夜の間の風
「だあれ?」
丸い瞳に無垢な光を湛えた少女は摘んだばかりの花を両手に握りしめ、珍客を珍しそうに見つめる。
鋭い嘴に賢そうな金色の瞳がじろりと彼女を睨むと慌てて距離を取る。ちょうどその時がやがやと賑やかな足音が何かを呼びながらやってきた。
ピィーーーっと高音の指笛が鳴ると彼はばさりとその大きな美しい羽を広げて主人の元へと飛び去ってしまい、その後を追って庭から飛び出すと、朽葉色の狩衣を纏った男がその肩に彼を乗せていた。
「おや君の庭にお邪魔してしまったか。すまない、こいつも俺と同じで美しい人が好きなようでな」
鷹と同じ金環の目を持ったその人はにこりと笑みを浮かべて一歩二歩とこちらへやってきた。
普段女房ばかりの屋敷で育った名前は、見慣れぬ青年に戸惑い慌てて下を向く。
「何を持っているんだ?」
「…お花。母上様にお供えするの」
「…そうかそれは喜ばれるだろう。よし俺も花を探してやろう」
その言葉にぱっと顔を上げると彼は大きな手で名前の手を引いてくれた。
「あのね、お好きだった真っ白なお花が欲しいの」
「ほう、白か…これは?」
「そう、そういうのがいい!」
ぷちぷちと次々に野の花を摘んでくれる彼のおかげでいつもの3倍は集まった花を両手で握りしめる。
これなら母上も寂しくないだろうと満足して立ち上がろうとすると着物の裾でつんのめってしまった。
ぽすんと抱きとめられた朽葉の衣は嗅いだことのないお香の匂いがする。
「大丈夫か?」
「はい、ありがとうございます」
支えてもらいながら裾についた草を払ってくれる彼を近くで見ると、透ける様な瞳が太陽の様でとても美しい。
「ん?君もこの目がすきか?」
自信の人差し指と親指を使ってギョロリと目を開いて見せてくれる。
面白くってもう一回とせがむと仕方ないと目を回して見せてくれた。
「姫さま、どちらにおいでですか」
遠くから呼ぶ声が風に乗って聞こえてくる。
「ここよー」
「君の乳人か?」
手を引かれながら声の方に向かうと息を切らせて妙齢の乳人が駆け寄ってきた。
「もう、勝手に外に出てはいけませんと何度も言うておりましょう。…そちらは何方です?」
「…知らない」
「そうだなぁ、鷹狩りの少将ということにしておこう。白詰草の君、また会おう」
乳人の手に己よりも小さな手を渡して、きょとんと見上げてくる小さな少女に別れを告げて近くで待っている従者の元へ戻る。
「杏寿郎様、女人と見ればすぐにお構いになるのはやめたほうがいいですよ」
「何を言うか、可愛らしい少女であった故少し遊んだだけだ」
「もう、そうやってあんな年端のいかない子までたらし込んで。女性へ和歌のお返事するのも大変なんですからね」
「それはすまない、だがお前も仕事があっていいじゃないか。それよりもあの家のこと少し調べておいてくれるか」
幼いながらに整った顔立ちの彼女はさぞ美しく成長するだろう。
できるなあの無垢な黒橡の目をもっと傍で見ていたかった。
それから暫くたったある年の夏の日に名前は大きな運命の分かれ道に差し掛かっていた。
宮仕していた母を亡くした後の引き取り手であった僧侶が亡くなったのだ。乳人の家でおいおいと泣く大人たちを見上げてどうしたのだろうかと不思議に思っていた。母上と同じ極楽に行かれたのだと皆言っていたではないか。
「あの、使いのものが来ております。姫様を引き取ると…」
「まぁそれはどなたで?姫様にとって良い方であればいいのですが」
「近衛中将の使いと申しています。鷹狩のと言えば分かると言っていましたが」
それからは慌ただしく人が行き交い、他所行きの着物を着せられて涙ぐむ乳人にあれやこれやと言い聞かせられてただただうなずくだけであった。数人の従者を伴った牛車に乗せられて穏やかな日々を過ごした山院を後にする。
夜、連れてこられた都のお屋敷は広く何度廊下を曲がったのかすぐにわからなくなった。
にこやかな女房にこちらでお待ちを、と通された部屋でじじっと灯が燃える様子を見るともなく見ているとするすると衣擦れの音を立てながら荷葉の香りが漂ってきた。
