kmt short story



愛を抱いた息吹



神さま、神さま、狐の神さま。
人の子らの望みを叶えてくださるお優しいお狐さま。
どうか私の願いも聞き届けてください。


お狐様を祀った本殿を中心にぐるりと円形のお庭を持つここは、平安の頃に出来たと言われる由緒正しい神社だ。緑豊かな本殿は参拝者向けの拝殿とは別で、お庭への入り口には結界の留石を配置して外界から仕切られた聖域である。神社の奥にひっそりと佇む本殿に毎朝お供えをお持ちするのが名前の務めであった。

掌に乗るほどの留石の前で一礼してから石の横を通ると、空気がすぅと薄くなる。お供えを両手で持ちながら慣れ親しんだ神様のお庭を進むと、足首にふわりと柔らかい感触がする。

「杏寿郎様、お止めになってください。転んでしまいます。」
ぴたりと足を止めて何も無いように見える空間に向かって声をかける。
空気の揺らぎのように姿を現したこの本殿の主人である杏寿郎様は、立派なふわふわの尻尾とピンと立ったお耳をぴくぴくと動かしてご機嫌そうである。

「転ぶ前に俺の胸で抱きとめてやろうと思ったのに」
「それでは供物がダメになってしまいます」
「よいよい、どうせ形ばかりだ!俺はそれは食わんからな」

毎朝こうしてその立派な金色の尻尾であれやこれやと悪戯を仕掛けてくるこの神様は、古くは京の都にお住まいのお稲荷様の使い魔の狐だったそうだ。だが人を愛し、所願成就の神としてこの土地で信仰されるうちに彼はいつしかこの神社の稲荷の神として祀られるまでになったらしい。本人談であることと、彼が私を揶揄うのが好きなことを鑑みれば少し脚色されている気がしないでも無い。

「そうは言ってもこうやって私がお供えをすることも、杏寿郎様の神様としての存在を確かにするために必要です」
「む、最近名前は賢くなってきたなぁ
ではいつも通り置いておいてくれ」

金糸に紅を散らした鮮やかな髪と同じリズムでふわふわの尻尾を揺らして前を歩く杏寿郎様の後ろをついて本殿にあがる。巫女服の紅色袴の裾を揃えて膝を付き、祭殿の前に今日の分のお供えをして手を合わせる。

「掛けまくも畏き 稲荷ノ大神
御前に御食御酒種々 かく捧げ申す
祓い給へ 清め給へ 
白すこと聞こし召せと 畏み畏み白す」

最後に頭を下げて定位置にお供えすると、杏寿郎様は上座に座ってにこにことこちらを見ていた。

「祝詞もうまくなったなぁ、初めてこの庭に迷い込んできた時はこんなに小さかったのにな!」
親指と人差し指で一寸ほどの隙間を作って笑う神様に、流石にそこまで小さく無いと首を振る。
私はこの神社で育ったので他は知らないけれど神様とはこうも気安いものなのだろうかと、疑問である。

杏寿郎様は人が好きだ。
参拝に来る人々の身分に拘らず、多くの願いを聞き届けてくれる。
彼はこの聖域である本殿から人のうつし世を眺めては、よく愛いと口にする。短い生を謳歌する私たちのことを見守り、時に助けてくれる神様を人々もまたお狐様と大事に祀って来たのだ。

本殿の中の掃除を始めようと手巾を取り出すと、先にこっちだと杏寿郎様に手を取られる。
大きな手に引かれるまま胡座をかいた足の上に座らされると、白い狩衣からお香だろうか、いい香りがするのでついすんすんと吸い込んでしまう。

「今日もよろしく頼む!」
「…十分毛艶は綺麗だと思うのですが」
「駄目だ!昨日雨が降ったから少し広がってしまった」
「そうでしょうか、いつも通りご立派にふわふわですよ?」
とにかくやってくれと櫛を手渡されてふわふわの尻尾を器用に動かして私の前に持ってくる。神様の足の間に座って尻尾に囲われると逃げ場もないので、そのうっとりするような手触りの尻尾に櫛を通す。ふわふわの柔らかい毛は櫛で梳く度に、黄金の波が寄せては返すようでついつい夢中になってしまう。確かめるように指を沈まさせるとなんとも言えない心地よさでずっとこうしていたくなる。

「はっ!夢中になってしまいました。だからこのお役目は駄目なのです…」
すっかり艶々になった尻尾をうっとりと夢見心地で触っていたが、まだ掃除もしていないし朝のお勤めが遅いと叱られてしまう。
「何故だ?名前にこの毛艶を出してもらうのは大事なことだぞ」
「私もこのお役目はすきです。ですが他にもやらねばならないことがあるではないですか」
「むぅ…君はこの役目だけでいいじゃないか。他は他に任せれば良い」
「そうはいきません!」

