14-2 | ナノ




 巌戸台寮のドアを開けると見覚えのあるシルエットに真宵は、あ、と声を上げた。
 カーキ色のジャケットに肩まで伸びた長髪の来訪客など一人しかいない。真宵と一緒に寮に入った荒垣も気付いたようだが(その上で)避けて階段を上って行ってしまった。真宵もどうしようか迷ったが、「おお日暮君」と声をかけられて足を止めた。目尻の下がり気味で温和そうに見える男、幾月はニコニコと人好きのしそうな笑みで真宵に訊ねた。

「風邪はもう大丈夫なのかな?」
「はい。すっかり良くなりました」
「おや、ぬいぐるみ?」
「今日限りの映画祭りの特典なんです」

 店員がチケットを拝見するときに「映画特典です、どうぞ〜」とくれたものだ。
 今回の映画に出ている犬をモデルにしてつくられたぬいぐるみをしげしげと見つめた幾月は「ははは、そっかそっか。気分転換になったならよかったよ」と言う。

「あ、お見舞いがすっかり遅れちゃったけど、僕の事、ハクジョーなんて思ってる?」
「? …え、いえ。まさか」

 風邪を引いた頃はちょうど台風が直撃していたとアイギスから聞いていた。
 台風のなか、しかも月光館学園理事長という立場にいる幾月に仕事を押させてまで来てもらうほどでもない、と真面目に考えていると「そう気を遣わなくてもいいよ。君は風邪を引いてたんだからねー」と幾月は頷く。その眼鏡がキラリと光った。

「ハクジョーン!」
「………」
「ハハハハハ…ハハ…、アレ?」

 一度は治った風邪がぶり返すようなブリザードがラウンジに吹いた。




 ペルソナを使えないという幾月だが、もし呼び出せるとしたら氷結属性が得意に違いない。
 宿題がありますからと嘘を吐いて、ラウンジから早々に部屋に上がった真宵はドアを開けた先の光景にがっくり肩を落とした。荒垣がいる。
 自室から持ち込んだのだろうか、雑誌を読んでいた。

「理事長さんに捕まってたのか」

 しかも全然違和感がない荒垣に真宵も勘違いしそうになる。
 これが当たり前になってしまったらどうしよう。そうは思うが、嫌じゃないとも思うから真宵も無理に追い出そうとはせずベッドに座った。膝の上にぬいぐるみを乗せてぐにぐにと弄る。

「捕まると思ったのなら助けてくれてもいいじゃないですか」
「声を出してなきゃそうしてやってもよかったけどな。自業自得ってヤツだ」
「そうですけど…」
「まあ、あの人の事だ、相ッ変わらず寒いギャグ飛ばしてんだろ?」
「……、飛ばしてます」

 できればフォローをしたかったが、先程のことを思い出して真宵は否定しなかった。
 ページをめくった荒垣が「それで空気が冷え込んで、また誰か風邪引いたりしてな」と言うものだから真宵は、冗談になってませんよ、と溜息をつく。
実際、ブリザードが吹いていた。

「確かに…これこそ寒いギャグだったな」
「ああ、でも…先輩がギャグを言ったと考えるとすごいような気もしますね」
「フン……、で?」
「で?」

 首を傾げる真宵に荒垣は雑誌から顔を上げると「落ち着いたのか」と訊ねてきた。
 それを聞いて真宵はぬいぐるみを弄る手を止めた――映画館でのことを言っているのだ。
 映画館の劇場で映画を見ている途中、真宵は近くにいるカップルがキスしているのをたまたま見てしまった。テーマのせいか今回は親子連れが多いものの、満員とはならなかった劇場で目に入っていたのが原因だったと思う。

「気付いていたんですね」
「初めてだったのか?」

 さらに問われて真宵は俯いて膝の上のぬいぐるみを再び弄る。
 なんであれほど過剰に意識してしまったのだろうとは自分でも思っていた。映画やドラマで観たときには特に思うことなく流せていた、と思う。じゃあ何故、あのカップルのことが意識にあったのだろうかと考えて真宵は思い当たる。

 年格好が同じの男女、それが真宵と荒垣にも当てはまっていた。

 気付いたら真宵の頬は熱くなって、視線が段々と下がっていくとぬいぐるみの艶々とした黒い目と合った。なんで今更。映画なら順平とも真田とも、天田や幾月とも行ったのに一度もそういうことは意識したことはなかったのだ。
 でも、ああ、つまりそれは。
 チラリと荒垣を見ると真宵の答えを待っているのがわかって深呼吸する。
 気付いたことに蓋をすればまだ間に合うだろうか。そうは思うが気付いてしまったことに混乱して上手い言葉が浮かばず、ギリギリのところで声を出した。

