わすれた

「あああああマスターあああああ」

そんな叫び声を上げながら研究室に入ってきたマイルを見て、マスターと呼ばれたシーザー・クラウンは手を止めた。

「どうした、マイル」

「あああだめなんだマスター、ここから逃げないと。奴等が来るんだよ。きっと僕を捕まえてくる。黒くて赤くて紫のもやもやが来て、母さんに僕をなくしてしまうんだ。きっとみんな、雲のなかに父さんは息が苦しくなる。きっと頭が変わってしまう。薬に入れているんだ。心臓と髪の毛と爪を食べてるんだよ。僕にはマスターしかいないんだ。マスターマスターマスターたすけてたすけてしんでしまうよ僕がころされてしまうよ」

その言葉は支離滅裂で、まるで文章になっていなかった。それを視線を泳がせながら話すマイルが正気ではないのは誰が見ても一目瞭然である。
平常な人がこのマイルを見れば、きっと強く頭を打ったのだろうと思うか、病院に通うことを勧めるか、はたまた見て見ぬ振りをするかのどれかだろう。

実際、その光景を見てシーザーと一緒にいた部下は、関わりたくないとばかりに眉間にシワを寄せていた。

しかし、そんなことにも動揺することはなく、シーザーはマイルの頭をゆっくり撫でて言う。

「……マイル、疲れてるんじゃないのか?薬でも飲んで休んでたらどうだ」

「マスター、マスター、ああああマスターマスターマスター」

シーザーが声を掛けても壊れた機械のように言葉を繰り返すマイルは、もう何処も見ていないし、声もきっと聞こえていない。何も届いていない。いつも以上に精神状態が悪いようだった。心なしか顔色が悪く、ふらふらとしていて今にも倒れそうだ。


「……おいお前、そこの棚の下から二番目にある赤い瓶を取ってきてくれ」

シーザーは、視線をマイルから離さず近くにいた部下にそう命じた。

すると命じられた部下は、二つ返事ですぐに棚から二番目にある一際目立つ赤いデザインの瓶を取ってきてシーザーに渡す。
ガラスが赤すぎて、中に何が入っているのかは見えない。

「シュロロロ……これでも飲んで寝ておけ」

シーザーは赤い瓶に入っている薬を取りだし、マイルの手に握らせるとそう言った。
取り出した薬もまた同じように毒々しく赤い。いったいなんの薬なのか見た目からは検討もつかないが、おそらく精神安定剤か睡眠薬だろう。

マイルはシーザーに勧められるまま、まるで魂が抜けたようなからっぽの表情でそれを口に運んだ。匂いも無いが味も無い。
もしかしたら本来味はあるのかもしれないが、マイルにはそれは感じられなかった。


それだけ渡すと、シーザーは部下にマイルをマイルの部屋まで連れていくように命じた。
命じられた部下は少し焦ったが、マスターがそう言うならとその命令に従ってマイルの手を引き研究室を出る。

しかし、それでもマイルの心は晴れなかった。どうしてかわからないが、頭が酷く痛い。いつから?

たしか、女の子の話を聞いて、父さん母さんを、思い出したとき。父さん、母さん。父さんと、母さん。
あれ?

父さん母さんって誰?

「んー、あれ?」

よくわからないが、マイルが自分の部屋についたとき。
そのときにはもう、さっきまでの不安感や絶望感、死にそうなほどの感情の暴走はなくなっていて、どうして自分がそんな感情を抱いていたのかはわからなくなっていた。すっぱりと、何もかもが跡形もなく消えた感じである。

腑に落ちない点もあるような気がしないでもないが、そもそもどうしてあんな感情を持ったのかわからないためあまり気にしないことにした。

それに、こんなに簡単に忘れるということは、そこまで大したことではなかったのだろう。
そうだ。忘れろ。忘れろ。忘れろ。

そして数秒後、マイルはすべて忘れた。

まえへ つぎへ

もどる

第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -