ちらちらと白い綿のように雪が降る。 勝手口を抜けて挨拶を交わせば「深夜から降りはじめたみたいですねぇ」と顔なじみの屋敷の男が言った。降り積もった雪を人の通れる幅だけ退けている男が、ふうと額を拭うと庭先のほうから彼の妻が現れて「おやまあ、…――さま、今日はお早いのですね」と笑った。 「ええ。ちょっと帝都の様子が騒がしいようでして、ところで……」 この時間ならば厨房にいるはずの彼の妻がここにいる。なのに、厨房に通じる通気孔から白い煙が上がっているのだ。 彼と妻は顔を見合わせて、ちょいちょいと自分を招いた。 「実は…お嬢さんが今朝は自分が準備するっておっしゃられて」 「――まかせたんですか?」 「飯を炊いて、卵粥にするってぇ言うんで」 病人が誰ひとりいないのに、朝餉が粥ときたものだ。 それが、彼らとただ一人の主である彼女の譲歩だったということだろう。なんとまあ、と感嘆とも呆れともつかぬ声が漏れれば「あら、いらしたんですね!」と厨房の戸から彼女が姿を見せた。 「よかった。少し多めに朝餉をつくってしまったんです。よければ食べてってくださいな」 「お嬢さん、ちゃんとできましたか? カヨは中途半端のものをお客様にはおだしできませんよ」 「も、もう……やだわ。カヨさん! 彼の前で……」 「――ありがとう。ご相伴にあずからせていただきます」 彼女が作った粥は、美味しいとは素直に言えなかった。 卵はぐずぐずと均一にまざらず、出汁はみょうに濃くて最初は顔をしかめてしまった。 そんな朝餉を終えたあと、妻が言った。 「お嬢さん、婿をとるまでにカヨがしっかりお嬢さんを鍛えてさしあげます。これじゃあ、嫁の貰い手もありませんよ!」 「大丈夫、来年の今頃には腕があがっていますよ」 けど、彼女は…次の雪など見ることもなく、 ポッカリと胸が艶めかしい紅に染めあげてしまう。 「……はあ」 ちょっとクマができかかっているな。 相変わらず夢見は悪く、少しずつ蓄積した疲労が顔に出始めているようだった。ぐりぐりと目元の皮膚を揉みながら夢について考える。 なんだか、どんどん客観的から主観的になってきている気がする。しかも最初は朝姉えに似た女と男だけの二人に限られていたものが、今日になっては他の登場人物まで出始めている。皮膚には雪が降る寒さと、舌には女が作った味の濃い卵粥が残っている気さえする―――五感まで直接訴えるほどに、誰かの思い出を見ている、いや……記憶と経験を共有している? 「まさか、な……」 明日は土曜日に入り、二日間は自由に時間を使える。 白には寝汚いと言われるだろうが、洞に潜る以外は週末で睡眠を挽回させてもらおう。そして月曜日を迎えても、翌日は勤労感謝の日で休みだ。 休み休み、と繰り返し呟きながら俺は洗面所を出た。 居間に入ると、白と清司郎さんがすでに食卓についていた。 今日はいつもより早く起きられたのだろう、身支度を整えた朝姉えもいた。それが機嫌にも作用しているのか、挨拶を交わしたあとに彼女は楽しげに、けど改まったように一つ咳払いして俺に言う。 「えー、今日は千馗君に重大発表があります。なんと、今日の朝ご飯は私が作ります!!」 ――少し多めに朝餉をつくってしまったんです。よければ食べてってくださいな。 少し照れを含んだような、優しい笑顔と夢のシチュエーションが重なる。 「どう? 少しは見なおした?」 「…………」 「………も、もうッ、何か言ってよ!!」 「わ、…わー、たのしみだな! 朝姉えのご飯!」 「千馗君ったら、もうちょっと言い方があるんじゃない?」 「何偉そうに言ってやがる。ベーコンエッグとパン焼くだけじゃねェか。ッたく、威張るなら味噌汁くらい作ってからにしやがれ」 羽鳥家の食卓を預かる清司郎さんとしては大いに不満があるメニューだったようだが、内容的に真っ当だったので俺は内心安堵する。夢と比べるのも失礼だが、あの女の人みたいに朝姉えの腕が悪くなくて良かった。 