意を決して極上の手触りに仕上がった尻尾から手を離して杏寿郎様の元から立ち上がる。まだいいではないかと文句を零しながらも杏寿郎様は尻尾の仕上がりを満足げに撫でてから、手巾を手に準備し始めた私の様子を見てふらりとお庭に出て行ってしまった。
出端を挫かれた掃除を再開し、廿木で塵を落とし、木目の美しい床を拭く。最後にお供えのお水を換えてこれで良いだろうと本殿の扉を閉める。

草履に足を通してお庭の方を見れば円状の広い庭の中心で人の声に耳を澄ますように目を瞑った杏寿郎様が佇んでいた。ここはいつも音が木々や石に染み込んでいくようで、しんとした静かな空気が満ちている。見てはいけないもののような厳かな彼の神性に触れると、小っぽけな私の胸の中を見透かされるのではないかと体が強張る。

神様だ。彼はどんなに気安くその姿を私たちに見せてくれても、人とは違う千年も万年も生きる神なのだ。

朝日の中で琥珀の瞳が透けるように輝き、ふいとこちらに向けられるとどきりと胸が跳ねる。
遥か遠くまで見通すその瞳は、願い事をした人々のこともよおく知っている。
だから私は杏寿郎様には願い事が出来ないのだ。決して見られてはいけない気持ちがあるのだから。

「今日も一日よく励むのだぞ!」
「はい、頑張ります」

よく通る声とにこやかな笑顔に見送られて聖域を出ると、拝殿には朝早くからお参りに来られた人たちがちらほらと見受けられた。


「名前、またお狐様とお話ししていたのかい?」
「宮司様、すみません遅くなりました」
「いやいや君は気に入られとるからね、杏寿郎様は良き神様だがちょいと気分屋だからな。名前に行ってもらうのが一番だ。
それと、今日は鳥居の外階段の掃き掃除も頼めるか?昨日の雨で落ち葉がたくさん溜まってしまってな…」
「分りました、行って来ますね」
「悪いね、ゆっくりでいいから無理しないように」

宮司様はここで身寄りのない子を引き取って育てている。かく言う私もその一人である。お金を稼げるようになるとここを出て村で暮らす者や都市に出て行く者がほとんどだ。巫女としてこの神社にも何人か残っているが皆年が離れており私が一番の若輩だった。
護符の清書や御祓の準備などの屋内の仕事を姉さんたちに任せて、外の掃除や本殿へのお供えが私の主な仕事になった。小さな頃からここしか知らないけれど、わたしはこの緑の綺麗な神社が好きだ。出て行くつもりも当てもないけれど、宮司様はいつでもすきにしていいのだと言ってくれる。
その度に私は首を振って言うのだ。私はここに、神様の側にいたいのですと。


箒をもって鳥居の外に行くと、宮司様の言う通り石段には落ち葉がたっぷり積もっていた。これは長期戦かもしれないな、とやる気を入れ直し一段目から丁寧に掃いてゆく。中段に差し掛かった頃、ふいに下の方から声を掛けられた。

「こんにちは!あの、お手伝いしましょうか」

赤味がかった髪を持った同い年ぐらいの少年が参道の下方からやってきた。人好きのする笑顔を浮かべて大きな瞳を輝かせる彼は身軽に階段を駆け上がってあっという間に隣に並ぶ。
「こんにちは。大丈夫ですよ、お気持ちだけで十分です。」
「でも…お一人だと大変でしょう?
俺も少しですがお手伝いします!」
でも、と否定の言葉が出る前に颯爽と各段に寄せられた落ち葉を籠に詰めて行く。手際のいい彼にありがとう、とお礼を言うとにこりと満面の笑顔で応えてくれた。

それからというもの彼とは時折顔を合わすようになった。いつもにこにこと笑みを浮かべて声を掛けては掃除を手伝ってくれたり、石段で少し話をする仲になった。変化のない生活の中で彼は新鮮だった。外の話を聞かせてくれたり柿や林檎をくれることもあり、瑞々しいそれらを杏寿郎様にお供えすると、彼は琥珀色の瞳でじっと見ていた。「また貰ったら持って来てくれ」果実から目を離さずに固い声で言われるので怪訝に思いながらもはい、と返事をする。彼は御供物を飾りとしか思っていないようなのに珍しいこともあるものだ。


