kmt short story



慈しみの対等



俺もついに焼きが回ったのだろうか。
目の前の光景の非現実感に頭痛がしてくる。

「不死川さん、今日1日貴方に祝福を授けます。担当天使の名前です。」

聞こえてない。見えてない。

そう言えば年々目が悪くなってきているし、徹夜も出来なくなってきたし、生徒たちのような若さは無いと実感する。
それに最近ついてなさすぎた。
財布は忘れる、靴紐は切れる、雨の日に傘を盗られる、スマホの画面もバキバキに割ってしまった。

「そう!その運の悪さが可哀想なので、哀れに思った神様から遣わされたのです!」

聞こえない。聞こえない。断固聞こえない!

ぎゅっと目を瞑って耳を塞ぎ、あーーーと声を出す。くそ、間抜けみたいじゃねぇか。消えてくれていることを願ってそろりと目を開くと、至近距離に女の顔があり鼻が付きそうである。

「てめぇ…ちけーんだよ」

消えてなかった非現実的な彼女の目には俺の顔まで映る距離である。押し返していいものかわからず、首を引くと彼女も後退したようですすっと水中を泳ぐ魚のような動きとともに距離が開いた。

「だって見てくれないし聞いてくれないじゃない」

袖も裾も長い白一色の大きめの衣服を身に纏いリビングの明かりの下ですいーっと体を寝そべるように動かす彼女の頭には輝く輪っか。そして大層大きな白い羽が背中あたりから伸びている。
宗教画やイラストでよく見かける、キリスト教の天使そのままだ。

「はぁ、厄日か?いや厄年か?」

出勤前の朝食を食べかけていたことを思い出し冷めてしまったトーストを齧る。

幽霊やらUFOやらそういった類は見えないし信じてない。
リアリストの不死川にとっては見えるものが全てであり、社会人の忙しい生活の中では見えないものに対してかける時間や感情など皆無であった。
だがもう見えてしまったものは仕方ない。こいつをどうすっかな、と狭くもないが広くもないリビングをふよふよとイルカのように遊泳する天使をぼんやりと見上げる。

「リアリストなんですね、不死川さん
あ、食器棚見てみて」
「あ?お前考えてることも分かるのかよ…サトラレじゃねぇか…」
迂闊なこと考えないようにしようと思いながら、天使の言う通り食器棚に向かう。顔のそばにふわりと空気が動くような感覚がして、重さのない手が肩にかかる。ガラス扉に彼女の白い指がつぷんと挿さる。

「ここ、奥にお土産でもらった蜂蜜があるの
忘れてたでしょ?トーストと食べたら美味しいよ」

「おー、便利だなお前」

これは確か胡蝶が妹と旅行に行った際に買ってきてくれたもののはずだ。いつか食べようと思いながらすっかり忘れていた。
とぷんとガラスをすり抜けて指を戻すと、またふわりと肩から離れる彼女は優雅リビングへと戻る。

「お前じゃありません
名前です
私、結構天使歴長いし、優秀なんですよ」

羽をグイーッ伸ばして猫のように伸びをした名前はぱちんと指を鳴らして白い羽を瞬時に消して見せた。

「ほーー、消せんのか」
「これはまぁ、あれです
天使っていうと羽ないと説得力ないじゃない?聖人と一緒になっちゃうし
あ、もし貴方を連れて空を飛んだりするなら広げてないとちょっと大変そうですけど
でもそういう時以外は邪魔じゃない」

折角なのではちみつをスプーンで掬ってトーストにたらりと回しかける。
黄金色がつやつやと透き通り実に美味しそうである。ぱくりと口に入れると柔らかい甘さが広がった。

ふよふよと空中を漂う天使の名前をもう一度よく見ると、天使らしくおっとりした顔立ちで(天使らしさがあまり分からないが)色素の薄い髪が動きに合わせて靡く様子は絵画のように美しく、重力を感じない動きに合わせて衣服や髪が空中を漂ってこちらに来い、と自分を誘っているようだ。

「で、今日1日付いてくるってかぁ?」
「そう、そして不死川さんに祝福をあげます」

美味しそう、と言いながら食事中の自身の周りを360度くるくると回る名前は不死川と目を合わせるとにこりと微笑む。

「俺には拒否権は無いんだな?」
「えっ、神様の祝福の代行者を拒否するつもりなの??
っていうかそろそろご出勤では?」
「・・・なんでも知ってんだな」

向かいに両手で頬杖をついて顎を乗せた名前がこてんと首を傾げるのでついと目を時計にやればそろそろ家を出る時間であった。食べ終えたお皿をシンクに置いて水を張る。洗い物は夕飯と合わせて帰ってからだ。ジャケットを羽織ってタンブラーにコーヒーの残りを注ぎ、戸締りを済ませて家を出る。

徒歩20分ほどでつく職場までの道を歩く不死川の横で名前は気持ちよさそうに飛んでいる。
後ろから両手でぎゅうとこちらの首筋に掴まっているような体制で宙に足を伸ばす名前には重力も温もりもなく、ほのかに特徴的な花の香りがするだけだ。

