4.5st-2 | ナノ

序幕 弐


 鴉羽神社の境内に出ると屋内とは違った寒さに体がぶるりと震えた。

「ひいいい、寒い!」

 そりゃ、朝姉えもコート持っていくよな。シャツをきっちり締めただけで凌げるっていうのは買いかぶりだった。セーターだ。セーター買おう、とてのひらを擦っていると鈴が現れた。来たばかりの頃は特に感じなかったが、木枯らし吹く今では着物は若干寒そうな格好に見える。だが神使である彼女には寒暖の差など特に関係ないのだろう、ぱたぱたと尻尾を振って俺の傍に来た。

「七代さま、おはようございますなのです。今日もいいお天気なのです。七代さまも元気いっぱい……はう? …何かあったですか? もしかして、朝ご飯、足りなかったですか?」

 い、いや、ちょっと寒いだけで大丈夫。
 学校に着くまでに温まるだろうと説明すれば、鈴はほっとしたように「それはよかったなのです。今日も元気に頑張ろうなのです!」と跳ねたが、ハッとした顔になる。

「……――などと、のんきに挨拶している場合ではなかったのです。大変大変なのです〜!」
「やれやれ、仔犬ちゃんのおマヌケ度は今朝も相変わらずですねえ」
「おはよう、鍵さん。どうかしたんですか?」
「おはようございやす。ええ、何ね、ちょいと拝殿に妙な気配のお人がいらっしゃるんですよ」
「でもでも、きちんと神前にご挨拶してくれたですから、悪い人ではないと思うのですけど、このあたりの方ではないみたいですし……」

 懸念される可能性のひとつである、罰あたりな賽銭泥棒ではないようだ。
 はて、神仏に悪事を働こうという人間でもないのなら然したる問題はないように思うのだが、と鍵さんに言うと煙管でピンとたった狐耳の裏を掻いた。

「とはいえ、何の目的もなく、こんな寂れた神社に足を運ばれるようなお人にも見えやせん。という訳なんで七代殿、ちょいと見てきてもらえやせんかねえ?」
「ま、…そうなるよな」
「話しが早くて助かりやす。さすが封札師の坊だ」
「何言ってるです、鍵さん。この神社を護るのはすずたちのお役目なのです。ぬしさまにそんなことさせるなんてダメなのです。ぬしさまのことはすずが盾になってお護りしてみせるです!」

 鈴のそれは兄役を嗜めるものに似ていたが、鍵さんはそれこそ仔犬を転がすくらい分けない、何枚も上手の狐だった。

「いやあ、仔犬ちゃんは心がけが立派だ。でもね、私らの存在なんて普通の方からしたら空気みたいなもんですよ?」
「く、空気……」

 ガーンッ、という効果音が聞こえた気がする。
 いや、まあ、俺も普通の人には見えないからと思って引き受けたから手前、鍵さんの言っていることはあながち間違いじゃないんだが。鈴の落ち込みっぷりには庇護欲をくすぐられる。…鍵さんは別の何かがくすぐられている気はする。

「おっと―――どうやらこちらから出向くまでもなかったようですね」
「は、はわわわわ……」

 俺の後ろ、というより前に隠れる鈴。
カツカツと石畳を踏む革靴の音が、背後まで近付いて立ち止まる。まさか俺に用でもあるのかと振り返れば、そこに居るのはコートの下にきっちりとスーツを着込んだ三十路前の男だった。撫でつけた髪と少し鋭い印象を与える目が少し年齢より年かさに思わせるようだが、それが落ち着きとして表れている。
 男は俺の顔をすこしばかり見たあと、やあ、と声をかけてきた。

「先程は失礼した。七代君―――だったな。私の事を覚えているか?」

 え、誰だ。この人。
 名前が浮かばず困惑する俺に、彼は無礼を怒らずに「無理も無い。一瞬だったからな」と苦笑した。

「私は筑紫信維という。伊佐地とは……古い知り合いだ」
「伊佐地センセ……―――ああ!」

 香ノ巣を探すためにドッグタグに入ったときにすれ違った人だ。
 けれどそれは一週間以上前のことで、筑紫さんにしてみれば俺など数人いた学生のひとりだったはずだ。それを覚えているなんて、この人の記憶力はすごい。俺もなんとか築紫さんの記憶を掘り返そうとするが、ようよう出て来たのはドッグタグのマスターと顔見知りであることだった。

「喫茶店にはよく立ち寄るんですか?」
「霞ヶ関で環境に関わる仕事をしているのだが、新宿にはその調査で来ている。あの喫茶店には、昔よく通っていたんだ。珈琲が美味くてな」
「美味しいですよね。あ、フレンチトーストは食べたことあります?」
「…いや、私は甘いものは得意じゃないんだ」
「そうですか。なら今度、マスターの珈琲と一緒に食べてみて下さい。絶品ですよ」
「……そうか」