「意識したのは初めてで、す…う?」

 ボスンと背中にあたるのはスプリングのきいたベッドのシーツ。
 少し視界が薄暗くなったのは自分の上に覆いかぶさるものがあるからだと真宵はすぐ理解して慌てた。荒垣に肩を抑えつけられている状態で押し倒されているのだ。自分より肩幅が広いのだとか、肩に触れているてのひらが思ったより熱いのだとか情報が一気に押し寄せてどうすればいいのかわからない真宵に、「ハア…」と上から溜息が投げられた。

「あ、あの?」
「あのなあ、普通、暴れるなり逃げるなり叫ぶなりするだろ」
「……。言われてみれば、そうですよね。あー、退いてください」
「それが意識している人間の態度か?」

 じゃあ、どうしろって言うんですか。
 逆光で分かりづらいが荒垣の表情が苦々しいのが見えたが、どうにも動く気配がない。真宵は言っても退かないんじゃ仕方ないと身を捩って逃げようとしたら肩を抑える力が強くなった。荒垣に対する特別な好意に気付いたとはいえ、訳の分からない現状には不満が出る。真宵は思わず睨んで文句を言おうとしたとき、視界の影が濃くなって、やわらかい感触が口に触れた。

「…っ…!?」
「…………」
「…ふ、…っ…」


 ベロリ


「〜〜〜〜〜〜!?」

 今、今、いま、舐められた!

 最初の感触と違う、もっと生温かいものに唇を撫でられたことに身体が驚いて跳ねるが、肩を掴んでいるてのひらがそれを押さえ込んでベッドのシーツがわずかに歪んだだけになる。もう何がなんだかわからない。オルギアモードが終わったアイギスみたいに熱が回りすぎているようだ。荒垣は動かない真宵をいいように触れるだけ(とはいえ稀に舐められる)キスを繰り返してくる。
 それが口のなかに入った瞬間、真宵は口を閉じてしまった。

「!!」
「っ痛……!」

 歯にやわらかいものが当たったと思うと同時に、荒垣の拘束が緩んで身体が軽くなる。
 起き上がった荒垣から逃げるようにベッドを這って壁際まで逃げた真宵は、バクバクと鳴る心臓を鎮めようと深呼吸を繰り返す。荒垣は痛そうに顔を歪めているが、てのひらが口を覆っていてそう見えるとしか言えない。が、つまりは真宵が噛んでしまったのは荒垣の舌だったようだ。
 ごめんなさいと謝るべきだろうか、いや、むしろ謝ってほしいのはこちらだとまだ混乱している真宵に、先に立ち直った荒垣が口を開いた。

「舌を噛み切るなら一気にやらなきゃ意味ねぇぞ」
「……。……私にカニバリズムはないんですけど」

 というか、そんなマニアックな趣味もない。
 最初の一言がまさかそれだとは思わなかった真宵は脱力する。
 ファーストキスを奪われたのに、自分もそんな返しをしているこの現状も状況だ。これが恋人同士なら問題はないのかもしれないが、告白したわけでもない。そして今告白して、はい、そうですか、と済ませられる話でもなかった。

 どうすればいいのだろうかと真宵が考えていると再び陰る。
 一度してしまえば済し崩しにできると思われているのだろうか。ムッとして真宵はまた近付いてきた荒垣の顔の前に転がっていたぬいぐるみを出した。ぬいぐるみに阻まれた荒垣が何だと言わんばかりの表情をした。

「先輩はどう思ってるか知りませんけどっ、私にとってキスは安くないんです」
「そうか」

 頷きつつ全く理解を示すつもりはないらしい。
 荒垣が退けようとぬいぐるみを掴んだのに、真宵は慌てた。

「だ、だから今日はもうなしです! 限度ってのがあります! これが守れない場合は…」
「場合は?」
「……アイギスにこれから毎日一緒に行動するよう言います」

 アイギスには一度、トイレも風呂もついてくると言われたことがある。
 女同士(?)とはいえ、さすがにそれはと真宵やゆかりたちが止めたから落ち着いているが、アイギスの全力で守るというのを行動にしたらそうなるだろう。荒垣もそこまで想像したのかわからないが、しぶしぶといった風に「なら仕方ねえな」と離れていった。
 その言葉に後悔するのは明日だとは知らずに、真宵はこのとき、安堵の息を零したのだった。




2009/09/24