けど朝姉えにしてみれば、清司郎さんの言葉は聞き捨てならない。 「何よ、お父さん、それじゃまるで私がお味噌汁も作れないみたいじゃない」 「実際作れねェだろうがよ。時間的に」 「う〜。だってお父さん、出汁から取らないとうるさいじゃない」 「当たり前だ。粉末なんぞで手ェ抜きやがったら、ただじゃおかねェからな」 「はいはい。わかってますよ。それじゃ千馗君、すぐ準備するから座ってて」 「はい」 「あら、白ちゃん。もう食べ終わったの?」 今では定位置になった白の隣に座ると、入れ替わりに白が立とうとしていた。 「……うむ。味噌汁も良いがの、かっぷすうぷ、というのもなかなか美味じゃの」 「ほんと? よかった〜。またいつでも作るからね」 味覚がややお子様寄りな白は、カップスープもお気に召したようである。朝から機嫌がよろしい白に、朝姉えは嬉しそうに微笑む。が、清司郎さんが「作るって、お湯入れるだけだろうが……」と呆れ口調で茶々を入れれば「お湯だけじゃなくて愛情もちゃんと入ってます」と朝姉えは切り返した。 うーん、本当に白はお子様味覚だ。まるで精神年齢に外見が引きずられているように違和感がない。 つい先日の休みに、ラーメンを作ってあげたとき白が美味しそうに食べていたので本格的なラーメン店でも連れて行こうかと思っていたが、もしかしてファミレスの方が白には楽しいのだろうか。 そんなぼんやりとした思考は、どんっ、という音で消えた。 白が朝子を突き飛ばして「もうよさぬかッ!!」と肩で息をしている。ポカンとしている朝姉えの手元には櫛が転がっていて、なんとなく事情は察することができた時にはもう白は居間から姿を消していた。 「白ちゃん…」 「朝姉え、大丈夫ですか?」 「うん……。ただ、やっぱり、嫌われちゃってるかなあ」 「いや、接触が苦手なだけで嫌ってなんかいませんよ」 「そう? 千馗君が言うと少し安心するわ」 「おい、朝子。お前、そろそろ時間じゃないのか?」とそれまで黙っていた清司郎さんが時計を見上げながら言えば、朝姉えも俺もその動きにならって時計の針を見る。いつの間にか、朝姉えがいつも羽鳥家を出る時刻を一分過ぎていた。 「え……? あ―――う、嘘ッ!? もうこんな時間!? せっかく早く起きたのに〜ッ!!」 みるみるうちに顔を青ざめさせたかと思えば、跳ね上がるように立ち上がってエプロンを脱いだり、居間の隅に置かれたバックを掴んで掛けてあるコートを脇に抱える。まるでステージで早着替えをするアイドルかのような慌ただしさを見せながらも朝姉えは「千馗君、ごめんッ、ほんッとにごめんねッ!! それじゃあまた後で!! ああもう、行ってきますッ!!」と謝り、文字通り居間を飛び出していった。 バタンッと玄関扉が閉まった音を最後に沈黙が来ると、清司郎さんが立ちあがった。 「ッたく、どうしようもねえな。アレは。結局、俺が作るんじゃねえか……。仕方ねえ。七代、お前卵はどうする」 「じゃあ、半熟でお願いします」 「半熟っつっても、トロっと流れ出さないくらいのだな? そりゃ、朝子に作らせないで正解だが、ま、後でアイツにも伝えておく」 「え?」 「あー…お前の顔色が少し悪いって朝子が心配していたんだよ。珍しく早起きして朝飯作るって言い出したのも、そうかもしんねえってのは親の欲目かもしれねェが…」 「そうだと思います。朝姉えは優しいから」 鏡を見て大丈夫だなんて何を甘いことを思っていたんだろう。 毎日顔を見せていれば、事情を知らない朝姉えにだって気付かれて当然だろうに。進路指導室で今は言えないなんて自分勝手なことを言った俺のことを、朝姉えは言葉通り信じてくれているから何も言わない。けれど気遣ってくれる。 「そうか? だったら、母親に似たんだろうな…。…七代、あんま根を詰めすぎるなよ。適当にやっとけ、適当に」 「はい。ははっ…朝姉えの優しさは、両親ゆずりですよ。きっと」 「好きに言ってろ。じゃ、ちょっと待ってろ」 →弐 |