「わざわざありがとうございました」 検診が終わって、とても愛想の良い感じの看護婦さんが病室を出ていくと不意に剣城くんのお兄さんがそう言ってベッドの上で頭を下げた。 彼の隣で、おそらくお見舞いに来た誰かが持ってきたと思われるフルーツバスケット、ではなく、単品で3つ4つ程置いてあったバラバラのリンゴの皮をむいていた私は作業を続けながらいえいえ、と柔らかく返す。 料理の腕前に関しては剣城くんには若干(これぐらいは見栄を張りたい)劣るが、私だって一応これくらいはササッとできる。因みに、ウサギもちゃんと作れます。 「それ、京介と仲良くしてくれてる友達が持ってきてくれたんですよ」 『へぇー…剣城くんのお友達って事は雷門中の?』 「ええ、同じサッカー部の子達みたいで」 お友達に、サッカー部、か……。 お兄さんの口から剣城くんとはほぼ無縁そうな単語が出てきて、顔にこそ表さないものの正直かなり驚いた。そのおかげでこの単品のリンゴたちの正体と、この前剣城くんが私にあのサッカー雑誌を頼んできた真意については何となく察しがついたのだけれども。 ふ、とウサギの形に皮をむいて並べたリンゴを見つめ、思わずくすくすと微笑む。きっと部活仲間の剣城くんのお兄さんの為にみんなで出し合って買ってきたんだろうなー。 その光景が目に浮かんで、想像しただけでも微笑ましくて仕方ない。なんてかわいいんだろう。 『剣城くん、サッカー部入ってたんですね』 「あれ、京介から聞いてませんでした?」 『いえ、全く初耳です』 初耳、という言葉を直に口にしてみて改めて思うのだが、私は本当に剣城くんの事を何も知らない。家に来てからまだ日が浅いせいもあるんだろうけど… 私が知っている事といえば、名前と、あとは雷門中学校の一年生だというちょっとした自己紹介でも物足りないような情報だけ。しかも、お兄さんがいるって事すら教えてくれなかったし。 まーね、私はお兄さんみたいに家族なワケじゃないしそれに加えて懐かれてもいないから知らない事だらけでも当たり前で、聞ける立場でもないのは十分わかってるんだけど。 わかってるけどね、うん……やっぱりなんか少し寂しい気もするんだ。一緒に暮らしてる側としては。 『あと、実はお兄さんの事も…』 「…聞いてなかったんですね」 『はい…さっき初めて知って知りました』 「全く…京介も相変わらずだな」 リンゴの乗った皿をゆっくりとお兄さんの膝の上に置きながらそんな会話を交わし、お互いに苦笑する。 お兄さんは再びありがとうございます、と告げてから小さなフォークを刺して一口、しゃく、と音を立ててリンゴを含んだ。少しの間それを眺めているとお兄さんが何か思い出したようにあ、と呟いて。 「でも、名前さんは違うかも」 『違う…?』 …違うって……一体何が? 脳内に大量の疑問符を浮かべる私をよそに、お兄さんは一人納得したように頷いている。 いやいや、お兄さんお兄さん。自己解決なさってらっしゃらないで私にもわかるようにご説明をお願い致します。 「京介は名前さんが初めてじゃないんです」 『…?と、言いますと……?』 「オレがこうして何年も入院生活を送っている間、何回か他の親戚の家にも預けられてたりしたみたいで…」 『え…』 「共働きしてるんですよ、父も母も。オレの入院費と…この足の治療費を負担する為に」 この足、とベッドに乗せられた自分の足を見据えるお兄さん。相変わらずにこにこと笑顔を浮かべたままなのだが、笑っているはずのその表情からはどこか違和感。もの悲しさが感じられる。 細めた目の奥には剣城くんと同じ綺麗な黄色が、ゆらゆらと不安定に揺れ不安にも悲しみにも似た色を映し出す。 『お兄さんは…そんなに長く入院してるんですか?』 「そうですね…小学生くらいの頃から、だから大体6年…」 『6年…』 確かに長い。怪我をしたお兄さんも剣城くんも相当大変だったんだろうな… 「でも、初めてなんです」 『……?』 お兄さんの言葉の真意がわからず、え、それは…と眉を八の字にして尋ねる。 だって、さっき初めてじゃないって言ったばかりじゃないか。(理解力乏しいんですよ、すみませんねっ) 「今日みたいに自分から連れて来たりするのは……名前さん、あなたが初めてなんですよ」 『はぁ、』 うーん…自分から連れて来たりする、ねー……連れて来られた、っていうより命令されて私から来たって感じなんですけどね。どちらかと言うと。 でも、まぁ、お兄さんすごい嬉しそうにしてるし。それに、ここに呼び出されたって事は少なからずそういう解釈もできるのかなー。なんて、ちょっと淡い期待をしてみても罰は当たらないよね。 『んーあんまり懐いてくれてはいないんですけどね。正直、ちょっと毒舌、というか言いたい事をはっきりと言ってくれちゃう性格な割に全然掴みどころがなくって……』 苦笑いで言いながら、今までの剣城くんとのやり取りの一部始終なんかを思い出してみる。が、それはやっぱり懐かれていない、という事実を改めて再確認させられるだけの行為であり、やめておけばよかったと今さら自分の不甲斐なさを実感し、肩を竦めた。 そんな私に、お兄さんはそういうとこ京介らしいです、と眉を下げて笑う。 「あの…名前さんは京介が嫌いですか?」 続けて、唐突に投げかけられた質問。 ベッドから少し身を乗り出し、私の顔をのぞき込むようにして向けられたお兄さんの眼差しは優しく、それでいて強いもので。 ああ、これは真剣に聞いているんだな、とひと目でわかった。 