「またせた、白詰草の君。おや…大きくなったな」
「あなたは鷹のご主人様…?」
明るい髪をした青年が快活に笑う。
この人にお母様に供える花を摘んでもらったことを思い出す。山寺での暮らしは日々代わり映えがないので珍しい鳥と出会ったあの日は色鮮やかに記憶に残っていたし、金環の眼をもったこの人の大きな炎の瞳を名前はずっと覚えていた。
「覚えていてくれたか!うれしいな」
そう言えば乳人にしっかりと挨拶するんですよと最後に言い聞かせられたことを思い出す。
「此度は引き取ってくださったこと、大変感謝しております。名字名前と申します」
どうぞよろしくお願いします、と頭を下げるとすぐに頭を上げて楽にしなさいと言われた。
向かい合ってまじまじと大きな瞳で見られるとどうも居た堪れなくなってあのう、と声をあげる。
「お名前を教えてくださいますか」
「そうだそうだ、おれは煉獄杏寿郎だ。近衛府の中将として帝にお仕えしている」
「杏寿郎様」
「そうだ!いつでも話したい時は呼びなさい。さて、ここは今日から君の家だ。一部屋用意したから好きに使いなさい」
その日から名前の暮らしは一変した。杏寿郎様に用意していただいた部屋で寝起きし新しい乳母に和歌や漢詩、聞香、はては化粧や宮中のことまで幅広く学ぶ日々が始まった。
「名前様の前の乳母もしっかり者の様ですわね。読み書きも初めからお出来になってますし
礼儀作法はまぁ及第点ではございますが、よしとしましょう」
人の少ない山院で育ったと聞いて仕方がないと納得し、乳母の葵は名前を立派な女性に育てようと決意する。
白い肌に大きな黒い瞳がきらきらと輝き、小さな顔と相まってこれはあと1年2年もすれば噂の美女となるだろう。
素直な性格で少しづつ杏寿郎様を兄の様に慕い打ち解けていく二人を見ているのは心地よかった。
彼女の出自ははっきりとせず彼女の母は宮仕の最中に身篭ったそうでお父上はきっと宮中の貴族であったのだろうが名前様を産んですぐにこの世を去ったため確かめる術はない。
「葵、今日は杏寿郎様はお帰りになるかしら?」
すっかり都での生活にも慣れて杏寿郎がたくさん贈ってくれる新しい着物や帯を身に付けた名前は元々このお屋敷に生まれたかのようなお淑やで奥ゆかしい姫君になっていた。
ふとした瞬間に生まれながらの高貴な血筋を感じさせる大人びた表情を見せる名前は、自然と姫様と呼ぶのがふさわしいように思われた。
「…どうでしょうね。杏寿郎様、夜はお忙しいですからね」
男女の恋愛については勿論お教えしていたが名前はまだどこかそれを分かっていない風でもあった。
恋の歌を練習に送り合って返歌を作ると言うようなことはしれっとこなすのだが、それが自分の気持ちではない様であった。まだ初潮も迎えていないようなのでそんなものかと思いながら、数々の美女と浮名を流している杏寿郎のことをどう伝えたものか迷うところである。
「帰ってきたら遊んでくださると言ったのに、最近全然起きてる時間に帰ってこないの…寂しいわ」
「お忙しい身ですからあまり我儘を言って困らせてはなりませんよ」
「分かってるわ、女はおしとやかに待ってればいいんでしょう」
ぷくりと頬を膨らませてむくれた名前様にやはりまだまだ幼くていらっしゃるなと、葵はため息を吐く。けれどこのように愛らしく拗ねてらっしゃるところが殿は妹のようでお可愛いのだろう。
時の権力者である帝からも気に入られた杏寿郎様は宮中行事なども重なりこれまでに増してお忙しいようで、今ではすっかり名前様が屋敷の主人になっていた。素地が良く水を得た魚のように教養を身に付けた名前様は和歌も琴もすっかり上達されてどんどん艶めいた美しさを醸し出される様になった。お部屋で女房と集まって貝合わせや琴の連弾などしてお暇を慰めて差し上げるようになって暫く、名前様が聞いて欲しい話があると葵を呼び出した。
「葵、私このまま勉強を続けて宮中に参内すればいいの?」
