kmt short story



しばし永遠を待て



「坊ちゃん…?実弥坊ちゃん、いるんでしょう?」

名前は昔からぴぃぴぃとよく泣く女だった。成長した今でもそれは変わらない。
暗いところや人のいないところが怖いらしく、この広い屋敷の中でも建物の端に位置する使っていない部屋や物置になっている日陰の部屋に入るのは大の苦手だと知っている。それでも毎度そんな部屋にやってくる彼女はどう言うわけか、こと自分を探すことだけは鼻が利くらしく、うまく隠れてもいつのまにか見つかってしまう。

「坊ちゃん…」

名前の涙声をじっと我慢して聞き流そうとするのだがぐすぐすと泣かれると、どうにもやり切れなくなって仕方がなく声を掛けてしまう。

「泣いてんじゃねぇよ名前…怖いんなら入ってくんな」
「坊ちゃん…!!」

使われていない大きな家具に掛かったシーチングの陰から立ち上がると名前が涙声で駆け寄ってくる。丈の長いメイド服のスカートを揺らしてほっとしたように目元を拭うと遠慮がちに実弥の腕を取る。名前の母親が実弥の乳母だったので、幼い時から一緒に育った名前は主人とメイドの関係になった今でも、時折昔のようにてらいなく実弥に触れてくる。

「奥様がお呼びです。お部屋に来るようにと…」
「どうせきぃきぃ文句言われるだけだろ、行かねぇ」

父が連れてきた新しい母親は前妻の子供である実弥が気に入らないようだった。何かにつけて呼び出しては、躾がなってないだの、目つきが気に入らないだの、自分の産んだ子供達に悪影響だから近くなと文句を言うのだ。
それを知っていても使用人である名前は実弥を呼びに行くしかない。それがメイドの仕事であると分かっているし、ここで自身が呼び出しに応じなければ叱られるのは名前だ。

「分かりました…見つけられなかったとご報告してきますから、口裏合わせてくださいね」
「また怒鳴られるのお前だぞ」
「へっちゃらです
此方は埃っぽいのでお身体に触ります。お部屋に戻りましょう」

小さな両手に腕を引かれて明るい廊下に出ると、ほっと肩に入っていた力を抜いた名前の顔にようやく笑みが浮かんだ。年頃の少女らしく薄く施された化粧が涙のせいで少し滲んでいたが、赤くなった目元が艶めいて見える。
このまま行かせたら、きっと彼女はもっと泣くことになるんだろう。あの女から癇癪をぶつけられるであろう様子が目に見えている。

「お前もっとうまく生きろよなァ…」

他の使用人に見つからないようにこっそりと実弥を自室に送った名前は、困り顔で会釈をすると黒いスカートを翻して女主人の元へ向かった。いもしない幽霊やただの暗闇が怖いのだ。彼女にとってはあの女だって怖いだろうに、実弥に尽くす名前に良心がちくりと痛んだ。


翌朝、実弥を起こしに来た名前の左頬は赤く腫れていた。冷やしたのだろうが、それでもほっそりした白い顔には左右見比べるまでもなく跡が残っていた。無言でじっと見ていると気づいたのか名前はいつもは耳にかけている髪で隠すように頬を覆う。

「だいぶ、引いたと思ったのですが」

カーテンを開けながら言い訳のように言葉を零す名前は決して実弥を責めない。ベッドに体を起こしたまま動かない実弥の側にやってきた名前は怪訝そうにこちらを見る。水仕事でささくれた指先が遠慮なく実弥の額に触れた。

「実弥坊ちゃん?」
「坊ちゃんはいい加減やめろ、いくつだと思ってんだ」
「でも、坊ちゃんは坊ちゃんです…」

もごもごと言い訳する名前の頬にそっと指を触れると大袈裟に肩が跳ねた。痛かったのだろうかと顔色を伺うが、名前はぴしりと表情を硬くしていた。近くで様子を見て軽症だったことに安心するが、やはり昨日行かせてしまったことが悔やまれた。まさか手を上げられているは思わなかったので、自分が被るはずの役目を押し付けたことにに胸が重くなる。

「叩かれたのは昨日が初めてかァ?」
「…はい。あの、でも私が言いつけられた他の仕事も終わってなかったからです。奥様のドレスの刺繍、昨日までに出さなきゃいけなかったんですけど、まだ出来ていなくて…」
だから今日は一日針仕事です、と名前は肩を竦めた。