「お前」
「名前です」
「…名前は他の人間には本当に見えないのか?」
「そうですよ
私この地区に守護している人間がいるんですけど、その人も私のこと見えてないし
だから不死川さんみたいに話せる人久しぶり」
「あ?祝福とやらをすると見えるんじゃねぇのか?」
「うーん、でもみんなではないので、素質じゃないですかね?
その辺りのことは一担当の私には分かりませんね」

優秀なんじゃなかったのかよ、と呟くとすれ違うサラリーマンに怪訝そうに見られる。

「そうか、俺独り言ぶつぶつ言ってるやばいやつに見えるんじゃねぇかよ…!」
「ですね」
人前ではやめたほうがいいですよ?と吐かす名前にイラっとしながら足を進める。
「不死川さん、ここで曲がりましょう」
いつもより一本手前で右に曲がれと指示されて反抗する気力もなく言われるがままに足を向ける。市街地へ向かうメイン道路の脇を毎日歩いていたが、確かにこちらの道の方が車の交通量も少ないし、落ち着いている。
街路樹の木陰を歩くと気持ちが良かった。明日からこっちを通勤路にしようと思ったところで、隣を飛行する名前がにっこりと笑顔を向けてくる。ドヤ顔にぴくりとこめかみがひくつくが、もう言葉で言い返すのはやめた。
時折肩に触れたり頭を抱えるように密着する名前に離れろと念じるが、分かっているだろうに全く言うことを聞かない彼女に徐々に諦めのため息が漏れる。

「さ、ランチを買いますよ」
「あ?」
「あのパン屋さん、美味しいです」
ほら行きますよ、と見えない力で背中を押されてウィーンと自動ドアを開けてしまう。名前はしたり顔でこれとこれとこれ、とパンまで指定してくるので言い返す気力もないこちらは、操り人形のように御会計を済ます。レジ打ちの女子は俺の生徒ではないか?と思いながらも耳元でパンについて熱弁を振るう名前に心中で返事をするので精一杯でそそくさと撤退する。

「授業中はお邪魔でしょうから、私もいつもの守護者についていますね」
「そーしろぉ、つーかもう十分だ」
「何をおっしゃいます、まだ朝ですよ?
24時までは不死川さんの天使です」
「まじか…」
「まじです、さぁお仕事頑張ってくださいね
お昼休みにまた伺います」
ふわんと輪郭線が薄くなって、空気中に溶けるように消えた名前にそういうこともできるのかと思いながら、もうあまり驚かなくなっている自分の順応ぶりに呆れる。

授業中は姿を見せないと言っていた通り、揶揄いにやってくる様子もないので夢だったのかと疑うほどに平和に時間が過ぎる。いや、平和よりも出来過ぎなくらいだ。いつも宿題を忘れる生徒がちゃんとやってきていたし、模試の結果を心配していた3年生は自己最高点を取ったと報告してくれたし、授業も予定通りキリのいいところで毎時間チャイムが鳴る。これは天使の祝福の効果と言われればそうなのかもしれない。地味だが、少し運がいい、ということなのだろう。
まぁしかし、地味な効果だ。

「ちょっと、地味って言わないでよ 不死川さん」

昼休みの職員室で購入したランチをいただこうとちょうど封を開けたところで名前がぱちんと指を鳴らす音ともに隣のデスクに体育座りで姿を現した。輝く金環が不満げに首を傾げた角度で斜めに浮かぶ。やっぱりこいつは夢でもなく天使なんだ、そしてその効果がこの地味な幸運か…

「だから、地味じゃないです
堅実な、現実的な幸運です」

あなたがリアリストだからそれもあるのかもしれませんが、とジト目で付け加えてくるあたりいい性格してると思う。
「天使に対していい性格とは…言ってくれますね…
じゃあ特別に一個お願いを叶えて差し上げます
出来る範囲で、ですけれど」
考えておいてくださいね、と自信ありげに笑みを浮かべる名前を見ながらどうしたものかとパンを齧る。

「うまい…」

確か一番人気とポップがあった、あんことバタークリームが絶妙なあんぱんに舌鼓を打つ。
また買おう、と噛み締めて咀嚼すると名前がその様子を心底嬉しそうに笑う。
また帰る頃に校門で会いましょう、と昼休みが終えると姿を消した天使は一体どこに行ったのだろうか。俺には知る由もない。

最後の授業を終えて先生さよなら、実弥ちゃんバイバーイ、と手を降って校舎を後にする生徒たちに「気をつけて帰れよォ」と気だるく声をかけて職員室へと戻ろうと教室に背を向けたところで鈴のような高い声に呼び止められた。

「不死川先生」
「あぁ?…竈門か」
長い黒髪を揺らして自分を呼び止めた生徒は、確か数学を受け持っている1年の竈門禰豆子だ。兄貴もこの学校にいたはずだ。
「先生、今朝はパンを買ってくださってありがとうございました」
「…あぁ、お前だったのか
悪いなァ、見たことある顔だと思ったんだが」
「いいんです、美味しかったでしょう?」
「あぁ、うまかったなぁ
また買いに行かせてもらうぞ」
「はい!お待ちしてます」
失礼します、と折り目正しく頭を下げて背を向けた彼女にどこかで会っていた気がした。
今朝ではなくもっとずっと遠い昔に。


