君といた或る場所
瑞々しい花に似た水気を帯びた香りが室内に立ち込める。もうすぐ雨が降るのだろう。
朝から曇り空のウルク市街は人出が少なく、皆雨に備えて家にいるようでいつもは活気に満ちている城下も静かなものだった。
工房に顔を出して来月分の発注数や工程の確認をしてから急ぎ足でジグラットへと戻る。
ぱらぱらと雨粒を肌に感じ始めたところで頑強な建物の下へ駆け込むことができた。
頭を軽く払って水滴を落とし仕事部屋へと向かう。粘土板の作製と管理を任されてた書記官として王宮に勤めて暫く経つが、王の住う高層階へは未だに立ち入ったことがない。書記官の仕事場は王宮の一部でありながらもそれでいてウルクを治める王と相見えることもほとんどない。実直に仕事に打ち込む物静かな同僚と物言わぬ数多の粘土板に囲まれた静寂の聖地であった。
「戻りました」
「お帰りなさい名前、雨が降ってきたね」
「えぇ、今日は彫りやすそう」
「とても!王宮史がようやっと先月分まとまったよ」
にこやかに完成したばかりであろう粘土板を見せてくれた同僚の出来栄えに称賛の言葉を投げる。報告用の簡易なものではなく国庫に何十年も何百年も保管される重要なものだ。文字の読みやすさもさることながら、見た目も均整の取れた美しさが求められる。
雨が上がり、太陽が顔を出せば日の光の下でしっかりと乾燥させると艶のある粘土板が出来上がるのだ。
日がな一日、粘土板に器具を用いて文字を刻む。各部署から回ってくる報告用の走り書きのような粘土板から、順序立てて規定に従い保管用の粘土板に写していくのは根気がいるけれど、完成すると達成感がある。持ち込まれる粘土板は手の平サイズの小さなものや、役人が抱えていたであろう腕に持てるサイズのものまで様々だ。内容も魚の取れ高や、果実の値段、国庫の支出から、人事異動や婚姻まで多岐にわたる。文字を刻んだ人の手癖や主観もあり、読み取ると見たこともない事象であっても、そこに確かな人の営みを感じられるのだ。生き生きとしたウルクの生活を文字にして刻む仕事がわたしは大好きだった。
「あれ、また雨だ」
「本当だ、今年はよく降るね」
いつもなら日差しの差し込む窓から外を覗くと、どんよりとした厚い雲が空を覆い隠している。これではまた長雨になるだろうと降り出した少し冷たい雨粒を肌に感じて伸ばした首を引っ込める。
こんな時期に雨が続くなんて珍しい。
そう言えば去年製作した粘土板に降雨量の記録と農作物の収穫量の研究結果をまとめたものがあったはずだ。五年ほど前の不作の年は本当に酷かったから、官吏に見てもらっても良いかもしれない。今日の仕事がひと段落したら粘土板の保管庫を見に行ってみようと決めて、湿度のお陰でちょうど良い硬さを保った粘土板に向き合う。黙々と作業をして、お昼休憩には同僚たちとそれぞれが持ってきたパンや果実を食べながら雑談し、また作業に戻る。
書記官は基本的に物静かな大人しい人が多く、長く勤める人が多いので入れ替えも配置換えも滅多に無い。文字を彫ることが好きだった名前が、父の伝で書記官に勤められたのは幸運であった。ようやく一人前と認めてもらえ、任せてもらえる仕事も増えてきたところだ。しかし王宮の中では仕事場の他には保管庫、粘土板の工房など決まった場所にしか行くことはなかった。それでもこの職場には各部署から日々大量に粘土板が持ち込まれるので、人の出入りは多い方であった。軍部や内官、宮官と様々な職種の人間が出入りするので、仕事場に引きこもりがちの書記官であっても自然と顔は広くなった。
名前の目標にしていた粘土板が完成し、きりがいいので仕事を切り上げて保管庫へと向かう。顔見知りになった内官を捕まえて、持ち出し許可を求めると二つ返事で了承してもらえた。仕事柄、完成品の粘土板を表記方法などの確認に借りる事も多いので、特に気にもならないのだろう。
ずらりと並んだ粘土板は保管庫の中に所狭しと納められ、見るものを圧倒する。初めてここに入った時は、文字の洪水のようでしばらく頭がくらくらしたものだ。
勝手知ったる並びの中で目当ての天気と農作物の研究を探し出し、少し大きめの粘土板を手に取り表面を撫でる。刻まれた文字の窪みを愛おしく思うのは、書記官ならではなのだろうか。
