込んだ異様な存在。なんの武器も持たず彼女は素手で静かに鬼の肩を掴んでいた。
「そこまで」
「…誰だお前は?手を離せ」
猗窩座の放つ禍々しいまでの殺気を物ともせずに、やつの肩に置いた手をするりと滑らせてなんて事のないようにあっという間に手首を掴み杏寿郎の側から引き離した。その細腕でどうしてこの上弦の腕を掴めるのか、理屈が全く分からなかった。

「私は名前。常世の果、黄泉の国を治める閻魔大王の使者。地獄を統べる王はお怒りだ…罪人が理を曲げて罪を償わず、罰を受けず、現世で生者を殺すという悪行を続けているという」
「…地獄だと?そんなものはない!強者が弱者を殺すことのどこが理から外れていると言うか!」
手を掴まれたまま猗窩座は俺に放った物と同じ体術を繰り出す。そよ風のようにそれらを避けた名前という女はあっという間に鬼の背後でその両手を一纏めに捕らえてしまった。

「あなたはもうとっくに地獄にいるはずの人だ、狛治」

ぞっとするほど冷えた声だった。
猗窩座の後ろからその耳元に口を寄せて話す名前は俺を見て再度微笑を浮かべる。
この女は、人ではない。鬼でも人でもないものが目の前にいる事の奇怪さと、人ならざるものの持つ畏怖の念が杏寿郎の背筋を這う。自身の血で熱く燃えているようだった体が、名前から感じる恐怖で骨の中から凍っていくように感じる。

「煉獄杏寿郎、あなたは今日こちらに来る人間ではない…まぁ、どうせ私の方には来ないのだが」

猗窩座と名前の周囲の空間が急速にねじ曲がるように歪み、彼女はなおももがく男を引き摺るようにその狭間に足を踏み入れる。

「この男は私が責任を持って地獄へと案内する」
「吐かせ!地獄も天国もあるものか!」
猗窩座の焦ったような声に冷徹な響きで名前が答える。
「地獄はあるぞ。狛治、これから気が遠くなるほどあなたが過ごす場所だ」

にたりと、口が裂けるように名前が笑う。
猗窩座が言葉を失うほどに恐ろしく冷たい笑みは、いっそ美しく思えるほどだった。
長い髪を靡かせて二人は完全に空間の狭間に飲み込まれようとしていた。
最後にこちらに目を合わせた地獄よりの使者は高らかに一言放つ。

「人の世は短いぞ、煉獄杏寿郎。しかと生きよ」

瞬きする間もない一瞬、名前と猗窩座の後ろに禍々とした情景が見えた。血のように赤く名前の髪と同じくどこまでも暗い黒の世界。腐臭と熱風で息が詰まり、思わず両眼を強く閉じた。
それはほんの一瞬だったのか、数時間だったのか、気を失ったことすらわからないまま杏寿郎は意識を失った。


「で、目を開けたらここだったと?」
「そうだ!よもや、たまげたな!」
胡蝶は最後まで聞いて暫く黙り込んだ。
「…揶揄ってらっしゃいます?」
「大真面目だ!」

はぁ、と溜息をついた胡蝶はじっと片目になった杏寿郎の目を見つめて、それは誰にも言わない方がいい、と一言呟いた。
駆けつけた竈門くんからも、煉獄さんはすでに倒れていたが周りには誰もいなかったと聞いている。上弦の陸との闘いの末、それよりも強い鬼が出現した気配がした。煉獄さんがいち早く対処し、遅れて駆けつけた隊士が見たのは地に伏せる炎柱だったと。

「…けれど、私は貴方が嘘や出鱈目を言う方ではないと知っています。
この話を私にしてくれたのも意味があってのことでしょう」

胡蝶は納得できないながらも飲み込んでくれたようで、最後はいつも通りの笑みを浮かべていた。

「地獄があるのだと言うならば、鬼は全てそこに叩き込んでやろう!…とは言ったものの俺にはもう斬れそうにないがな!」
笑うと肋が軋んで痛かったが、胡蝶に笑顔を向ける。
「そうですね。毎回、地獄に落ちろと思いながら斬ってますから、私。…地獄があると知って安心しました」
「そうだ、罪は罰せられ償われ、巡り巡って行くのだろうな」
「…そうであれば、姉さんのように私も許すことができるかもしれません」

胡蝶に伝えると少しだけあの現実と幻想の入り混じった出来事が薄らいだ気がした。
生きよと言われたこの身も、きっとまだここでやるべきことがあるのだろう。
頸を斬れなくても、俺にできることは何だろうか。


杏寿郎は瞼を閉じる。暗闇の中で名前の冷ややかな微笑みが見えた気がした。
今も地獄の門は大きく開いて鬼を待っている。