暗夜の焔

第四夜

雛の綺麗な心をとても心地よいものだと感じていたのは、俺だけではないみたいだ。彼女のことを口にする信者が増えていることが、もやもやと胸の内に蟠りを作っていた。こんなおかしなことはあまりないのに、どうしたんだろうかと空っぽの胸を抑える。

「雛とおしゃべりしたいなぁ」

今日も今日とてずらりと列を作って俺に会いたいとやってくる、可哀想な人間たちの相手をしないといけない。いつもは仕方がないな、と思えるのに今日はどうしてかあまり気が乗らない。

人間は美味しいけれど、愚かで、とても馬鹿だ。群れるのが好きで、すぐに数が増えてしまう。数が増えたら無残様に叱られてしまうから、俺が食べてあげなきゃいけなくなる。
救ってあげてるんだから、食べられる時くらい静かにしてくれれば良いのにな。

「ねぇ終わったら雛を部屋に呼んで」
「承知しました」
「よろしくね」

扇をとんとんと手に打ち付ける合図で今日一人目の人間が部屋にやってくる。首を回しながら早く終わらないだろうか、と見慣れた天井を見ながら一つため息を吐く。



「ねぇ、雛は?どうしていないの?」

ようやく今日の面会を終えて居室に戻ったのに、そこにはあの子はいなかった。襖を開けた体勢のまま廊下に向かって首を回す。極楽教の信奉者であるこの従者が言いつけを守らないなんてことは、今まで一度もなかった。

「それが、見当たらないんです。今もお探ししているのですが」
「えー?いないの?」

困った顔で頭を下げる彼を通り越して、廊下の奥へと足を向ける。
逃げたのだろうか。あの盲いた目でどこにいけるのだ。一人では生きていくことさえままならない、不完全な人間ではないか。

「なんだろう、胸が痛い気がする」

何も感じないはずなのに、どうしたんだろうか。この体は年をとらないし、病気にもならない。無残様の血をもらって、生前からの心の空っぽは以前よりも気にならなくなったのに。
気持ちが悪いな、と着物の上から首元を撫でる。

その時ふと、血の匂いがした。
反射的に瞳孔がぴくりと動き、口の中に唾液が溜まる。甘い血の匂いはきっと女のものだろう、こくりと喉がなるのを止められない。

匂いの元を辿って建物の外に降りると、竹林に囲まれた庭の端からくぐもった声が聞こえる。汗と土の混じった男の匂いもする。何人いるのだろう、ひとり、ふたり…三人だ。勝手なことをされては困るのだ、という冷静な思考と、血の匂いに誘われてしまう鬼の本能が自分の中で渦を巻いている。

「何してるのかな」

女の子の腕を掴んで引づるように歩いていた男たちの背中から声をかけると、びくりと彼らが動きを止める。両側から腕を掴まれた彼女の口には布が詰め込まれているのだろうか、声にならないふぅふぅという息遣いしか聞こえてこない。ぎゅっと両目を瞑って涙を流している彼女こそ、まさに今まで探していた雛だった。

「おかしいな、雛は俺と約束があるんだよ」

一歩距離をつめただけで、ひぃっ、と男の一人が短い悲鳴を上げてその場から逃げ出した。それを合図にパッと雛を放り出して走り出した男たちに向かって扇を振るう。肺を壊死させるほどの冷気を浴びた男たちは、その場に倒れ込むと動かなくなった。


「雛、大丈夫かい?」

蹲っていた雛の背中を撫でてやりながら、俯いている小さな顔を片手で上に向ける。涙で濡れた頬と、赤くなった目元に、可哀想なことをするなと思う。口元に括られた布を解いてやると、雛は掴んでいた俺の腕を確かめるように何度も触って、ゆっくりと肩にもたれかかって来た。

「童磨さま、こわかった、こわかったです……」
「よしよし、部屋に帰してあげよう。泥がついてしまっているね。風呂に入って新しい着物に着替えるといいよ」

そのまま雛を腕に抱いたまま立ち上がると、ゆっくりと建物の方向に歩き出す。
転がったままの男たちをどう説明しようか、と考えながら雛の首元を見れば、刃物で傷つけられたのだろう、赤い筋がついている。血の匂いを吸い込むようにそこに鼻先を寄せると、このまま白い肌をがぶりとかじってしまいたくなる。雛は綺麗な心をもっているから食べるのはよそうと思ったけど、でもやっぱり置いておくって難しいものだな、とべろりと傷口を舐めてしまった。