もう一つ二つと気になった年代の天候に関するものを見つけ、両手で抱えるようにして仕事場に持ち帰る。名前が戻ると、既に仕事を終えようとしている同僚たちの姿に、今日はここまでにしようと借りた粘土板に布を掛けて自身も帰り支度に取り掛かる。
「また明日!」
「お疲れ様」
「気をつけて帰るんだよ」
同僚たちと声を掛け合い、しとしとと降り続ける雨の中を自宅へと駆け足で帰る。この時の名前は借りた粘土板のことは大して気にしておらず、明日確認しようとすっかり頭から消えていた。夕食は何だろうかと、両親や兄弟との夕食を楽しみに水たまりを避けて家路を急いだ。
「おはようございます」
「名前!」
若年者ということもあり、いつも早めに仕事場に着くのだが今日は一番ではなかったようだ。狼狽たような顔の壮年の同僚が慌てた様子で手招きする。何だろうかと駆け寄るともう二人ほど見知らぬ内官が仕事場に立っていた。
「どうかしましたか」
「君が名前か。粘土板を借りているか?」
「は、はい。昨日届けも出しました」
身分の高そうな装身具に身を包んだ男性に緊張して、先輩である同僚に助けを求めるように視線を向けるも彼も自分と同じようにおろおろとしている。
「そう怖がらなくて良い。王がお呼びだ」
「「えっ」」
朗らかに微笑みを浮かべた内官の次の言葉に驚きとともに、一体何をしてしまったのだろうかと一気に体が冷たくなる。
「粘土板を持ってついて来なさい」
意図がわからず、自分の最近の行いを思い返して怒りを買うようなことがあっただろうかと必死で考える。言われるがままに先を歩く男性達の後ろを追いかけながら両手の中にある粘土板に目を落とす。借りてはいけなかったのだろうか。だがきちんと届けてから持ち出しているし、借りることはこれが初めてではない。
前をいく二人は王の側に侍る事務官なのだろう、有能そうな横顔は特に怒りや侮蔑もなく、拘束もされなかったので罰を受けるようなことはないのではないかと少し希望が持てた。しばらく歩くうちに普段は立ち入らない、王の住まう上層階になるにつれ通路は装飾的で置かれた花や壺などどれも高価そうである。すれ違う内官や宮官の装いも美しく、場違いな場所へ来たことを感じてさらに緊張する。
不意に前の二人が一際大きな扉の前で立ち止まると、ちらりと目線を投げかける。
ここがそうだと言うことだろう。小さく肯くと二人は扉を開けて淀みなく足を進める。二人の後ろから覗き見た部屋の奥には背の高い玉座で足を組む王の姿があった。端正な顔立ちに金の髪を持つウルクを統べるギルガメッシュ王だ。眉間に深い皺を寄せて隣の台座に積み上がった粘土板に目を通す姿は、その二つ名の通り賢者の風格があった。
「王、名前を連れてまいりました」
「そうか、暫し待て」
こちらを一瞥もしないまま文字を追うギルガメッシュ王は、神の血を引くせいか見た目には青年のように見えるが彼の御世はもう数十年続いている。私が生まれる前は何やらとても残酷な仕打ちをする暴君だったと噂では聞くが、今はそんな面影は感じられない。賢王と称されるように、その執務態度は勤勉そのものであるし一度見れば覚えてしまうという明晰な頭脳は有名だ。盗み見るように普段こんなに近くで見るとなどない王の姿を観察し、その美貌に感嘆する。後宮には天女の如き美姫が多数いらっしゃると言うが、王自身も秀麗な美貌の持ち主である。
「待たせたな、して書記官。名前と言ったか、粘土板は持って参ったか?」
「は、はい、ここに」
不意にこちらに顔を向けた王に、身振りで持ってくるように促される。両脇に立つここまで連れてきた内官の二人を見ると、目線で行って来いと言われる。恐る恐る玉座に近づき、王の手に持ってきた粘土板の一枚を手渡す。
「なぜこれを選んだのだ?」
「長雨が続いていたので…」
「ほう、続けよ」
何が何だかさっぱり分からないが、 借りた理由を説明し始めると王が赤い瞳をじっとこちらに向ける。話終える頃にはその口元に笑みが浮かんでおり、怒らせたわけではなさそうで少しだけ肩の力が抜ける。
「なるほど、己が刻む文字故に覚えていたと言うことか。
ちょうど我もこの雨量の多さを懸念していてな…保管庫の中を不慣れな文官に探させる手間が省けたぞ」
「あ、ありがとうございます!」
「今後も気になるものがあれば直ぐに我に見せるが良い」
「畏まりました」
粘土板を王に全て渡して退室すると、緊張が解けて大きく息を吐く。その様子に帰りも付き添ってくれた内官にくすりと笑われてしまった。