いつになく暗い表情で心配そうにこちらを見る名前様に言葉に詰まる。殿は彼女の後見人として引き取ったのだろうがその子をどうするつもりだったかなんて、とてもこちらからは伺えない。
「杏寿郎様に最後に会ったの、もうずっと前よ。私どうしたらいいのか分からない」
ほろりと大きな瞳から涙を溢す彼女が哀れでそんな弱気になりなさるな、とお慰めしながらこれは至急殿に手紙を出さなければと決意する。
「煉獄どうしたんだ」
「ん?宇髄殿か。いや家から手紙が来ていてな最近帰ってなかったもので催促されてしまった」
「お前結婚してたっけ?」
「いや、私邸に一人かわいい妹を住まわせているのだ」
「妹って言ってももう女なんだろ?さっさと結婚しちまえよ。嫁は多ければ多いほどいいぜ!」
「君はもう三人もいらっしゃったか。だがあの子はまだまだ子供だからな」
そう子供だ。
俺のことを兄と慕ってくれる彼女は白詰草のように小さく幼い不運な子。親類に先立たれ一人、後ろ盾などなにもない彼女がただ不憫であった。硬かった彼女の顔がどんどん柔らかくなって穏やかに過ごしていることが嬉しかった。
やはり兄がいないと寂しのかとまた膝に抱いてやろうか、と名前の高い体温を思い出して笑みを浮かべてしまう。
白粉の香りも焚き染めた上等の香の匂いもしないお日様のような名前を抱きしめてやりたかった。
「名前様、杏寿郎様がお戻りになりますよ」
「本当に?嬉しい…!」
目に見えてお喜びなる様子にほっと胸を撫で下ろし、少し強めに催促してよかったと葵は名前を見て思う。
衣装の色をあれやこれやと悩み始める彼女の薔薇色の頬が可愛らしく、「どれにしましょう」と嬉しそうに困った顔をする名前に早く選ばないと帰ってきてしまわれますよと揶揄って返事をした。
「戻ったぞ、名前は?」
「お部屋でお待ちですよ」
大体長く家を開けたあとは牛車を降りる頃には耳聡く駆けつけてきた少女の姿がなくて杏寿郎はおや、と思う。
乳人も女房たちもにこにことしているので具合が悪いわけではないのだろう。
「名前…」
部屋に様子を見にいくと御簾が下がっている。どうしたのだろうと驚いて立っていると名前が御簾の向こうでお帰りなさいませと声をかけてくる。
「どうして御簾なんかかけている?かわいい顔を見せてくれ」
おしゃまな遊びだろうかと笑いながら御簾をあげて中を覗くと名前が驚いた様に長い袖で口元を覆っていた。
「杏寿郎様、もう私も大人ですよ。夫婦でないなら顔を見せちゃダメだと女房たちに教わりました」
恥じらう様に頬を染めて杏寿郎を直視しない様に目線を落とす彼女からは、匂い立つ様な色香があり幼子のやわくまろやかな顔立ちはすっかり女人のそれになっていた。
言葉を無くして固まってしまっていた杏寿郎は我に返り、背後に御簾を戻すとじりじりと名前の側に寄ってその身体をそっと抱きしめる。
「杏寿郎様、もう、子供じゃないって言ったではないですか」
「そうだなぁ。知っているつもりだったのに…俺の知らない間にもうすっかり大人になっていたのだな」
もうこれでは膝に乗せてやることはできない。お日様の香りはもうしない名前の首筋に顔を埋めると自分と同じ香が薫る。可愛らしい少女だと思っていたのに。いや本当は知っていたのに見ない振りをしてきたのか。知ったらきっと離してやれなくなると分かっていたから。
「名前、どこにも…誰にもお前をやりたくない」
「私は最初からお兄様だと思ってません…杏寿郎様」
「もう白詰草の君ではだめだな。白百合の君…そうだ白百合だ」
「ふふふ、杏寿郎様。あなたはずっと私の光の君です」
名前を胸に抱きながら杏寿郎は数多くの女性と何度夜を過ごしても埋まらなかった心の穴がすうっと無くなったかの様に感じた。愛すべき半身はここにいたのだ。
名前の唇に口づけ杏寿郎はもうこの子意外なにもいらないと深く幸福なため息を吐いた。
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