1st-01 | ナノ

第壱話 壱


 ―――ねむい。とにかく眠い。
 中途半端に電車で寝たせいなのか、眠気が半端なく俺の意識を奪おうとする。
 電車での移動に加えて、都内の漫画喫茶でシャワーと着替えを済ませた俺の疲労はじわじわ来ていた。叔父の旅行も移動が激しいものだったから慣れていたつもりだったが、新しい情報を人の脳は処理するときに膨大なエネルギーを消費するからほとんど意味はないということか……ああ、もう寝たい。

 いや、ここで寝てたまるか、と俺は欠伸を噛み締めたところで、ギシッと椅子の軋む音と「ふゥん……」という気だるい声がした。昼間に現れたゾンビのように校内をうろついていた俺に「おーい、転校生。こっちだ」と職員室まで案内してくれた人物だと思い出して、その人を見やった。

「なるほどねェ。こんな時期に転校してくるなんておかしいとは思ったが」

 夢かな、普通いねーよな、こんな教師。

 そう思うくらいにその人物の格好は変わっていた。プロポーションのいい身体をつつむ幾何学模様が大きくあしらわれたシャツはブイネックで胸が大きく開いている。ゴテゴテのベルトに、ジーンズとブーツ。そしてフレームの太い眼鏡をかけ直した女性は「ま、無い話じゃあない、か。よッと」と椅子から立ち上がった。
 眼鏡の奥の目が興味深そうに細められる。

「七代千馗、だったな。私の名は、牧村久榮。担任はもっていないが、世界史を教えている」
「…世界史?」
「なんだ、意外そうだな。一体、何を教えると思っていたんだ?」

 まさか担当教科持ちの教師という点に驚いていたとは言えない。
 黙った俺に「まァ、いいさ」と牧村先生は言ったが、ずいっと俺に顔を近付けてきた。ヘビースモーカーなのか煙草のニオイが鼻につく。その行動とニオイに俺の眠気がわずかに吹っ飛んだ。

「ああそれと、一応だが―――ここの図書室を任されている身だ」
「図書室…?」
「そうだ。という訳で、キミのおおよその事情は察しているが、基本的には部外者だと思ってもらった方がいいだろう」

 俺の反応に「くっくっく」と面白そうな顔をした牧村先生は身体をすっと離すと「つまり、キミと私は単なる一生徒と一教師と言う訳だ。いいな?」と訊いてきた。興味津津を隠さないが、大人な対応をしてくれるということらしい。俺にとっては、楽な先生だが、

「…楽しそうですね、牧村センセ」

 いじめっ子でしょう、あなた。
 そんな思いを込めて返した言葉に牧村先生はうんうんと頷くと「ああ、それでいい。仲良く穏便に、互いの成すべき事をやっていこうじゃないか」と言って俺の肩を叩いた。

「頑張れよ。ここは校舎は古いが、その分歴史と伝統のあるなかなか居心地いい学校だ。多少の問題児などものともしない教師も揃っているしな。せいぜい上手に楽しくやるといい」

 この場合の問題児ってのは俺なのか、ともうこの先生の言葉に考え込んでしまうが、まあ、學園内に事情を知っている人間がいることに心強いと思おう。はい、と俺が答えたとき、制服のズボンポケットにしまっていた携帯電話のバイブが鳴った。
 その音は牧村先生にも聞こえたらしく、彼女の片眉が跳ねた。

「ん……? こォら、これから授業だろ。携帯電話は切っとけ。持ってくるなとまでは言わんがもし私の授業中に鳴らすようなら」と注意を促していた牧村先生の言葉が一旦区切られ、携帯電話の電源を落としていた俺は彼女の顔を見る。
 すると実に楽しそうな声で、

「放課後呼び出しで古代から現代まで年表音読させた上に、キミの未来予想図を年刻みで書かせたあげく廊下に貼り出すからな」
「絶対に鳴らしません。マジで」

 速攻で答えた。未来予想図ってホントいじめの域だ。

「おや、それは残念だなァ―――それで、だ。キミの所属はどうやら3−2のようだが……」

 始業のチャイムが鳴った。

「ふゥ……やはりな。まったく……。ちゃんと日付の変わる前に帰してやったろうに。仕方ない。遅刻魔の担任に代わって私がHRをやろう。行くぞ、七代」

 そう言った牧村先生に連れて来られたのは、3-2教室と札が立てられた教室だ。
 しかし3年生の教室と言っても、4階にあって、3階は2年生、2階は1年生という造りになっている。牧村先生に連れられて4階まで上がる間、廊下にたむろしていた連中の視線がこちらを向いていたのを考えるにやっぱりこの先生は、学校のなかでも一目置かれているらしい。
 用心に越したことはないな、と思ったところで牧村先生はまだ騒がしい教室の扉をガラッと開けた。