てきぱきと問題も起きずに事務作業を終えることができて、なるほどこれも祝福なのか、とありがたく残業をさくっと切り上げて帰宅の途につく。

「不死川さん、帰りましょう」
校門に腰掛けて夕闇の迫る空を見つめていた名前がくるりとこちらを振り向く。そのまま夜空に帰るのではないかと思うほどに美しく思えて、目を瞬く。人ではない、その言葉通りに神々しく儚い。

「ところでお願いは決まりましたか?」
「いや、決まんねぇなァ」

人気の少ない帰り道なので小声でぽつりぽつりと名前と会話する。いつも一人で帰る道をこうして誰かと帰るというのは奇妙な感じだ。

「例えばだけどよ、明日もいい天気に、とか、家族の健康とか、そういうんでいいんかァ?」
「…なんですか、それ
もっと自分のことでいいんですよ、身長1センチ高くしたいとか、美味しいお肉が食べたいとか、お金持ちになりたいとか、すてきな彼女が欲しいとか、、幸せになりたいとか」
「はっ身長1センチ伸ばしてもらってどーすんだ
つーか、お前の能力1センチ程度なんだな?」
くるくると不死川の周りを旋回する名前は生真面目な顔で提案しながら困ったように眉を下げる。
「貴方はいつも、ずっと昔からこうですね
自分のことを顧みずに人のことばかり
祝福だってもっと自分に注げばいいのに、生徒さんや周りの人ばかりに分け与えて…
本当はもっと貴方自身に幸運が降るはずなのに」

寂しそうに笑って名前はその透き通る眼で我が子を見るような母親のような姉のような眼差しを向ける。
聖母がいるならきっとこんな顔なのだろう。俺は会ったこともないから分からないけれど。

「…そんないい奴じゃない
あいつらが数学わからねぇと結局こっちが時間取られるだけだろうが」
「もう、そんなことばかり言って…
じゃあお願いは私がきめますよ」

ぎゅっと両手を組み目を閉じた名前は囁くやうな小声でぼそぼそと何かを唱えると、ふわりと暖かい光が名前から溢れる。
本日何度目かの非現実的光景にぽかんとしながら見ていると名前が大きく両手を広げて重さのない体で抱きしめてきた。
温もりも重さもない、花の香りを纏った名前の腕の中はなんとと言えず心地が良い。

「貴方の人生に幸せを運んでくれる人と早く出会えますように」

耳元で囁かれた言葉の意味を理解したところで彼女の香りが離れていく。

「なんだよ、結局縁結びかぁ?」
「まぁそうですね
人のことばかりな貴方だから、自分を大切にできるようにするには可愛い恋人を作るのが一番です」
「そりゃありがたいこった」

天使に心配されるほどの恋愛事情であると思うと情け無い話だが、近頃の生活が家と職場の往復であることは否定のしようもなく、照れ隠しに顔を顰めると名前は嬉しそうに笑った。

「ごめんなさい、不死川さん
24時までのお約束でしたが祈りに力を使ってしまったのでもうそろそろお別れのようです」
「流石はベテラン天使だなぁ」
「もう、最後まで嫌味はやめていただけますか?
短い間でしたが久しぶりに人と話せて楽しかったです
もしまた見かけても話しかけちゃダメですよ?不審者になりますからね」
「テメェこそ余計だ」
イラっとしながら睨めば通じないとばかりに微笑まれる。ふわりと輪郭線が溶けるように消えていく彼女こそ、人のことばかりではないか、と思う。俺の幸福なんぞ願ってお前にはなにか得があったのか。人知を超えた存在に問返してもしかたがないのだろうか。
最後まで微笑みを残して消えた名前にもう二度と会うことはないのかと思うとすこし寂しい気がした。


数日後、お気に入りのカップを割ってしまい落ち込んだまま出勤すると校門で煉獄とばったり出くわした。

「不死川、おはよう!」
「おはよう、朝から元気だなァ」
「君は少し元気がないようだな」

マグカップを割って落ち込んでるとは言いづらく、ぱっちりとした猫目でじーっと観察されると居心地が悪いので早々に退散しようと足を早めると後ろからがばりと肩を組まれる。

「よし、今日は飲みに行こう!美味い店を宇髄と見つけてな!」
「あぁ?」
「魚がうまいのだ!煮付けも焼きもいいぞ!」
「わかった、行くから離れろ…」

声はデケェし顔が近いと煉獄の体を引き剥がそうと体をひねると、金色の輪が煉獄の背後に光る。
「わたし、この近くに守護している人がいるの」名前の言葉を思い出したのは、相変わらずイルカの如く遊泳しながら煉獄の肩に回した腕をひらひらと振っている姿を視界に入れた後だ。

よかった!夜が楽しみだ、とにこにこと笑みを浮かべる煉獄と、違う意味で微笑む名前を見やり大きくため息をつく。もう言葉は聞こえないようだったが名前の訳知り顔が雄弁に語っている。

「幸せを運んでくれる人と出会えますように」



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