 彼から声をかけては来たものの、こうも学生に話を振られるとは思わなかったのかもしれない。

「筑紫さん?」
「――君のその手袋……」
「!」
「確か伊佐地と連れの少女もしていたな。それが君たちの共有する秘密、と考えていいか?」
「秘密なんて大げさですよ」

 封札師の仕事に随分人を関わらせているが、まだ俺にも一般人を巻き込みたくない気持ちはある。
 ましてや伊佐地センセと親しくて事情を知らない人ならなおさら、嘘を吐くのは苦になるわけがない。だが今まで看破されてきた手前そう上手く吐けている自信もなく、筑紫さんもフッと笑った。

「君は……伊佐地に似ているな。友好的な顔をしていながら肝心な事は絶対に口にする事はない……。似すぎていて、腹が立つほどだ」

 筑紫さんは笑っている。けど目は鋭く怒ったような感情が篭った声で、俺が僅かにたじろぐと筑紫さんは目を伏せる。顔を再び上げた時には仮面のような最初の無表情がそこにあった。

「ひとつ、聞かせて欲しい。七代君、君は何かを救いたいと思った事があるか? たとえ……他の何を犠牲にしても、だ」

 二度目の話題転換ではあったが、筑紫さんにとっては話の続きなのかもしれない。
 他の何を犠牲にしても救いたいという気持ち――俺はないと答えた。

「そうだな。それが当然の反応だ。そんな事態とは無縁の生き方をしてきたのだろう」

 筑紫さんにはもう声にも感情は見えなかった。
 俺の答えに落胆を含めた関心すらないようにも思える。

「突然、妙な事を訊いて済まなかった。君のような年代の若者がどれほどの覚悟を持って日々を生きているのか―――それに興味があった。君が何も知らないただの高校生なら、私の言葉などすぐに忘れるだろう。悔いのない日々を謳歌する事だ。……?」

 そう言って立ち去ろうとする筑紫さんがふと足をとめた。
 居間を出てから何処にいたのだろうか、白が肩を怒らせて「まったくあの娘は、妾を何だと思っておるのじゃ……。馴れ馴れしく髪など梳きおって……」とブツブツ言いながら境内を歩いてくる。

「む、何じゃ、七代。まだおったのか。そろそろ行かねば遅刻――――――!?」
「君は……」

 白と筑紫さんが顔を見合わせる。筑紫さんは白髪の少女に驚いているという感じだが、問題は白だ。今まで人間と対峙してきたなかで見せたことのない、険しい表情を向けていた。

「何じゃ、其方は……。何なのじゃ、その《氣》は……」
「白?」
「其方―――本当に、人間かえ?」
「ッおい、白!」

 何を言い出すんだと思った。人間かどうかを訊くなんて、どう考えたっておかしい。
 けど筑紫さんは相変わらず怒りもせず、白から視線を外すとあたふたしている俺の方を見た。

「ええと、いや、気にしないでください」
「学生時代というのは何物にも代え難い。出来るうちに堪能しておく事だ、七代―――千馗君。では、失礼する」

 そう言って今度こそ筑紫さんは神社の石階段を下りて去っていった。

 ……待て、俺はいつ筑紫さんに名乗ったんだ?

 ドッグタグで自己紹介した覚えなんてない。それに、俺が此処にいることを尋ねもしなかった。伊佐地センセから聞いていた。いや、だったら手袋のことなんか…。

 ため息をついて頭を掻けば、俺より更に戸惑っているような白が目に入る。
 白、と声をかければ歯痒いとばかりに彼女は顔を歪めた。

「何なのじゃ、彼奴は。一体、何が起こっておるというのじゃ……。わからぬ……。いままでこんな事は一度たりとて無かったのじゃ。まるで初めから花札の力を呼び込む事が目的かのようなあの妙な洞も、鬼札の出現がこんなにも遅い事も、あまつさえ―――妾が、執行者を選び損なうなど……」
「白」

 右手で頭をなでる。最近気付いたことだが、白は隠者の刻印が刻まれた手で触れられるのはあまり好きじゃないようだ。だから今は左手だと問答無用で怒るけど、右手だと怒らない。

「白は間違えていない。俺がちゃんと花札を集めて、それを証明する」
「ッ……この虚けめが」

 パチンと扇で叩かれて手を退けさせられ、背を向けられる。

「まったく……。其方とおると、調子が狂うの……。こんな事も……初めてじゃ」
「そりゃ、悪かったな」
「…其方は学校とやらに行くがよいわ。妾を預かる身で遅刻などというみっともない真似は許さぬ。……早う行け」

 バサリと羽ばたく音がしたと思えば、すでに白の姿はなかった。