「…次何かされたらすぐ言えよ」

小さく頷いた名前はやんわりと実弥の手を離してそそくさと着替えを取りに行ってしまった。


名前が叩かれた日から、実弥は仕方がなく義母の呼び出しに応じることにした。自分が我慢するしかない、と諦めることにしたのだが、それでもやはり言われのない辛辣な言葉に腹は立つ。
日々苛立ちを募らせる実弥の不機嫌な様子に、使用人も必要以上に近づかず遠巻きにしていた。この家の主人はどこまでいっても親父と義母だ。雇われた彼らにとって疎まれている長男など関わるだけで損なのだろう。
家を継ぐことになど興味がない、学校を卒業すればすぐに何処へなりとも出て行ってやる。自身の腹から産んだ息子に跡を継がせればいいのだ、勝手にしやがれと毎度喉まで出かかった言葉を飲み込む。
自室に戻ってベッドにうつ伏せに寝転び、口に出さなかった言葉を体の中から吐き出すように枕に大きく息を吐く。反応しない実弥にそろそろあの女も飽きるのではないだろうかと、希望的観測を抱きながらごろりと寝返りを打つ。それ以上考えたくなくて瞼を閉じるとようやく少し落ち着くことができた。


「坊ちゃん、実弥坊ちゃん」
「ん…」

軽く肩を揺する感覚に瞼を開けると名前が心配そうにこちらを覗き込んでいた。滅多に見ない下からのアングルを見つめ、寝てしまったのかと瞬いてゆっくり身体を起こす。
夕食の時間をとっくに過ぎたのであろう夜の気配に、ぐうとお腹から空腹を訴える声がした。

「…笑ってんじゃねぇ」
「はい、ふふふ…、ちょうど軽食をお持ちしたところです」

ドアの前に置いていたワゴンを寝室の隣の部屋に運ぶ名前の後ろを歩きながら、いい匂いのする料理に厨房でわざわざ温めてくれたのだと知る。
自室のテーブルに学校の課題が出しっぱなしだったけれど、ささっと名前が片付けて一人分の食事スペースを作り席に着くよう促される。実弥の前に食事を並べると、紅茶の準備に取り掛かる名前に茶葉を聞かれる。パンを口に入れながらどれでもいいと手を振れば分かったよう、ではアッサムにしましょうと瓶を開く。
茶葉の香りにほうと幸せそうな顔をする名前の様子に、実弥は彼女にはずっとこういう顔でいて欲しいと思った。

「名前も俺に構うのやめていいんだぞ」

そうすればもう義母からの嫌がらせのような針仕事もひっきりなしの雑用も止むだろう。
ぽかんとティースプーンを持ったまま固まる名前は、次の瞬間にはじわりと目を潤ませていた。なんで泣くんだ、と困惑しながら慌てて食事を飲み込んでどうしたのかと声をかける。

「坊ちゃん、私がとろいから、嫌になりましたか…」
「はぁ?そんなこと言ってねぇだろうが」
「なら、私は坊ちゃんのメイドでいたいです」

ぽたぽたと涙を零す名前は眉を下げてすぴすぴと鼻を鳴らしていた。力の抜ける仕草にガシガシと頭を掻く。ただ彼女の身を心配して言っただけなのに、どうしてこんなこっちが悪者みたいな展開になるんだ。

「つか、お前俺のメイドじゃねぇだろ…不死川家に雇われてるんだぞ」
「私は実弥坊ちゃんのメイドですっ!坊ちゃんが出ていくときは私もお屋敷を辞めます…!」
「はぁ…俺についてきてもこんな豪邸で働けねぇんだぞ?分かってのかァ?」
「良いです。お給料だって少なくても、田舎でも、外国でも…私は坊ちゃんのお側にいるんです…」

大粒の涙を零す名前は口をきゅっと結んで実弥の目をじっと見る。その眼差しが主従の忠誠だけではない、男女の色が混じっていることは実弥でも分かった。
実弥とて昔馴染みの彼女のことを憎からず思っている。近い将来、名家の嫡男という地位を剥奪され、社会に放り出されるであろう自分が彼女を幸せにしてやれるんだろうか。

「…本当に大丈夫なのかァ?あとで話が違うとか言うなよ?」
「言いません…、坊ちゃんと一緒なら地獄でも構いません」

きっと目に力を入れて言い切る名前にこちらも肩の力が抜ける。
そもそもなんで最初から地獄行きと決めつけられているんだろう。自分で言う分には良いが、名前に言われると少しむっとする。こうなったら何が何でも幸せにしてやろうじゃないか。

「…なら俺が卒業するまでに、うまい飯作れるようなってくれよ」

頬杖をついて、俺の負けだと言うように力なく笑うと、名前は大きな目を瞬いてからくしゃりとしたとびきりの笑顔を見せてくれた。



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