「王は才あるものには男女や年齢に関わりなく認めてくださる。これからも気になったことがあれば気軽に私に声を掛けてくれ。すぐに王に取り次ごう」
そう言って職場の前まで送り届けると彼は急ぎ足で去っていった。まだ王に呼び出され、直接口を聞いたことが夢のようで現実感がなかった。それでも仕事場に入るとみんなが心配して駆け寄って来てくれたので、事の顛末を話すうちに少しずつ興奮と喜びが胸の内に芽生えて来た。ここにいる者は皆、戦で手柄を立てるような武官や、王の側で実務に励む内官のように表に出る輝かしい功績を残せる訳ではない。だからこそ、仲間の一人が王に褒められただけでも自分の事のように喜んでくれた。
それから、時折報告書の内容で気になった点や、去年と大きく違うことがあれば内官から王にお伝えしてもらうようになった。逆に内官からは保管庫の中の粘土板を探して欲しいと言う依頼も来るようになり、前までは顔を合わすことなどなかった王の前にも幾度となく伺うことになった。
ギルガメッシュ王は全てを見た人だ。私はよくわかっていないけれど、彼の目はずっと先まで見通す事の出来る不思議な力があるらしい。その千里眼と明晰な頭脳を持ってウルクを繁栄させた賢王は、常にお忙しそうだった。次々に齎される報告に的確に指示を出し、ご自分で城下を見て回り、民の声をお聞きになる。
なので依頼された粘土板を探しに保管庫に入るとギルガメッシュ王がいたことは驚いたけれど、日頃の彼を知った今では王宮内の実状の確認であり、彼の仕事なのだろうと思った。
「名前か」
「ギルガメッシュ王、何かお探しですか」
「探し物は貴様の仕事だ」
「そうですね、失礼いたしました」
「許す。少し話を聞かせよ」
指でこちらに来いと示す王様の元へ近づき、背の高い彼を見上げる。二人きりで話すのは初めてだな、とまた少し緊張を覚える。
「名前はこの文字の山が、己の死後いつか誰かに読まれると思うか」
「もちろんです。私たちの一生はあまり長くありません。木や山のように何百年も生き続けることはできません…でも文字は違います。後の世代の子らがこの記録を引き継いでくれると思っています」
積み上がった石板の山をじっと見つめる王は、私の答えをどう思ったの分からないが纏う雰囲気から笑ったような気がした。
「そうだな。この文字が何百、何千という時を超えて後の世で発見されれば、たとえその時我らの誰も生きておらぬとも、ウルクという豊かで栄華を誇った国があったと知らしめることが出来よう」
私にはこの豊かな国に終わりが訪れる日が来ることをうまく想像できない。夜が来て眠れば朝が来るように、明日というものは無限に続いていくように思っていた。ギルガメッシュ王の言う未来はもっともっと先の出来事の話だろう。民を導く優れた王様がいるのに、この国が滅ぶはずがない。
「王がいらっしゃるのに、この国が滅ぶはずがありません…」
「…そうだな、我の国だ。そう簡単には終わらせぬ」
「ウルクにはギルガメッシュ王という素晴らしい治世者がいらっしゃると、しっかり書かねばなりませんね。王宮誌にもっと王の言行録を増やしていただきましょう」
「ふはは、それは良い!明日から全て書き留めるように言っておこう」
邪魔をしたな、とくるりと背を向けて出て行こうとする王様に、なんとなく今の問答はとても大切なことを教えてくれたような気がした。
「あの!ギルガメッシュ王、私はこの国が大好きです。王の治世に生を受けた巡り合わせに感謝しています」
王は振り返らずに一言返してくれた。
「名前、確と文字に刻め。ウルクをそのまま残せるとしたらお前たち書記官だけだ」
王の後ろを棚引く白い布が見えなくなるまでその背を見つめていると、どうしてか堪らなく泣きたくなった。それはいつか来る別れの予感のようで、痛みとやるせなさが心の隅をちくりと刺す。そんな痛みに目を瞑って、とぼとぼと一人仕事場に戻った。
なにも彫られていない真っ白な粘土板を前にして、私はただひたすらに文字を刻んでいくしかないのだともう一度決意する。
それが私に出来るこの国を、民を、王を生かすことなのだ。
いつか誰かが読むことを願って。
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