kmt short story



預ける心の一つか二つ



「杏寿郎、あなた迎えに来ることも出来ないわけ?」
「すまない、ご老人が道に迷っていたんだ」

困っている人がいれば誰彼構わず声かける善人を絵に描いたようなこの男、煉獄杏寿郎は言葉では謝りながらも特に悪いと思っていないように笑みを浮かべている。
お嬢様学校と言われる女子校に通う生徒たちはほぼ全員が自家用車での送り迎えで通学している。かくいう私もその一人なのだがこの執事兼ボディーガードは時間通りに迎えにこれた試しがない。私を主人として敬い面倒を見る気があるのかないのか、すまないと言いながら毎度授業が終わって暫くしてからしか迎えに来ないのだった。
友人のお迎えの様子を見ている限りでは杏寿郎に執事の資質があるのかは甚だ疑問であるが、顔だけはいい彼は穏やかな笑顔で私の手から教科書の詰まった鞄を受け取ると後部座席のドアを開ける。

「また随分と重い鞄だな」
「あなたが来ないから図書館でゆっくり本を選べたわ」

しまった、という顔をする杏寿郎を無視してベージュの革張りの座席に座ってシートベルトを付ける。運転席に座った杏寿郎は静かなエンジン音のセダンを滑らせるように発進させ、警備員に通行証を見せて公道に出る。私の好きなピアノの曲を流してからバックミラー越しにレモンとオレンジの瞳がこちらを見る。

「今日はどうだった?昨日頑張っていた化学のテストはできた?」
「そこそこできたと思うけど…一つ思い出せなかった」
「一つだけなんてやっぱり名前は優秀だな」
「普通よ、毎日予習復習してれば誰だってこのくらいできるもの」

日々学校と家の往復だけの私の生活は閉鎖的で結局話し相手は杏寿郎になってしまう。彼は昼間は父の仕事を手伝いながらも本業は私のお世話係として住み込みで働いている。月に8日程度の休みはあるのでその日は外泊もできるのに彼は毎日私の世話を焼きたがる。初めの頃に聞いた話によると結構良い大学を出ているそうだし使用人だなんてニッチな職を選ばなくても良いと思うのだが。しかも相手は私のような思春期真っ最中の生意気な子供である。むしゃくしゃするとすぐ喧嘩越しになる私の事を彼はまるで柳のように躱して気にしない。それでも彼以外には吐き出すところもなくこうしてつい嫌味を言ってしまうのだ。

「週末はどこか行く?」
「いい、テスト近いし家にいる」
「分かった。じゃあ俺も居室にいるよ、出掛けたい時は声を掛けてくれ」
「…杏寿郎休みでしょ、どっか遊びに行きなよ。別に私に付き合わなくていい」
「うーん、この前名前が美味しいって言ってた自由が丘のケーキ屋に行こうかと思っていたが男一人だとなぁ…」

信号待ちでブレーキをかけた杏寿郎はまたバックミラー越しに私の反応を見るように眉を下げる。大の大人が可愛い顔をして見せるのがおかしいけれどポーカーフェイスを崩さずにため息を吐く。

「混むのキライだから朝一じゃないと嫌」
「ありがとう!車に保冷バック積んでおく」
「…どうせ二人なんだしそんなにたくさん買わないよ」

本当は杏寿郎は甘いものがそこまで好きじゃない。
知ってるけど知らないふりをして出かける約束をしてしまう。彼はきっと可哀想だと思ってるんだろう。私が一人ぼっちで可哀想だから仕事以上に関わって優しくするんだ。放っておいてくれと思いながらも、もう随分と長い間側にいるこの男がいなくなったら私は本当に一人ぼっちになってしまうから、それが怖くて差し出された手を振り払うこともできないでいた。


「夕飯は何時がいい?」
「先にお風呂に入るから、その後にする」

開けてくれるドアからマンションの駐車場に降りるとピコピコと電信音を立てて杏寿郎が車をロックする。地下の湿った匂いが漂う中を何も持たずにエレベータまで歩くと後ろから杏寿郎が私の鞄を片手に追いかけてきて手袋を嵌めた指で上向きの三角印を押す。高周波の機械音がなって光のお城のようなエレベータが開くとさっさと奥に入ってしまう。パネルの前で最上階を押した杏寿郎は振り返ってこちらに笑顔を向ける。

「今日は中華料理らしいぞ」
「そう…お腹空いてるなら先に食べていいよ」
「名前は俺が一人の食事が苦手だと知っててそういうことを言うからな」

チン、と上品な音を立てたエレベータのドアが開くと杏寿郎が先に降りてからドアが閉まらないように手を伸ばす。動きに合わせて黒いスーツの生地に皺が走り、鍛えた体のラインが窺い知れる。きっとこんな仕事してなかったら、彼女とかいるのだろう。好き好んでこんな性格の悪い私のお守りなんかしなきゃいいのに。
カードキーを翳して家に入ると家政婦さんはもう帰ったようでしんと静まり返っていた。杏寿郎の言った通り中華料理のごま油の匂いがするリビングを通り抜けて奥の自室に向かう。マンションは二人で住むには広すぎて部屋を持て余しているし、父が勝手に雇ったインテリアコーディネーターが好き勝手触ったのでモデルルームのようでいつまでも余所余所しい。
自室に入るとまたしんと音が消えて、自分の呼吸音しか聞こえなってぞわりと恐怖みたいな寂しさがやってくる。目を閉じると言い争う声や真意の見えない空虚な目がたくさん浮かんできてずるずるとドア伝いに座り込んでしまった。三角座りの膝の上に腕を組んで顔を伏せて早く大人になりたいと心底思う。

