kmt short story



月に心はあくがれぬとも



どれだけ言葉であなただけだと言ったって人の心は分からない。
それでも私だけだと言ってくれるのなら今すぐ死んでしまいたい。そうすれば貴方の一番でいられた幸せな自分で黄泉の国に行けるのに。


「杏寿郎様は?」

黙り込んだ乳母の葵の様子にそう、と小さく笑って物語の文字にまた目を落とす。
ここのところ杏寿郎様はお忙しいそうで、ほとんど帰ってこないのだった。十五歳の私ならそれも仕方がないのだと、言葉通りお仕事が忙しいのだと信じただろう。今となってはあるものをないように見ることも、聞きたくないことは聞こえないようにすることも出来るようになった。疑いなどではなく、ここにいないと言うことが一つの答えである。


後見人として名前を育ててくれた杏寿郎様は傍目には兄のようであっただろうが、名前は物心ついたころから彼を兄だとは思っていなかった。
身体が大人になって契りを交わした夜は、この世の幸いを全て手にしたように満たされたものだ。憧れだった杏寿郎様の肌に触れ、その熱に浮かされて溶けてしまいそうだと交わる度に思っていた。愛いな、と琥珀の眼に浮かぶ金環を細めて微笑む彼の言葉でも、大事にされていると実感出来た。


それがどうだろうか。
ここのところ帰ってくるのは寝静まるころで、二人で話したのはいったい何日前だろう。それに輪を掛けるように、聞きたくもないような噂はどこからか流れてくるものだ。

「人の心は、空のように刻々とその色を変えるものなのね…」
「名前様…」

気遣わしげに眉を下げた葵に首を振って下がるようにいうと、また物語の文字に目を落とす。こうして物語の中に逃げてしまえば、日がな一日帰ってこない人のことを考えずにすむ。ただそれだけを理由に名前は屋敷にある本を目についたものから読み続けていた。
難しかった漢文は、説法を聞きに行くお寺の僧尼たちに少しづつ教えてもらい読める本も増えてきた。この屋敷にあるということは、杏寿郎様が読んでいた本ということだ。

「杏寿郎様に教えて欲しかったのに…」

心のうちから閉め出そうとしても、ふとした時にすぐ思い出してしまう顔はいつだって同じ顔だ。
優しく瞳を細める表情を瞼の裏に閉じ込めるように名前はぎゅうと目を強く閉じた。



「名前様、杏寿郎様がお戻りですよ」

今夜も蝋燭の明かりの元で本の世界に浸っていた名前は、葵の言葉に顔を上げる。ふわりと心が浮き立つような喜びが駆け抜けた後に、一体どんな顔をして会えば良いのだろうかとまた暗い気持ちが去来する。

「…そう、お迎えの準備を」
「どうされましたか、もっとお喜びになられるかと…」
「だって…どこに行って、誰とお会いになってらっしゃったのかなんて聞きたくないわ」

読んでいた頁を閉じると名前は小さくため息を吐いて、立ち上がる。女人は皆、このような気持ちを抱えているのだろうか。会いたかったはずなのに、胸が苦しくてつきつきと痛かった。



「ただいま、…俺の白百合は待っていてくれただろうか」
「もちろんです、奥でお待ちですよ」

杏寿郎は久方ぶりに帰宅した我が家にほっと一息つくと、顔を見れていない細君が拗ねてやしないかと心配しながら足早に名前の部屋に向かう。
夜は虫の音しかしない中、明かりの灯った部屋に踏み入れるとよく知った香の匂いがした。

「お帰りなさいませ、杏寿郎様」
「ただいま。すまないな、ここのところ顔を見せられず…」

名前の向かいに駆け寄るように座ると、ふいと彼女が視線をそらす。見間違いだろうかと視界に映るように首を傾げると、また反対方向に目をそらされてしまった。
これはもしや怒っているのだろうかと、杏寿郎が口を開こうとすると名前の方が一拍はやく口火を切った。

「今日はもう遅いのでおやすみなられてはいかがですか?御帳台をすぐに用意させましょう」
「眠くない!それよりも君のその態度の理由を聞かせて欲しい。帰らなかったことを怒っているのだろうか?」

名前の白い手の甲を掴んでこちらを見るように引き寄せると、強張った表情できゅっと唇が結ばれた。

「すまない、寂しい思いをさせてしまった。怒っているのか?東宮様にお仕えすることになったので色々と慌しかったのだ」
「本当にお仕事だけですか…杏寿郎様のお噂を聞くと私は…」
「うわさ…?」

杏寿郎は噂という言葉にはっとする。成人された東宮様の側近くで新しく仕えることになった者は自分を含め十人ほどいるが、宮中の女御に人気の高い男が多いので少し騒がれていると、同期の者たちが言っていたことを思い出す。
近衛符の馬術や弓術に長けた武官や、和歌や楽のうまい文官など良い人材を集めていると思っていたが、その中の何名かがもちろん夜の方も大人気だと自慢していたことを思い出す。
その事が捻れ伝わって名前にこんな顔をさせてしまっているのだろうか。

「名前、確かに外泊はしていたが女性の屋敷に行ったわけではない。本当に仕事で…」
「では言い訳などされなければよろしいのです…!貴方がどなたといらっしゃったのかなんて聞きたくありません」

白い顔を苦しげに顰めた名前はふいと顔を背けてしまった。
いつもの可愛らしい顔を見せて欲しくて、年下の妻の機嫌をとるようにその体をぎゅうと抱き寄せる。

「ふむ、最近だな?どなたと…主上と東宮様と、あとは同じ中将の宇髄殿と…そんなところだぞ!」
「…女性のお屋敷に何度も文を持っていかれたというのは?」
「あぁなるほど…俺がどこぞの女人に懸想していると思ったのだな!」

ようやく名前が黒い瞳をこちらに向けてくれた。ひどく傷ついたような顔をした名前は女の情というより、転んで擦りむいた掌を隠した童のようだ。まだ幼い彼女の心そのままの澄んだ目がまだ納得しきれずに懐疑の色を宿している。

「違うのですか…?どこぞの姫様へと送られたという歌をいくつか聞きました。貴方の歌に似ていると思ってしまいましたが」
「よく分かってくれたな!さすが俺の細君だ。あれは東宮様の意中の姫に宛てたものなのだ…ここだけの話だが東宮様は和歌があまりお好きでない。代理で気を引く歌を書くように申しつかったんだ。身分を隠して恋をしてみたいと申されてなぁ…まぁなかなか大変だ」

ここ最近の仕事は確かに仕事と呼べるような大層なものではない。まだお若い東宮のお相手、もといお目付役というのが本当のところだ。しかしそうは言っても次の天皇は彼だ。今上帝に命じられた任を疎かにするわけにはいかない。例えどんな突拍子もないことであっても誠心誠意お仕えしなければならない。
恋をしてみたいだなんて、そんなお願いであっても。


「…どうだろう、少しは許してくれたか?」

腕の中の名前の機嫌をとるように長い髪を撫でてみたり、小さな手を握ってみたり、可愛らしい顔を見せてくれないかと俯いた彼女を覗き込むように背を曲げる。
杏寿郎の胸元の衣を握ったまま、険しかった顔を今度は恥ずかしそうに赤く染めた名前と目が合うと、困ったように口を閉ざしたまま目線を下に向けてしまった。

思い返せばこうして怒った彼女を見るのは初めてだ。小さな頃は、双六で負けて悔しそうに頬を膨らませたり、好きな菓子を食べてしまったことで泣かれたことはある。しかし大人になった名前がこうして感情的になったのは初めてではないだろうか。いつもおっとりした彼女につんと冷たい態度を取られるのはなかなか恐ろしいものだ。

きっと今は怒りの矛先を失ってどうしていいのか分からないのだろうなと、その胸中を想像しくすりと笑ってしまう。


「明日は一日屋敷にいよう。なんでも名前の言うことを聞くから、許してくれるか?」
「なんでも…?一日中ですか?」
「あぁ!なんでもいい、だからはやく可愛い顔を見せてくれ」

ようやく少し顔を上げてくれた名前の手を握りこんで指先でその甲を撫でる。血管の上を這うように指先を動かすと、くすぐったいと名前がようやく笑顔を見せた。

「明日は覚悟してくださいませね、杏寿郎様」

杏寿郎の腕の中でこてんと首を傾げた名前は、恥ずかしそうに頬を染めながら今日初めて自分から腕を伸ばして抱きついてきてくれた。成人したとは言っても、未だ小さな身体を閉じ込めるように抱きしめて小さく息を吐く。内心名前の疑いに慌てていた心がようやく落ち着いた。
外泊が続いたことはこちらの不徳であるが、愛しい人に冷たくされるのは今日だけでもこりごりだ。


「俺は君に嫌われたら生きていけないな」

「ではいつまでも黄泉の国にいけなくなりますよ?」


耳元で囁かれた言葉に顔をあげようとすると、名前がもう一度ぎゅうと腕に力をこめて抱きしめてくれた。



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