kmt short story



ならずの種を撒く



※煉獄さんが悪い大人です。ダメそうなら閉じてください。


叱られるんだろうなと思ったけれど、もう手遅れだろうから唇に咥えた煙草の煙をゆっくりと吸い込んで、ふぅーーと長く、諦めのため息のように吐き出した。煙の向こうで、釣り上がった大きな猫目が細く歪む。

「名字、俺にも一本くれるか?」


昼休みの最初の10分間は、息が詰まりそうな高校生活の中で私にとっての唯一の逃げ場になっていた。成績はかなり優秀だし、去年まで所属していた陸上部でも上々の成績を残した。友人もそれなりにいる方だろうし、先生からの評価も悪くないはず。けれど私は学校という場所があまり好きではない。週に何度かは息苦しさに耐えきれずに逃げるようにいつもの場所に来てしまう。
資料室や空き教室の並ぶ旧校舎の3階は用事がなければ通る人がいないので、その奥にある外階段に座って煙草に火をつけるのがいつもの私のお昼休みの始まりだった。がちゃん、と閉めたはずの扉を開ける音を背後に聞きながら、たまに同じようにここで煙草休憩をしている不死川先生だろうかと思って振り向くと、燃えるような金と赤の髪を後ろでハーフアップに結んだ煉獄先生だった。

やばいな、と思った。
この人熱血タイプだから不死川先生みたいに知らぬ存ぜぬで放っておいてはくれないだろう。この階に数学科の準備室を持つ不死川先生はいつも見て見ぬふりをしてくれた。私の存在を見なかったものとして無視すると、1本だけ煙草をふかしてすぐに校舎に戻っていく。一度だけ吸殻は落とすな、と注意されたことがあっただけだ。
けれど煉獄先生の口から出たのは意外な言葉だった。まさか煙草を求められるとは思っていなかったので、一拍遅れてスカートのポケットから紙の箱を取り出す。

「あ、はい」
「ふうん、マルボロか。彼氏が吸ってるからか?」
「違うけど」

私の倍はありそうな男らしいごつごつした指の間に煙草を挟んだ煉獄先生に、ライターの火をかちりと点けて近づける。口元に煙草を引き寄せて伏し目がちになった先生の睫毛がびっしりと並んだ目元をまじまじと見ていると、火がついたらしい煙草を咥えた先生が顔を上げたので目が合ってしまった。悪いことをしているのは私だけれど、その相手から煙草をもらった先生だって教師という聖職としては、良くないと思う。それなのに、先生の丸い輪の連なった黄金色の瞳を見ていると、罪悪感が胃のあたりにぐるぐると渦巻いてきた。大きな獣に睨まれて、身を縮める草食動物のような気持ちを隠すように、少し短くなった煙草をもう一度吸い込む。

「うまいなぁ」
「先生煙草吸うんだね」
「意外か? 教師なんてストレスしかないからな。大人だという顔をした考えなしの子供の相手をするのが好きな大人はいないぞ」

私のことを言っているのだろうか、と羞恥で顔が赤くなる。理数科のクラスにいるので日本史は取っていないから、煉獄先生と話したのは初めてだが、噂と全然違う。彼は生徒から人気の優しくて明るい真面目な先生なんかじゃない。

「君のことじゃないよ、名字。またな」

先生は口元に綺麗な笑みを浮かべながらも、その目にはどこか揶揄いや値踏みするような光を湛えていた。私のあげた煙草をふかしながら外階段を降りていく先生は、すれ違いざまに頭を少しだけ撫でていった。あの大きくて硬い指が、煙草に触れた指が、私の髪を撫でたことが、心の表面をざわざわと波立たせた。



「名字。模試の結果よかったじゃねぇか」
「不死川先生、もう見てくれたんだ。数学どっちも9割越えだった、先生のおかげだね」
「いやお前の努力だろ。総合の方も全国順位に名前出てたぞ」
「よかった、これで3回連続だ」
「まぁ勉強は心配してねーけどよォ、あれだ、内申で下げられるようなことすんなよ」
「そうです、ね。気をつけます」
「ほんとになァ。面倒起こすなよ」

不死川先生は担任ではないけれど、進学希望の私にとっては生命線である数学の模試や過去問の解説などで度々助けてもらっている。先生のことは、数少ない好きな先生だ。大人として、相談したり、話を聞いてもらいたいと、頼りになると思える先生だ。
ほんの少しだけ、あの日あった煉獄先生とのやりとりについて話したくなった。誰にも言えないでいた秘密を、打ち明けたい衝動がずっと胸に燻っていたのだ。
でもそんな先生だからこそ迷惑をかけたくないし、幻滅もさせたくない。だからもうお昼休みの煙草はやめた方がいいのだろうと、頭の中では分かっている。

吸わなくたって生活できるし、休日に吸いたくなることはない。週に数回、昼休みに1本だけ。1箱買えば一ヶ月は持つ。これは学校という場所で、やってはいけないことをやるというスリルで高校生活や受験のストレスを誤魔化しているだけだって私だってもう分かっている。



結局打ち明ける勇気はなく、じゃあな、と日誌を片手に廊下を歩いていく不死川先生の背中を見ていたら、どうしたらいいのかわからなくなってきて結局また3階の階段に来てしまった。

「やぁ。今日も吸うのか?」

二度目でも見慣れない派手な燃える炎みたいな髪は、扉を開けるとすぐに目に入った。しまった、と思った時には振り返った煉獄先生にわざとらしいくらい和かに笑いかけられた。彼の右手にはもうすでに火のついた煙草がゆらゆらと細い煙を伸ばしている。

「私じゃなかったら、どうするの」
「別に俺が喫煙していても咎める人はいない。まぁ生徒の目の触れないところがベストだろうが、ここはそうそう人のくる場所じゃないだろう」
「そう」

会話をどうやって続けたらいいのかわからなくなる。私は何をしにここに来たんだろう。煙草を吸いたかったのだろうか。煉獄先生にもう一度会えるかもしれないと少しも期待していなかったのだろうか。自分の心がよく分からない。

先生の指にある煙草から煙る香りは少し甘い。風が急に凪いだのか、煙は流されずに私と煉獄先生を取り巻くようにこの場に留まって密度を増していく。

「吸ってみたい?」
「…え?」
「この前は俺が名字にもらったから。今日は俺のをあげようか」

そう言って先生は右手の煙草を唇で挟み一口吸い込んだ後、その吸い口を私の口元に向ける。ゆらゆらと立ち上る煙の甘さが毒のように体に巡り、私は先生の目を一度見てからゆっくりとその煙草を咥える。唇に先生の指の腹が触れていて、吸い込んだ煙草の味よりもその感触の方が気になってしまった。
先生の唇もこんな風に柔らかいのだろうか。

「どうだ?」

煉獄先生の目がうっそりと細くなる。甘い煙は口内から私の肺を染め、そのまま心臓までも真っ黒に染めていくようだ。これは、一人で煙草を吸っていたよりももっとずっと悪いことだ。不死川先生に言われたばかりなのに、煉獄先生の甘い煙ですっかり毒された私は甘えるような声を出していた。

「もういっかい…」

そう言った私の唇に、もう一度彼の吸った煙草が差し出された。




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