暗夜の焔

第二夜

ころころと鈴を鳴らすような高い笑い声が聞こえるようになったのは、いつからだろうか。
雛は明かりを感じ取れるくらいは出来るらしく、それに気づいた信者が彼女に一番日当たりの良い部屋を私室に与えたらしい。それなりに打ち解けた雛の部屋に女性たちは日中よく集まっては、彼女に話を聞かせたりしながら手仕事をしているようだった。
どうも彼女は人に好かれる質のようだ。


目の見えぬ不自由な女として厄介に思う人間も多いだろうと思っていたのに、俺の予想に反して彼女への手助けは皆自発的に行なっているようであった。朝起こしに行くもの、着替えを手伝うもの、食べやすいように手で掴めるように米を握ってやるもの。
雛の口から楽しそうな日中の生活ぶりを聞きながら、不思議な気分になる。

人は醜く、愚かな生き物のはずだ。

聖人君子なんていないのに、どうして雛はこうも清らかな心で過ごしているのだろうか。そういう風に見せ掛けているのだろうか。苦労が多いはずの生い立ちに添わぬ彼女の言葉や行動は俺にとっては全く分からないものだった。


「雛、今日もお話ししよう!」
夜、日が沈んだ後に雛を呼んでもらうと既に入浴を済ませた後のようで、水気の残った短い髪が灯りに照らされて艶々としていた。
「童磨様、こんばんは」
「やぁ、会えて嬉しいよ。今日も雛の話を女の子たちから聞いたよ!みんなと仲良くしてえらいね」
「私は一人では生きていけませんから、みなさんが良くして下さっているんです。だから私はえらくもなんともないのです童磨様」
雛の側に座るとふわりと石鹸の香りがする。まだ乾ききらない短い髪の指を通すと雛は驚いたように体を震わせてこちらに顔を向けた。
「あぁ、ごめんね触るよって言わないと分からないよね」
「童磨様は気配というか、動きの音や振動が少ないので…驚かされてばかりです」
「そお?じゃあまた驚かせてあげるね」

気配なんてあるわけないからわざと音を立てないとおかしいのか、と当たり前の人らしいことをしないと不自然に感じる雛の感覚器官の敏感さに気をつけようと思う。勘のいい子たちは少しでも普通じゃないことがあるとすぐに調べたがるから困ったものだ。鬼だと知られたら食べるしかないので、あんまり探ったりせずにいつも通りにしていてくれたらずっとこの極楽教で俺が生かしておいてあげるのに。

「ねぇ、雛最近あの杖使ってないよね」
かつんかつんと床を打つ飴色の杖の音を聞かなくなったことを思い出し尋ねると、彼女は嬉しそうに頬を綻ばせた。
「ここの造りもだいぶ覚えましたし、手を貸してくれる方がいるので無くても移動出来るようになりました」
「へぇ、もう覚えたんだすごいね!でも怖くないのかい?みんながみんないい人だと良いけれど、そうじゃないこともあるだろう?」

見えないということは、急に道が終わっていても気づかないわけだ。新しいものを通路に置かれると知らずに毛躓く。信頼して手を借りても裏切られるかもしれない。

最近入った信者に盲目の少女がいると少し上擦った声音で話していた男たちをがいることを俺は知っている。
彼らの浅はかな思考にほらね、人ってこんなもんだよね、とまた愚かな生き物であることを見せつけられた。もちろん俺が大切にしている女の子に手を出すことは出来ないんだろうけど、それでもあわよくばその機会を狙っているんだろう。

人を信じるのって難しいことだよね。
俺だって彼らを信じていたのに、こうして醜い本性を見せられて裏切られているんだ。

「…童磨様は怖いものがありますか?」
雛は少し考えた末に俺に質問を返してきた。答えないのに質問されるのはあまり好きではないんだけど、雛だから許してあげよう。
「そうだなぁ、たくさんあるよ?」

本当は怖いものなんてない。無残様は怖いとは違う、もっと畏怖と敬愛と混じったような、それこそ神のような俺の生命の起源なのだ。
俺は人々が怖いものを知っているから、なぜそういうものが怖いのかと恐怖の原因を理解できないけれど、知っているからこそ怖がる振りをしてあげられる。恐怖をわかってあげられるし、怖くないのだから取り除いてあげることも出来るのだ。
俺ってやっぱり優しいよね。

「そうなのですね、私もです。雷や、大雨、地震や火事、見えない分、よく聞こえるので大きな音も得意ではありません…でも人は恐くありません。私が目を盲いているように、きっと皆何かしら足りぬものを持っているのです。目が見えて、声が聞こえて、伝えたいことを口にできても、きっと何もかも揃った人などどこにもいないのです。人は皆完璧ではないと、そう思えば恐くはありません。」
「不完全を受け入れているから、人の不完全も受け入れられるってこと?」
「はい、なにか良くないことがあったのならその時、その方がなにかを亡くしていらっしゃるのでしょう。でも私の目は治りませんが、人は変わることができますからきっと善なるものを慈しむ心を思い出すと思うのです」
「でもそれだと何も悪くない雛が可哀想じゃないか」
「童磨様…そうやって私のような弱い者へも目を向けて下さっているということだけで、私は十分救われます。童磨様は見知らぬ私をなんの対価もなく救ってくださいました。今まで出会った方の中で貴方ほど素晴らしい方はいません」


悪意も愚かさも人の性だと言う雛の言葉を聞きながら、じゃあどうしてこうも心が綺麗な子と醜い心を持った子が生まれてくるのだろうかと考える。
人は変われると言うが、本当にそうだろうか。俺はそんな人間を見たことがない。すごく昔の記憶だけど自分が人だった時も何も感じれなかったし、それは鬼になっても同じだ。生まれついての悪人は善人にはなれない。愚かさは治らない。

「ありがとう、雛!俺も君みたいに人を信じれる優しい子は初めてだよ」

雛の見えない目で彼女は世界をどんなふうに見てるんだろう。
その景色が見れたら俺も同じように見えるんだろうか。

嬉しそうに笑う雛の方手を伸ばして短い髪を撫でる。今度はちゃんと音を出したから雛はこちらに顔を向けて擽ったそうに小さく声を漏らした。もう髪はすっかり乾いていて、指先をすり抜けるように流れていく。

「髪伸ばしたらいいのに、きっと可愛いよ」
「でも手入れが出来ないので」
「大丈夫、皆で結ってあげるよ」

切りそろえられた髪が肩につく頃には、彼女も逃げ出した女中のことを恨んだり、諦めたりするんだろうか。
綺麗な心の子がいつまで綺麗でいられるのか知りたくなった。