緑茶編 | ナノ

-1- I said all right, but it was true?


 光が差してもまるで温かみを感じない校舎の廊下。
 誰もいない3階の教室前をうろうろしながら、目的の人物を探していた。

 アーチャー…。
 一体、どこへ行ったのだろう。

(………はぁ)

 足を止めてしまうと自然にため息が口から零れた。

 近くにいる気配はない。
 呼んでも出てくる様子もない。
 これは、完全に避けられているのではないだろうか。だとすれば、思い当たる節がないわけではないのも、自分のため息を深くするには十分だった。

 ――そんなんで大丈夫なんすかね?

 表情が、声が、鮮明によみがえる。
 それは僅か数日前。ムーンセルが用意した虚構の日常から抜け出た日にかけられた言葉だった。





 ムーンセル・オートマン。
 その、月そのものである万能の願望機の所有権をめぐる魔術師同士の生存競争。

 仮初の学園生活から真実に目を凝らし、サーヴァントを持つに足る魔術師であるかの模擬戦を勝ち抜いた128がひしめく一人として、岸波白野(じぶん)はここにいる。
 死にたくないという声に応えて現れてくれた、緑の外套を纏った痩身のサーヴァント。アーチャーのマスターとして。

 だが、その道行きは前途多難であった。
 自分には、セラフに接続する以前の記憶がまるでなかった。予戦の間ではセラフが過去の記憶を取り上げることになっているものの、本戦に進んだ者には返却することになっていると説明してくれたNPC間桐桜も「管轄外のことは私にもどうしようもありません」と答えるだけ。
 屋上で知り合ったマスター遠坂凛には「どっかで魂の端っこでもぶつけたんじゃない?ご愁傷さま」と告げられてしまった。

 自分が記憶喪失にショックを受けるのは当然だが、保健室や屋上での会話を見聞きしていたサーヴァントも、姿は見えなかったが驚いていただろう。己を呼び出したマスターがよもや“死にたくない”という生存本能以外、まるで何もないだなんて。

 フラフラと定まらぬ足取りのまま言峰神父から貰ったチップでマイルームに入ると、アーチャーは保健室以来の姿を見せて開口一番に不審を露わにした。

「アンタ、記憶ないんでしたっけ」

 遅れたがうなずく。

「これっぽっちも思い出せないんで?」

 やはり、うなずくしかない。

 名前は覚えているのだ。けれど、過去にどんな人生を歩み、どんな気持ちで聖杯に願望を託そうとしたのかまるで思い出せない。

「はあ……。そんなんで大丈夫なんすかね?」

 呆れた顔を隠しもせず、伸びた前髪からこちらを睨みながら彼はそう言った。
 そしてこちらは、彼を見上げることしかできなかった。

 “大丈夫”。そんな気休めの言葉も吐けない自分が、ただただ惨めに思えた。





 気付けば、廊下の真ん中で足を止めたままだった。

 ……マイルームに戻ろう。

 あれ以来、やや単独行動を取りがちなサーヴァントであるが、アリーナが解放される夕方にもなればさすがにアーチャーも自分のもとに戻ってくるはずだ。
 いわゆる記憶喪失状態である今の自分は魔術師としても、アーチャーのマスターとしても満足に力を発揮することができない。ゆえにアリーナで鍛錬を積むべきだということは彼も納得しているところである。

 未熟以前の問題である自分をどうするべきかと尋ねたとき、教会の青い女性は言った。

「回路を鍛えろ。それ以外、君には近道も抜け道もないと思いたまえ。君が取りうる最善の策だとね」

 それが聖杯戦争で生き残るための最低限の術であるならば自分は悩んでいても、歩みを止めるわけにはいかない。大丈夫、とアーチャーにそう答えられるためにも進む以外の道はないと思いたかった。





 生前、騎士道とは無縁の場所で孤独の戦いを選んできた己は何の因果か、英霊という騎士(サーヴァント)として聖杯戦争に招かれた。
 そうはいっても、生前のあり方ゆえに英霊まで上り詰めた以上、己のやり方をおいそれと変えられないだろう。ただ、マスターたる人間が騎士道然とした強い変革(インパクト)をもたらす人物であればあるいは……と思っていたアーチャーは、己のマスターに最初の期待を捨てた。

 アーチャーのような濃密な闇を知らない。
 まして騎士道のような華やかな光など、むしろ程遠い――平凡な少女のマスター。

 しかも何の手違いか。マスターは自身の記憶がごっそりと抜け落ちている。願望をかけて血で血を洗う聖杯戦争に参加しているのだと説明してみても、分かっているのかどうかもわからない。まさに夢現な顔でこちらを見上げてくる。

 大丈夫なのか?

 999人の予戦から勝ち残った時点で幸運(ラック)を使い果たしたのではないだろうか。
 ……そうかもしれない。己の英霊としての格は下の下をいく。

 なんて貧乏くじを引いたマスターだろうか!
 せめてレオという少年のように最優と謳われるセイバークラスのサーヴァントを引いていれば、彼女自身はヘボでも一回戦くらいは余裕で勝ち残れるだろうに!

 だが、サーヴァントとして呼ばれた以上はマスターを勝たせるのが義務というものだろう。幸いなのか、アーチャーには岸波白野の“死にたくない”という単純にして明快な願いを理解することは難しくなかった。

 マスターを生かすために、この聖杯戦争に勝ち残る。
 それが契約内容(オーダー)だ。

「……あのお嬢さんを頼る必要なんてない」

 大丈夫。
 複数を相手取るのはアーチャーの十八番である。
 にやり、と口元に弧を描いて、痩身のサーヴァントは緑の外套で己の姿を隠した。


2013/1/23