遠くから波が打ち寄せる音がする。 おそらくモジュールとなった人間は海と何かしらの縁があるせいかもしれない。 音だけの情報から浮かぶ絵はキラキラと水面を輝かせる南国のそれだ。しかし、耳を澄ましていくと徐々に波の音は分解されていき―――……雑多な人の声の集合体へと変わりはてたところで、彼は瞼を開けた。 「…………」 キチンと等間隔に並んだ本棚。 四脚の椅子が収納されている四台のテーブル。 入り口に置かれたカウンターそばの壁には「返却日厳守!」「本の扱いには注意」と書かれた張り紙がある。 彼はそれらを視界におさめてから、ふう、と大きなため息を吐いて一言。 「とりあえず、閉鎖だ」 カウンターに積まれたわら半紙を一枚引き抜き、油性マジックで書いた。 『図書委員だより 「テスト期間中の注意」 テスト期間中は図書室を閉鎖します。 閉鎖中に本棚の整理と、 要望の多かったPCの設置を行いますので、 テスト期間終了後にぜひいらしてください!』 たまたま通りかかったとある若白髪のNPCが、図書室掲示板に張られたプリントを見て一言。 ……あの顔でこの文面は、ないわー。 ・ ・ ・ 月海原学園司書という配役を与えられ、過去に実在した人物をモジュールとしたNPC。 それが図書室を閉鎖した張本人である。三十路手前に見えるその男は、監督役を示す黒でそろえたスーツとコートで身を包み、椅子に腰掛けてぼんやりと真昼間の空を眺めていた。 どこか物憂げにも見えそうな草臥れた彼は、今、誰もいないこの図書室の支配者である。 しかし唐突に(もしくはようやく)それは終焉を告げた。 「不思議なこともあるものだ。貴様の人となり(データ)を見る限り、本に親しむようには見えなかったのだがな」 「他だと吸いたくなるんだよ」 図書室だと吸いたいという欲求は自然となりを潜めるだけだ、と不意に現れた声の主に彼が振り返らず返答すれば、横の空気が忍び笑いで震えた。 暇さえあれば煙をふかす男にNPCたちの苦情がつのり、とうとう今回からは教師から司書という配役を割り当てられただけでなくセラフ内は全面禁煙となった。 その腹いせに権限乱用で図書室を閉鎖して予選一日目から雲隠れをしているのだから……。 「なるほど。存外、かわいらしいことをする」 「うるさいな。子供っぽいと素直に揶揄したらどうだ。けど、そういうわけだ。僕の努力を無駄にしないためにも、監督役である神父様にはご退場願いたいね」 傍に寄られるだけで煙草が吸いたくなるんだよ。 顔をしかめて、男・衛宮切嗣は吐き捨てた。 別に横にいる神父と犬猿の仲というわけではない。しかし、監督役NPCたる言峰神父と衛宮。 お互いに元になった人物の因縁は切っても切れぬというのか。衛宮は言峰に対して敵意と恐怖と、必要のない意識をする。言峰のほうも此方に対して何か思うところがあるのだろう。レギュラーのNPCであるお互いの存在を感知したときから、言峰は明らかに他のNPCとは違う対応を行うことがある。 具体的にいえば接近(アプローチ)してくるのだが……。 「監督役なんだから暇じゃないだろ」 衛宮は言峰との会話を盛り上げてやる気はさらさらない。 元になった人物の因縁などNPC(じぶん)には関係ないと思っている。だから、あえて邪険にする必要はないのだが、そうは思っていないようである言峰が衛宮は“苦手”だった。 「ああ。用もなく貴様を訪ねるほど、こちらも暇ではないのだよ」 ほら見たことか。 厭味ったらしい、この言い回し! そも、NPC同士にはムーンセルの膨大な回路で情報伝達が可能なのだから、わざわざ言峰が衛宮を訪ねる必要などない。脳内の衛宮は、この矛盾を突っ込んでやりたくて両手をわきわきとさせているが、実行すれば会話は泥沼化するのもまた目に見えている。 そして、言峰自身は衛宮がそのことを突っ込もうが突っ込まないが気にも留めていない。衛宮がそういう厭味を言っているのだと気付き、うんざりしていれば満足なのだ。 背の高い男のご尊顔を拝見せずとも分かる。 (ぜっっったいにニヤニヤしている) ちょうウザ。どうしよう、心臓を撃ち抜いてやりたい。 