『嫌い……ではないです。寧ろ……』 好きか、嫌いか。そんな事を考えるよりも先に、口が勝手に答えていた。 そう。嫌いじゃないんだ。 何も語ってはくれないけれど、私は剣城くんの中にある小さな暖かい光を知っている。 優しさ、強さ、弱さ。そういうものを彼は決して見せはしない、でも、時々感じるのだ。 そんな剣城くんを、私は……… 『強い、と思います』 「強い?」 『剣城くん、何があったとか、ないとか……ほとんど何にも言ってくれないんですよね。それって、最初は私が保護者代わりとして不甲斐ないからなのかなって思ってたりしてたんですけど…あ、いや、ホント不甲斐ないんですけど…っ』 ふう、と息をつく。何も言わずに待ってくれているお兄さんの穏やかな視線に見守られながら、一間隔空けて。言いたい事にまとまりを持たせ、もう一度口を開く。 『年上の私なんかよりもずっとずっとしっかり者で大人で、すごく偉いな、って。確かに、少し無口で不器用なところもありますけど…』 私は好きです。しっかり者で無口で不器用で毒舌な剣城くんが。 私が言うと、お兄さんはそうですか。と口元に小さく笑みを添える。先程よりも一層嬉しそうに笑う彼を見て、私も何だかくすぐったいような、それでいて心の奥からじん、と柔らかな熱を持つような感覚を覚えた。 気恥ずかしいけれど、不思議と悪くはない。逆に心地が良い。 「よく見てくれてるんですね、京介の事」 『一応これでも保護者なんで。期間限定の』 「それが聞けて安心しました。名前さん、 ……これからも京介をよろしくお願いします」 あらら。こんな素敵なお兄さんによろしく、と言われたからには頑張るしかないですな。 『ええ、もちろんです。剣城くんの事はどうぞ私にどーんと任せちゃってくださいっ』 「いいんですか?そんな事軽々しく言っちゃって」 (ほんの少しだけ調子に乗って)胸を張って言い切ったところに、聞き慣れた冷ややかな低音が冷ややかな言葉達と共に病室に響く。 あ、と声を漏らして後ろを振り返れば、いつの間にか中に入ってきていたらしい低音の主、剣城くんの姿が。ビニール袋を片手に呆れた表情で立っている彼に、私はおかえりなさい。と、へらっと笑って告げる。 「………はい、これ。買ってきましたよ」 『わ、ありがとー』 袋を手渡され、(かなり期待を込めながら)早速その中身を確認する。 さてさて、お任せしちゃったけど剣城くんは何を買ってきてくれたのかなー。 『おおー、ホットドッグ!剣城くんってばナイスチョイス!』 「ああ……いや、何となく一番名字さんっぽかったのでそれにしました」 『え、ちょ…剣城くん、それはどういう……』 「そのままの意味ですよ。オレの中では名字さんのイメージがそれなんです。ホットドッグかハンバーガー」 何それ、つまり私は安っぽいって事か。…あながち間違ってはいないような気もするけどさ。(そこはあながちでも認めたらダメだろ) ていうか、ファーストフードに例えられるとかお姉さんとっても悲しい。ひどい。 すると、暫く私達の会話を黙って聞いていたお兄さんが剣城くんのその一言を受けてふふっ、と。少しいたずらっぽい笑みを零した後、京介、と剣城くんの顔を見やる。 「お前、本当に名前さんが好きなんだな」 『へ、』 「なっ………兄さんっ!いきなり何言い出すんだよ!!」 思いがけない発言に私も剣城くんも一瞬固まる。 好き……?剣城くんが私を……? 固まったままの私をよそに、すぐさま全否定し出した剣城くん。 うわ、なんか好きじゃない、とかこんなズボラ天然大学生、とか言われてる……これマトモに聞いたらメンタル面に響きそうだから聞き流しとこ。 「とにかくっ、オレは名字さんなんてただの同居人兼一時的な表面上の保護者代わり程度にしか思ってないから」 ひどい言われよう。え、これのどこが好き?明らかに嫌ってるよね?やばい、嫌われ過ぎてて泣きたくなってきた。 「ホットドッグにハンバーガー……それって……一番身近で親しみやすい、って解釈もできるよな?」 「っ……それは……」 ……あれ、黙っちゃった。ん、という事はこの反応ってつまり… 「やっぱり…図星なんだろ?」 「……否定はしない、けど…」 『剣城くん……っ!!』 否定はしない。そう言ってくれた剣城くんの言葉があんまり嬉しくて、衝動的にぎゅうっ、と病院の入り口付近でしたみたいに彼を抱きしめる。 「ちょ、名字さん!何また抱きついて、」 『私も好きだよ!剣城くんの事!』 「〜っ……好きだなんて一言も言ってません!いいから早く放してくださいっ」 一番身近で親しみやすい、なんて剣城くんから言われた中では最高の褒め言葉だ。素直に嬉しい。嬉しいから、剣城くんが嫌がるのはわかりきってたけど抱きつく。これ、私なりの愛情表現ね。 「名前さん、」 『何ですか?お兄さん』 「京介がデレた次いで、っていうのもおかしいんですけど……京介の事、剣城くん、じゃなくて名前で呼んでやってもらえませんか?」 『名前で…?』 「剣城くんじゃ、ついオレも反応しちゃうんです」 ああ、名字一緒だもんね、剣城くんとお兄さん。なるほど納得。 「兄さんっ、」 「因みにオレの事は優一って呼んでもらえると嬉しいです」 『はいはーい。えっと、優一さんに……名前だから、京介くんね!』 抱きついたまま、優一さんに言われた通り京介くん、と呼び改める。わ、なんかすごい新鮮。 また胸の奥がじん、と温かくなった。 ← |