「名前さんの神社はどんな神様がいるの?」
「狐の神様だよ。大きな尻尾に黄金の髪、透き通る琥珀の目を持った素敵な神様」
彼は驚いたように目をぱちりと瞬く。
「見えるの?その、神様が」
「神職だもの。見えたり聞こえたり、人によって違うけれど…私は神様とずっと暮らしているからかな、人と同じように思っているよ」
「へぇー!すごいね!じゃあ俺も今日はお参りして行こうかな」
いつも鳥居の外で話すだけだったので彼は神社の中には入ったことがないのだ。是非、と彼を我が家のような神社の中に案内する。
「お狐様はお優しい神様だから、きっとあなたの願いも聞き届けてくださるはず」
そうだといいな、と照れたような顔をして拝殿で手を打って目を瞑る彼は何をお願いしたのだろう。優しい人だからきっと杏寿郎様もいつものように、愛いなぁ、と言いながら聞いてくれているのだろう。


夕陽に変わり始めた日差しを背に鳥居の前で手を振って彼と別れる。
そろそろ夕飯を手伝わないといけない時間だ。住居の方へ向かおうとしたとき、本殿の方から呼ばれた気がした。空気の揺れは杏寿郎様の声が音なく響くようだ。

導かれるように留石の結界を潜ってお庭に入るといつもの悪戯もなく本殿の前に静かに佇む後ろ姿を見つける。
声を掛けることを躊躇わせる厳かな雰囲気に足が竦んでしまう。どうしてだろうか、よく知るはずの彼が知らない人のように感じる。

「今日は少し困った願い事があってな」

静寂を破った低い声と共に振り向いた琥珀の瞳に射抜かれる。燃える炎のように揺らめく光を宿す目に体を縫い止められたようで瞼すらぴくりとも動かせない。
「名前、俺はどうすればいいだろうか」
音もなく距離を詰められて目の前に立つ杏寿郎様を見上げると大きな手が頬を撫でる。爪の先が皮膚の上を傷がつかない微妙な力で滑って行く感触が擽ったい。
「杏寿郎様でも、困るお願いですか?」
いつのまにか腰にも手を回され、体が密着する体勢にどきどきしながら目の前杏寿郎様の胸に手を置いてどうにか距離を取る。どうしたのだろうか、今日はやけに距離が近いので恥ずかしくなって慌てて目線を下に落とす。
「あぁ・・君と恋仲になりたいという男がいてな。
どうしてそんなことになっているんだろうかと驚いたぞ?
この庭に快く入れてやって幼い時から大事にして来たというのに、今更人間の男になどやる訳がないだろう」
なぁ、そうだろう?と耳元で低い声で囁かれるとひくりと肩が跳ねた。

彼だ、きっと彼のお願いのことを言っているのだと分かると途端に体が熱を持つ。

「そんなに頬を染めて…名前もそういうつもりだったのか?」
「そんな…違いますっ!私は、決してそんなつもりでは…」
「人の子らはすぐ嘘をつくからなぁ…心も移ろいやすいし、俺はすぐには信じてやれないな。
この黒橡の丸い瞳も、長い髪も、白い手足も、あの男に触らすものではないと教えねばならんな」

慌てて否定して顔をあげると上から覗き込むように杏寿郎様の透き通った金の目に睨まれる。今まで感じたことのない恐いという感覚に足から力が抜ける。
神様はいつだって優しく、人を慈しんでくださっていたのに。どうして、と疑問と恐怖がごちゃ混ぜになって頭の中をぐるぐると廻る。

「ははっ、怖いのか?そうだ俺は名前をこの庭に一生閉じ込めておくことだって出来る。君は神に気に入られていると言うことが分かっていないな…」

頬を撫でていた手が顎の先から首筋を掴むように降りてくると、その手が少し震えていることに気がついた。怒った顔をしながらも傷つけないように必死に抑えてくれているのだと分かるとゆっくりと恐怖が体を抜けて行って、とくとくと心臓が脈打つ音が大きくなる。

「いいです、閉じ込めてもらっても…」

ゆっくりと自身の手を杏寿郎様の大きな手に重ねる。大きく見開いた琥珀の瞳が揺れる。必死に背の高い彼を見上げて縋るように重ねた手に力を込める。

「私も神様にお願いをしてもいいですか?叶えてくれますか?」

杏寿郎様のぴんと立ったお耳に唇を寄せながら、私はずっと胸に秘めていたお願い事を言うために一つ大きく息を吸う。これが言葉になって溢れたら、一体どうなるのだろう。


神様に隠されてしまいたいだなんて、そんな愚かな願いを彼は叶えてくれるんだろうか。



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