「ほら、静かにしろー。毎度恒例、代打担任が来てやったぞ」

 恒例なのかよ。俺の内心の突っ込みはどうやら本当らしく、牧村先生の姿を見つけた途端、「うっわ、やっぱ牧村かよ〜」と前列に座っていた男子から声が上がった。

「センセー、ウチの担任、今日はどうなってんの?」
「連絡はないようだから、大方、その辺走ってる頃だろ」
「今日はHR終わるまでに来るかァ?」
「オレ、来ない方にカレーパン一個な」

 賭けされているぞ、まだ見ぬ担任様。
 ざわざわと騒いでいるクラスメイトとなる生徒達の声をどこか遠くに聞きながら無言に徹していると、「っていうか、あの子、もしかして……転校生ってヤツッ!?」という声もチラホラ聞こえてきた。これを聞くと転校生って大変だよな。妙な期待を一身に受けてしまって――…やべやべ、俺ここで目立つのはあまんまり良くないんだよ。一応、任務なわけだし。
「おォら、日直。さっさと号令」と牧村先生がピシリと言い放つ。

「はーい。きりーっつ。れーい。ちゃくせーきッ」
「よし、それじゃあちゃっちゃと済ますぞ」

 そう言うと俺を手招きする牧村先生。

「今日からこのクラスに入る転校生の七代千馗だ。適当に仲良くしたり喧嘩したりして青春を謳歌する事。それでだ。キミの席は」と一旦区切った牧村先生が周囲を見回して、「ああ、窓側の一番後ろが空いているな」と言った。寝れそうな場所だな、と思っていたら、「あの――」と耳に心地よい柔らかい声と、椅子の引く音と一緒に一人の女生徒が立ちあがった。

「ん? どうした、穂坂」
「先生、空いているのはわたしの隣の席です」

 言われてみると、彼女の隣にも一つ空席がある。
 ちょうど牧村先生が最初に指定した席の前だった。

「そうか。じゃあ、あの空席は誰のだ?」
「その……壇くんです」
「ああ、アイツか……。まったくどいつもこいつも。なら七代の事は穂坂に頼むとして――……ようやくお出ましか」

 誰が、と訊く前に扉の傍に立っていた俺の横でバンッとすごい音を出して扉が開いた。
 何事かと俺が扉の方を見ると、扉の枠に片手をついて、ぜーぜーと肩で息を切らしている女性がいた。後ろに結いあげた髪はバレッタで止めてあるがそれすら急いだように少し崩れていて、凝りまくっていた牧村先生と比較すれば楽ではあるか清楚感のある服装をしている。

 とはいえ、その女性は顔を上げると明らかにテンパってる様子で「お、お、おッ、おはようッ!!」と言った。寝ぼけるだけ寝ぼけていた俺はそれに応えきれずにいると、「相変わらず弛んでるなァ、朝子」と牧村先生の楽しげな声が後ろから聞こえた。
 その声で初めて牧村先生の存在に気付いたらしい、ぎょっとした顔で牧村先生を見つけると、

「ま、牧村先生ッ!! こ、これは、ええと……。た、頼みの綱だった12個目がですね、その……」
「言い訳は後で存分に聞くとして、そうだなァ―――今日は干魚に熱燗の気分だな」
「うえ……先生、二日連続はさすがに……」

 しどろもどろに言う女性に牧村先生はやはり楽しげな様子で教卓から離れると、「転校生の紹介は済ませておいた。後は任せたよ、先生」と言って出て行ってしまった。それを俺と同じく――とはいえ何だか悲壮な表情でだが――見送っていた女性は「はァ……」と溜息をついて俺を見た。

 いや、本当、今の会話だけで察することができるこの人の苦労に、俺が労いの意味で笑むと女性は笑顔を返してくれたと思ったら、「―――って、そうだッ!! 七代千馗くん!!」と声を上げるものだから思わず俺はガタンッと一歩引いて教卓にぶつかってしまった。なんというか、慌ただしい。

「転校初日だっていうのに、ごめんなさいね。私が担任の羽鳥朝子です。現代国語を担当しているわ。卒業までわずかな間だけど、よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「ええ。卒業まで一緒に頑張りましょうね。それじゃあ席は――」

 煩わせるのも何なので俺はすぐに「さっき聞きました」と言って席へ向かう。
 先程の女生徒の隣につくと、羽鳥先生は「HRを始めます」と教卓に立った。

「まず初めに……もう知ってる人もいるかも知れないけれど、昨日の放課後、テニス部の二年生が校舎裏で怪我をしました。直接の原因は転んだ事だそうですが、以前から校舎裏では、怪しい人影を見たなどの報告を受けています。原因がはっきりするまで校舎裏には近寄らないようにしてください。では、出席を取ります―――」