暗夜の焔

第五夜

『雛、こっちに来てごらん』

私を呼ぶ童磨様の声はいつだって子供のように楽しげで軽やかだ。
男の人でこんなにも柔らかく話す人は珍しい。大きな声で怒鳴ったり、人のことを悪く言うのを聞いたことがない。けれど童磨様は時折こちらを試すような質問をなさる。私の価値観や考え方を確認する様な質問は、彼がこの大きなお寺の教祖様だからだろうか。私の考えが間違っていないか確認してくださっているのだと思いながらも、私が間違うことを期待しているのではないかとも思った。間違ったらどうなるのだろうか。

童磨様は足音がしない。わざと音を立ててくれるだけで、本当は足音一つ立てずに歩かれると知っている。人の匂いもしない。膝に抱き上げられても彼から香るのは、上等な絹の衣の焚きしめられた香だけだ。食べ物やお風呂の匂いのような、生活の香りは一つもしないのだ。そして彼は、拐われそうになった私を助けてくれた時、静かに人の命を奪ったはずだ。もちろんそこには私を助けるという大義があっただろう。しかし僅かな音や動作しか感じられなかったが、あの時男たちを殺したのは童磨様に違いない。とても静かで、命を奪うことに一切の躊躇もなかったように思う。これがはじめてではないのだろうと、あの後少し落ち着いた頭で考えてしまった。

彼はきっと人ではない。
では何なのだろうか。お優しい神様なのだろうか。童磨様は人のふりをされているのだから、それを暴くことは彼に助けてもらった恩を仇で返すことになるだろう。それにもしも彼が人でなかったとしても、人を殺す何かであったとしても、盲目の私にはそれを確かめる術はない。どんな異形の神であっても、それが醜かろうが美しかろうが私には大差がない。
私は相手がどんな人かをその言葉と行動でしか判断できない。その上では童磨様は限りなく善なるものだった。私を助け、救い、守ってくれる。私はそれが見せかけや上辺だけのものであっても、それを信じる以外に生きていく術を持っていない。

だから童磨様が人であろうがなかろうが、それは大きな問題ではない。そう、問題ないのだ。


「おかしなことを言うね、雛。俺が君を裏切ることなんてないよ」
童磨様の大きな手が頬を撫でる。少しかさついた体温の低い掌に向かって首を傾け、自らの両手でそっとその腕に触れる。
「そうですね。裏切りではないのかもしれません。私は私を助けてくださった童磨様を童磨様だと思っています。それ以外の貴方の顔は知りません。見ることもできませんからね」
自らの言葉を自嘲するように笑うと、童磨様の指が咎める様にふにりと頬を押す。

「君は不思議だね。見えないものをこんなにも信じれちゃうんだもんな」
「それは童磨様もでしょう」
「俺も? そうかな、君ほど人間を…みんなを信じていないよ」

それは初めて童磨様が私に零した、教祖という仮面を脱いだ一人の男の言葉だった。人を助け、人を救うという素晴らしい所業の裏で、これまでも今回のような事件を見てきたのだろう。私利私欲に負け、悪心を宿した人間の醜い一面に、何度も彼は打ちのめされてきたのではないだろうか。

「私は世界のすべてが暗闇で、なに一つ見るということはできません。でも人の心の内というのは、目が見えても、見えないものでしょう?」

だから「本当のこと」などと言うものが簡単に生まれる。だれもそれが本当かどうかなど確かめられないのだ。言われたことや、してもらったことが、私にとっての本当であって、心の中でなにを思い、どうしたかったのかなどは、知る術を持たない。それはすべての人間に共通する。人は人の心が見えないのだ。だからこそ人は人を信じる。信じるしかない。


「あはは、雛の言う通りだね。俺も信じることが出来ていたんだ、嬉しい発見だよ。雛はすごいなぁ。俺がずっと困っていたことにこうも簡単に答えをくれたね」

吹き出す様に笑い声を上げた童磨様は、両腕でぎゅうと体を抱きしめてくれた。いつもの童磨様の香りに包まれると、自然と口元が綻ぶ。いつしか童磨様の人の匂いが混ざっていないこの香りがすきだと思う様になり、この香りを探してしまうようになっていた。

「ねぇ、雛。ずっとそばにいておくれ。君の家の者迎えに来ても、帰らずに極楽教で生きていけば良いよ、そうしてくれる?」

童磨様がまるで迷子の幼子のように思えた。抱きしめ返そうと腕を伸ばすも背が高く、しっかりとした体躯には腕が回らない。それでも出来るだけ彼を包んであげようと体を寄せる。

「童磨様が許してくださる限り、私はここにいます」
「約束だよ、雛」

右手の指先をひやりとした体温の低い肌が触れる。するすると指先を人差し指から順に辿って、小指を絡める様に繋がれる。自分とは太さの違う指と引っ掛ける様に絡まった小指が熱くて、そこだけ私の体の一部ではないようだった。