melting chocolate

ミルクチョコレート


バイバイ、また明日、と同級生たちと挨拶を交わしながら、登校時の冨岡先生の持ち物チェックを掻い潜り校内に持ち込めたバレンタインチョコをちらりと確認する。鞄の中に仕舞われたままの赤色の包み紙は今日一日渡される時を今か今かと待ち続けていただろうについに放課後になってしまった。

チャンスは何回もあったはずである。朝登校してすぐに、ちょっといい?と声をかけるなり、昼食後に席を立った彼を我妻くんより先に呼び止めればよかったし、部活に向かう彼を引き止めればよかった。ほんの少しの勇気のはずなのに、人気者の彼を好きなんだと周りに知られるのが怖くてどうしても声をかけられなかった。

もう諦めようかな。
クラスメイトの一人としか思われていないことは明白であり、二人きりで話す機会などこちらから意識して作らないと出来ないし、彼、竈門くんのことを好きだと明言している女子は数えきれないくらいいる。
誰にでも話しかけれるコミュ力の高さと、面倒見のいい性格に前から良い人だなと思っていた。委員会が一緒になったことで本人が諦めようとした面倒な課題や雑用まで根気よく付き合ってくれる優しさにどんどん惹かれていった。

帰れるに帰れずほとんど人のいなくなった教室で頭を抱えるように机に蹲っているとマナーモードのスマホがヴヴッとスカートのポケットでメッセージを知らせる。
『まだ教室?』と熊のスタンプとともに送ってきたのは恋愛相談相手の友人からであった。
『うん
渡せなかったよー』
泣いているキャラクターのスタンプを送信すると、すぐさま既読がついた。彼女はいま部活のはずだ。
心配して連絡してくれていることが嬉しくもあり、あれだけ背中を押してもらって渡せていないことが情けなかった。
『竈門くん教室に忘れ物したから戻るってさっき体育館出て行ったよ!
がんばれ!』
読み終わった瞬間、ガラッと教室の扉が開く。

「あ、名字さん」
「竈門くん」

ちょっと待って、事前情報を整理する前に本人来ちゃった。心の準備が出来てません。
あれだけタイミングを掴めなかったことを悔いていたくせに、いざ本人が目の前に現れて今が最大のチャンスであると理解するとドキドキと早鐘を打ち出した心臓に息が苦しくなる。

「忘れ物しちゃってさ。明日のグラマー俺当たるのに教科書置いてきちゃったんだ」
鈍臭いよね、なんて照れ笑いしながら、二つ隣の列の彼の席でごそごそと教科書を探しはじめた。

まだ教室には数人クラスメイトが残っているけど、ここで言わないともうこのチョコは役目を果たせずお父さんのお腹は収まってしまうだろう。

そう思っているのに。

「あ、あった!じゃあ部活戻るよ。名字さん気をつけて、また明日」
「うん、また明日」

(またあした、じゃないよー!)

へらりと笑って見送っている自分に対して嫌気がさす。
(わーっ!行っちゃうよー!意気地無し!ばか!)
なんで一言が言えないの。どうしてこんなに身構えちゃうんだろう。もう今日を逃したら自分から好意を伝えるなんて絶対にできないのに。
もう一度鞄の中の赤色を見つめて、ついと目線を上げると今にも教室を出ていきそうな竈門くんが僅かにこちらを横目で見ていた。その1秒にも満たない一瞬、彼の真紅の瞳が誘うように笑った気がした。

ガタンと椅子から立ちあがってスクールバッグを掴んで慌てて竈門くんの後を追う。教室を出て昇降口への階段に差し掛かったところで竈門くんが踊り場に真っ直ぐ立ってこちらを見上げていた。

「名字さんも忘れ物?」
「あ、うん、そう。そうだね、忘れ物」

今にも膝が震えそう。まるで舞台の上にいるような緊張感と高揚に包まれてゆっくりと一歩一歩階段を降りる。
目の前に竈門くんがいる。明らかに私を待っている。来ることがわかっていたのだ。
もうこれは、私の好意は彼に筒抜けであると認めざるを得ない展開だ。こんな展開は想像していなかった。
史上最大に脈打っている心臓の音が彼にも聞こえているのではないかと思う。

「竈門くん、これ…
受け取ってください」

最後はとても小さな声になってしまった。震えてみっともなくって、可愛らしい言い方も練習すればよかった。
目が見れなくてずっと彼の手元ばかり見てしまう。その手がそっと差し出した赤色の箱でラッピングされたチョコを受け取ってくれたことで恐る恐る顔をあげると心底嬉しそうに目尻にシワを寄せて笑う竈門くんがいた。

「よかったーー!俺で合ってて!嬉しい、ありがとう!」
「へ…知ってたの?」
「朝、ちらっと包み紙が見えちゃって。誰に渡すんだろうって1日気になってた。名字さん俺が動くとなんか挙動不振だったし、さっき教室でまだチョコの匂いがしたから……もしかしてって。自惚れてもいいのかなって思ってさ」

これで俺じゃなかったら、すごく恥ずかしかった!と片手で口元を隠す竈門くんは耳まで赤くなっていて、きっと私も彼に負けず劣らず真っ赤な顔をしているのだろう。

「そか、そっか!こちらこそ、喜んでもらえてうれしい、デス」

なんで片言?と笑われて、その笑顔を見ているとだんだんと嬉しさが込み上げてきて口もとが緩くなってしまう。
にやけが制御できない。本人がいるのに、にやけてしまいそう。
(あぁ、渡せてよかったぁ!)


「本当にありがとう!大事に食べる」

何を話したかこれっぽっちも覚えてないけど、二人で目と鼻の先である体育館まで並んで歩き、今度こそ部活に急ぐ竈門くんを見送って小さく胸の前で手を振る。
一度体育館に消えた竈門くんがぎゅんと方向転換して、目の前に戻ってくる。
そんなに背が高い方ではないと思っていたけれど目の前に至近距離で立たれるとやっぱり男の子は大きいものだなと思っていると、少し体を屈めた竈門くんが耳元で内緒話をするように話す。男の子の汗の匂いとシトラスの香りにどきどきする。

「ホワイトデー空けておいて、教室で待ってて。もう予約したからね?」

少し照れながら蠱惑的に微笑む竈門くんに碌に返事もできず、こくんと首を縦に振るのが精一杯であった。
名残惜しげに髪の一束を撫でて離れていった竈門くんはまるで知らな人のようだ。

一人残された下駄箱で身体中がふわふわと浮き立つような心地がして、履き替えたローファーが軽すぎる気がする。
(地面が雲の上みたい、まっすぐ歩いて帰れるかな)

あぁ私も自惚れてもいいのでしょうか。