「ひやぅ!」

雛が今まで聞いたことのないような声を上げて、ぱっと童磨の肩から顔を上げる。片手で首を抑えた彼女は、唇をわなわなと震わせて顔を赤くしていた。

「お、おどろいてしまって。童磨さま…?」
「ははっ、本当に雛って、幸運だねぇ」

雛の小動物みたいな反応が面白くて、食べようとしていた気持ちが違う方向に向いた。
いつでも食べられるのだ。雛の心が綺麗なままでいられるのかどうか、知ってからでもいいだろう。まだこの子は、救ってあげる順番じゃないんだろう。
腕に抱いた雛をもう一度肩にもたれかからせると、自分の衣から移ったのだろう同じ匂いがした。


雛が拐かされそうになったことは、そのあとちょっとした騒ぎになった。犯人は死んでいるので、俺は救えなかったことを悔やむようなことを言って、彼らの汚れた心が天に罰せられた結果なのだと皆には伝えた。これで納得されてしまうのだから、やっぱりは人は愚かだとがっかりしてしまう。


「童磨様」

すっかり身綺麗になった雛が、信者の女に手を引かれて部屋にやって来た。首には包帯が巻かれてて、消毒薬の匂いがきつく、血の匂いはしなかった。二人だけの部屋で雛を側に呼ぶと、大人しく近づいて来てくれる。向かい合うように座った雛の頬に手を伸ばすと、彼女はその手を迎えるように首を竦めて頬を擦り付ける。器用な猫のような仕草によしよしと顎の下を撫でてあげた。

「今日は大変だったねぇ、雛」
「…童磨様が来てくださらなかったら、きっとどこかへ連れて行かれてしまったと思います。本当にありがとうございます」

頭を下げる雛は、両手をきゅっと握り締めていた。怖かったのだろう、自分の命が脅かされる状況は彼女にとって初めてだったのかもしれない。

恐怖は死につながる感情だから不快なものだろう。雛は今その感情を感じているんだと想像する。なんて言ってやれば喜ぶだろうか、笑うのだろうかと考える。考えないと分からないが、俺の考えたことはだいたい合っているらしいので問題はないだろう。

「もうあの男とたちが君に危害を加えることはないから、安心していいよ」
「…はい。あの、童磨様は…」

雛は俺の顔を見ながら開いた口をもう一度閉じた。言い淀む姿に、なにかよくないことを言う前の雰囲気がある。もしかしてあの男たちに、粉凍りを吸わせて殺したことに気付いたのだろうか。勘がいい子は、どうしてか俺が人と違うことに気づいてしまう。これでも百年以上鬼をやっているし、人のフリをするのは上手くなったのだけどな、と昔の失敗を思い出しながら、雛の言葉の続きを待つ。

「どうしたの、雛」
「……いえ、なんでもありません。本当にありがとうございました」
「そぉ?じゃあいいや。……ねぇ、少し前の話を覚えてるかな?みんながいい人だとは限らないって話、したよね」
「はい。覚えています」
「君は人の善性を信じると言っていたけれど、こうして裏切られてしまったね。乱暴に扱われて、君の意思を無視した行いを受けて、怖かっただろう。雛のように綺麗な心を持つ人は少ないんだよ」

俺の話をじっと聞いていた雛は、閉じた瞼をぴくりとも動かさない。動揺も恐れも怒りも見せない彼女に、少し煽ってみたのに無反応でつまらないなと頬杖をつく。

「……確かに、人を信じてこうして私は裏切られました。彼らには明確に私を傷つける意思があったと思います。けれど、彼らにだってなにか大事なものがあったかもしれません。話し合えば、こんなことにはならなかったかもしれない。それに、信じることを止めてしまっては、私はこの暗闇から動けなくなってしまう」

雛はそう言って寂しそうに微笑んだ。

「だから、もし童磨様が私を裏切っていらっしゃるとしても、私はあなたを信じるしかないのです」

おかしいな。雛の目は暗闇を映しているはずなのに。明確に言い切った彼女には、人の血肉を貪る鬼の顔が見えているのだろうか。