「……で、何かな」 「不自然な脱落については気付いているな」 「――ああ」 意外に真面目な内容に、右肩上がりだった殺意を衛宮は霧消させた。 「すぐに末端のNPCからマスター側に“警告”を出すよう連絡したよ」 「だが、“放課後の殺人鬼”はベタではないか?」 「急ごしらえで作ったんだ。そこは“better”といってほしいね。なんだ、文句でもあるなら君が書き換えればいい」 「いや、不用意な書き換えは無駄な“気付き”を増やすだけだ。イレギュラーだが、放課後の殺人鬼もまた選別として役立ってもらう。というわけで、衛宮、ついでだ。もう一つ仕事をしてもらおうか」 「やだよ」 「引きこもりが偉そうな口をきくな。こちらも突然現れたイレギュラーの女二人との交渉で忙しいのだよ。ふむ、貴様がどうしてもというなら、“命令”しても構わんが――」 「はいはい、了解した。まったく……これなら前の教師のほうがよかったよ」 ・ ・ ・ 「ああ、それで新聞部について聞かれたのか」 若白髪と左頬から首元まで生々しい痣があるNPC、間桐雁夜がグラスに入ったウィスキーを傾けた。 カランコロンと琥珀色の液体に浮かぶのは、三の月想海原産のかち割り氷だ。藤村に頼まれて、とあるマスターが取ってきたものをおすそ分けしてもらったらしい。 「けど、ムーンセルから情報引っ張ればよかったんじゃねーの?」 衛宮から急な呼び出しを受け、「君の経歴(ログ)を是非活かしてほしい」と言われた時には深く考えもせずに協力したが、よくよく考えればそんな手間はいらないだろう。 なにせ自分たちは霊子ハッカーとは違う、ムーンセル謹製のAIを搭載されたNPCだ。 雁夜の呟きに同じくウィスキーをくゆらせていた衛宮は肩をすくめた。 「僕に言峰ほどの権限はないよ。あくまでアリーナ管轄がメインだからね。君もわかるだろ、アリーナの“いきものがかり”なんだから」 「いきものがかりじゃねーよ!小学生か!敵性プログラム管轄って言えばいいだろ!」 ダンッとグラスをテーブルに叩きつけるが、衛宮には何の効果もなかった。むしろ、エネミーのなかに蜂をデザインしたものを見たときから、この手の話題では雁夜に対する風当たりがなんかキツい。 これまた藤村からおすそ分けで貰ったというミカンの筋をちまちまと剥きながら、衛宮は言った。 「デフォルトは君が作ったんだろ?妙にかわいいデザインが多いけど、アレは趣味?」 「なんでだよ」 「てっきり間桐のことだから触手系やゲテモノ系が来ると思っていたのに」 「あのな、クトゥルー系はZEROキャスターの十八番だろ」 「何言ってるんだい。君の姪っ子こそ、そっち系統の王道だろう」 「ハハハ。俺、今、NPCだし。蟲とか間桐の魔術とか何それ?だから。保健室のあの娘と係わり合いないし」 「ははは。それ、今度彼女の前で言ってみなよ」 「バカヤロウ、嫌われたらどうするんだ!!」 わっと机に突っ伏して、雁夜は泣き出した。 (……泣き上戸っていうか。感情に振り回されやすいんだよね。マトウは) 衛宮が言峰との因縁にうんざりしているように、雁夜は雁夜で、血の繋がらない姪との因縁に頭を悩めているらしい。ちなみに同じ名字の元アジア・チャンプのマスターについても、彼は同じように一回戦の終わった夜に号泣していたし、レジスタンスの赤い少女については「あの野郎にそっくりで泣ける」と漏らしていた。とにかく泣くのだけは変わらない。 「けどま、いい機会だったかな。今後似たようなことを注文された時の為にも、二人ほど僕の権限を一部委譲させたNPCを見繕えたし」 さらには司書室の扉に『出張につき不在』という張り紙も張ってある。 簡単な暗示だが、それによって司書が居ないことを本選から不自然に思わせないようにしているのだ。 「こずるい」 「ほめ言葉だね」 フフンと人の悪い笑みを浮かべ、ようやく好みの状態になったミカンを口にいれようとした、その時――。 「学園内で飲酒とは感心しないな」 衛宮の背後に現れた神父はそう言って、きれいに剥かれたミカンを手ずから食べる。 「ぎ…」 「……ぎ?」 ぎゃああああああああ、という二種類の悲鳴が司書室からあがった。 2013/1/16 |