kmt short story



いたわれない手も取り合って



誰にも縛られたくないという強い意志を表したような癖のない黒髪を肩に垂らして、少し不機嫌そうな顔つきで職員室に入って来た名字の姿が目に止まったのは彼女がちょっとした有名人だったからだろう。三年生の中でトップの成績を持つ彼女のことを悪く言う教師はいない。成績上位者というのは時々職員室でも話題に上がるものだ。クラス替えの際などは、そういう生徒がいるクラスを受け持つ方が楽な場合もある。けれど彼女はそういった類の生徒ではないだろうと杏寿郎の直感が告げる。頭はいいし、そつもないが、どこか斜に構えた態度は黙っていても滲み出る物だ。それに気づいたのは自分もそうやって「いい子」の皮を被るのが上手かったからだと思う。
はじめは、杏寿郎にとって名字名前の存在はその程度のものだった。


「不死川先生、質問いいですか」
「あぁ?・・・ 名字か、準備室で待っとけ」
「はーい」

同級生にも教師にも同じようにどこか冷めた態度で接する名字が、唯一その顔に年相応の表情を浮かべる相手がいることに気づいた。強面で口調の荒い、数学教師に向ける眼差しは憧憬だけではない色が含まれている。
職員室に入ってきた時と同じように、つまらなさそうな顔をして扉を出ていく名字のことを無意識のうちに目で追っていた。しばらくして机の上を几帳面に整頓してから少しだるそうに腰を上げた不死川にとって、名字は珍しく自分に懐いた優秀な生徒くらいなのだろう。彼から特別な何かを感じ取ることはない。

飄々としている名字が見せる、甘く、愚かな、十代の幼い眼差しをもう少し見てみたくなった。


名字は休み時間や放課後に、不死川の担当する数学の準備室に週に何度か入り浸っているようだった。彼女がそこに入る姿を新校舎の窓越しに見つけたのは一度や二度ではない。
不死川がいない日でも、彼女は書籍が詰め込まれた少し黴臭いその部屋で、一人参考書を開いていた。机の上に広げられたノートにさらさらと迷いなく文字を書いていく横顔を、廊下を通り過ぎながら伺う。正解を導くまでの間動き続けていたペンが止まると、彼女はふう、と息を吐くようにして背もたれに体を戻し横顔に滑る黒髪を耳にかけた。少しの間見つめてしまう程度には、その姿は美しく神聖に見えた。
若く未熟な生徒たちが時折見せる輝き。眩しく光るその顔を、あの愚かで熱に浮かれた顔に変えてみたい。そんな邪な欲がぐるぐると胸の内を巡り出すのを、杏寿郎は静かに受け入れた。


旧校舎の外階段は敷地の端に面しているため、外からは目につきにくい。行こうとしなければそんなところは誰の目にも触れない。一階は鍵がかかっているので、あの階段を使えることを知っている者は多くないはずだ。2階、3階からは階段の踊り場に出ることができる。ほら、こんなふうに重たい扉は内側からも、外側からも、開くのだ。

「名字、俺にも一本くれるか?」

喫煙を教師に見つかった割に、慌てる様子もなく白い煙を桃色の唇から吐き切った名字は、ようやくその顔に驚きを露わにした。

「あ、はい」
「ふうん、マルボロか。彼氏が吸ってるからか?」
「違うけど」

不死川が吸っているからか、と聞きたかったが少ししおらしくなった彼女に言っても仕方がないと思い、そのまま唇に煙草を加えてライターの火に顔を寄せる。華奢な手に握られたコンビニで売られているライターは、自分が持つよりも随分と大きく見える。赤く火種の移った煙草の先を離して、一息吸い込むと慣れ親しんだ匂いと味が肺を満たす。じっと杏寿郎の動作を見守る名字と目が合うと、その瞳が泳ぐ。逃げるように同じように煙草を咥えた彼女は、存外その年齢に見合ったところもあるのだと一人笑ってしまう。優等生の名字が被る仮面が、杏寿郎にはもう効かないことが原因だろうか。

「うまいなぁ」
「先生煙草吸うんだね」
「意外か? 教師なんてストレスしかないからな。大人だという顔をした考えなしの子供の相手をするのが好きな大人はいないぞ」

耳まで赤くした名字は、自分が生徒や教師をどこかで馬鹿にしていたことを指摘されたと思ったのだろうか。優等生としてあり続けることに関しては、杏寿郎の方が得意だ。いい子のフリはもうずっと骨の髄まで染み込んでいる。

「君のことじゃないよ、名字。またな」

そう言ってわざとにこやかに微笑んで、名字の頭をひと撫でする。想像していた通り、細くさらさらとして真っ直ぐな髪質は杏寿郎の指から逃げるように風に舞う。戸惑いとともに熱の籠もった彼女から目を逸らさずに通り過ぎれば、同じ煙草の匂いがした。階段を降りながら、誰も解けないような難問を涼しい顔をしてすらすらと解いていた彼女の高潔な美しさが己の手の中に落ちてきたような心地がして、一人でに口元が緩んでしまった。


次のきっかけは、こちらから動かずとも向こうからやってきた。

「やぁ。今日も吸うのか?」

前回よりも少し落ち着いた様子の名字は、開いた扉をのろのろと閉める。こちらを見定めるような視線に、にこやかに微笑んで見せた杏寿郎は手に持った煙草に口をつけた。

「私じゃなかったら、どうするの」
「別に俺が喫煙していても咎める人はいない。まぁ生徒の目の触れないところがベストだろうが、ここはそうそう人のくる場所じゃないだろう」
「そう」

淡々とした問いかけに応えると、名字は目を伏せて黙ってしまった。身を守るように右手で左腕を掴んだ名字の前に、吸いかけの煙草を差し出す。

「吸ってみたい?」
「…え?」
「この前は俺が名字にもらったから。今日は俺のをあげようか」

一度杏寿郎の目を探るように見上げた後、名字は少し背を屈めるようにして差し出した煙草に唇を当てる。煙を吸い込む動きとともに、指の腹に湿った柔らかな感触がして、またあの欲が蠢き出すのを感じる。

「どうだ?」

誰にも染まらないと高を括っていた彼女の顔が、ほんのりと熱を帯びる。海外メーカーの甘い煙の匂いが二人を包んでここだけが夜のようだ。

「もういっかい…」

甘えるような舌っ足らずな声でねだられ、もう一度同じように煙草を差し出す。先ほどと同じように指先に触れた名字の唇が、より鮮明にその艶やかな柔らかさを残して離れていく。唇から吐き出された煙が上へ上へと伸びていくのをぼんやりと見送り、短くなった煙草を最後に一口吸い込むと、それはさっきよりも随分甘いものに変わっているような気がした。

「煉獄先生、あの…」

いつか不死川に向けられていた、あのとろけそうな視線を杏寿郎に向ける名字は、困ったように眉を下げて叱られるのを待つように杏寿郎の言葉を待っていた。とびきりの輝きを掌にそっと仕舞い込むように、杏寿郎はにこやかに微笑む。

「いい子の名字なら、秘密にできるだろう?」

外階段の手すりに吸い殻を押し付けて火を消しても、二人を取り巻く甘い煙だけはまだそこに漂っていた。




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