ふと耳に調子の外れた鼻歌が聞こえた。杏寿郎だ。ぼうっとフローリングの木目をなぞりながら下手な鼻歌を聞いているとぐぅとお腹が鳴った。

「おや、お風呂はいいのか?」
「お腹空いたの」
「よし、じゃあ温めてくるから待っていて」
「ん」

リビングでPCを触っていた杏寿郎は心得たとばかりにアイランドキッチンに向かい電子レンジにお皿を入れていく。白米を装ってくれるが多いので杓文字を受け取って半分炊飯器に戻すともう少し食べた方がいいと小言を言われた。杏寿郎の分はお茶碗から上方向にはみ出るように盛り付けてテーブルに持っていく。

「手伝ってくれて悪いな」
「このくらい、手伝いにならないよ」
「そんなことはない、名前は気が利くな!流石だ!」
「あっそ」

温めたおかずが並んだテーブルで向かい合って夕飯を取る。杏寿郎は何でも美味しいと言ってその口に放り込む。プロの料理だから不味いわけはないのだが、彼が美味しいと言うのを聞いてから食べると確かにいつもよりも美味しく感じるから不思議だ。

「食事中に何だが…保護者向けに学校からメールが来ていた。来月三者面談だそうだな」
「うん。どっちか来るのか二人とも来ないのか聞いておいて」
「社長には聞いておくよ。奥様には…」
「…私聞きたくない。杏寿郎やって」
「そうだな…君の頼みだ!任せてくれ」

杏寿郎の嘘つき。私の頼みじゃなくて父に雇われているからだろうに、わざわざご機嫌を取るようなこと言わなくていいのに。

「杏寿郎のお給料っていくらなの」
「いくらだろうな?あんまりきちんと管理していないからな」
「…私がお金払うから杏寿郎、一日父親のフリしてよ」
「名前、お金で人のことを好き勝手動かそうとするのは良くない」

珍しく真顔で叱られると蟠っている反抗心に火がついて自分でも制御できなくなっていく。それを自覚しながらもお箸を置いて父の置いていくお金の入った封筒を取ってきて杏寿郎の前に置く。

「杏寿郎は雇われているんでしょう、じゃあいいじゃん、私に雇われればいい!
どうして言うこと聞いてくれないの。私の頼みなら聞くって今言った!」
「名前、落ち着いて」
「落ち着いてる!なんで…なんで何ひとつ思い通りにならないの!」

気づくと涙がぽたぽたと頬から落ちていく。びっくりした顔の杏寿郎が慌てて立ち上がって小さい子をあやすように私の背中をよしよしと撫でる。体温の高い手から背中に蜂蜜のような優しさを注がれているみたいで涙が堰を切ったように溢れる。

「大丈夫、大丈夫だ。ほらおいで」

そのまま杏寿郎のワイシャツに押し付けられるように頭を抱えられてすっぽりと体を包み込まれると香水のような男の人の香りがした。

「よく我慢している。むしろ我慢しすぎだ。
名前、大丈夫だ君は健やかに育っている。普通の反応だ、無理に大人にならなくていいんだ」

『いい子にしててね』そう言われ続けて育った私はいい子のはずなのにちっとも幸せじゃない。

「杏寿郎だっていついなくなるか分からない」
「はは、だからいつも意地悪ばかり言って試してるのか?
大丈夫、俺はずっとそばにいるよ」
「嘘つき。彼女できたら厄介になって辞めちゃうんでしょ」

顔が見えないことをいいことに、泣いているせいでぐずぐずに震える声でいつも言えないことを言ってしまった。いつかいなくなるなら優しくしないで欲しい。甘えて良いんだと思わせるような態度を取るなら責任持って最後まで一緒にいて欲しい。お金しかくれない父親や、男の人にしか興味のない母親みたいに捨てちゃうんなら最初から期待させないで欲しい。

「名前のそばにいなくちゃいけないから、一生彼女は出来ないだろうな」
「馬鹿じゃないの。私高校生だよ、ロリコンじゃん」
「傷つくな…俺と君はそんなに年は離れていないぞ。それに名前から俺を選んでくれない限り何もしない」

そうだっけ、何歳なんだっけと急に冷静な思考が入ってくると涙がすぅと引いていく。すんと鼻を鳴らしてシャツから顔を上げると杏寿郎が撫でていた手を止める。張り付いた前髪を大きな手が壊れ物を触るようにそっと整えてくれた。口では好きだと言うようなことを言っても、私のことを見る目も手つきもいやらしさは無く、いつも通り世話を焼く延長線上だ。

見慣れた顔だと思っていたけど近くでじっと見ると、彼の目はこんなに優しい色をしていただろうかと不思議に思う。善人だとは思っていたが慈しむという言葉がぴったりだ。

「私がお金持ちのお嬢様じゃなくなってもそばにいるつもりなの?」
「もちろんだ。金など払わなくても、もうとっくに俺は君のものだ」

安心すると良い、という杏寿郎は最後にもう一度柔らかく体を抱きしめてくれた。それは父や兄のような親愛と、友達のような気安さと、男の人だと意識させる少しの色気のようなものがほんの少しだけ混じった、心を抱きしめるような抱擁だった。



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