4st-05 | ナノ

第四話 伍


 4階から1階まで降りて(しかも屋上に)上がるとか、それどんなイジメですか。
 いやまあ、中学の時に体操服が泥水入りのバケツに突っ込まれていたときより随分マシだけど、とうっかり開いた黒歴史を霧散させながら俺はまた一つ階(きざはし)に足をかけながら屋上を目指していた。乗り気じゃない俺が屋上に向かうのは、燈治と飛坂に勧められたからに他ならない。

 ただしカードに対して燈治と飛坂の見解は綺麗に分かれる。
 間違いないと頷いた二人が阿吽の呼吸で同時に、キッパリと、

「ラブレターね!!」
「決闘状だな!!」

 と言い切ったのだ。次いで穂坂は一拍置いたのちに「ええッ!?」と驚いていた。その驚愕がどちらに向けられたものかは定かではない。俺にしてみればどちらも身に覚えがないので、ないわー、と意見を表明してはみたが、二人はどちらが正しいかを言い合うのに夢中で完全にスルーされてしまった。泣くぞ。

 そして当の本人の意見をバッサリ無視した二人にどちらが正しいかを証明するために(飛坂に至っては「まさか女の子の気持ち、無駄にするつもりじゃないわよね?」という睨みも込みで)俺は“行かない”という選択肢を捨てざるを得なくなったのである。

 そんなプチ回想を脳内で繰り広げながら3階まで登ったところで、独特のフレーズが聞こえた。

「あ……お導き……」
「うおッ…、しゅ、蒐。驚かすなよ」

 ひょっこりと顔を出した蒐は、紙袋に開けられた真っ暗な二つの穴からじっと俺を見る。
 話しかけてきた割に沈黙を貫く蒐に焦れた俺が促そうとしたとき、カサカサと紙音まじりの声で「…千馗センパイ……知らないカード、持ってる、感じ?」と首(というか頭)を傾げた。突然のことに思考が働くのが遅れたが、カードと言われて俺は下駄箱に入っていたメッセージカードが思い当たった。

 これでいいのか?とそのまま持っていたカードを蒐に差しだす。すると蒐は「…やっぱり」と頷いた。

「BRUJAのよくない、カード。ここに描いてある、印、たぶん……SECRETO」
「セクレト?」
「秘密を隠すための、魔術」

 手袋を嵌めた指で蒐はカードに書かれていた奇妙なマークを差す。

「ブルーハは、女占い師……でも、その本当の意味は、……魔女。スペインは、ほんの百年前まで、魔女狩りが続いてた、らしい。魔女や放浪の民だけでなく、疑いをかけられた裕福な人も、たくさん……焼かれた。たくさんの……カードも、無くなった」

 抑揚のない蒐の声が段々と沈み、一旦途切れる。俺は手元のカードに目を凝らしてみるが、今朝から校内に漂う匂いに集中が途切れる。蒐の言葉が確かならこのカードの差出人は彼女に違いない。そしてこのカードにしろ何らかの魔術あるいは呪術がかけられているはずだ。

 体育の授業に囁かれた言葉がよみがえる―――でも、コレだけは本当。弥紀に悪さはしてないヨ。……どうしよう、行く気がますますなくなってきた。けれど行かないわけにはいかなくもなった。

 気合いを入れる意味でもてのひらで頬を張ると蒐は呟いた。

「カードを集める、すき。でも、誰かの物を無理矢理奪うは、ダメ。……このカード、くれる?」

 指の間に挟んでいたカードに蒐の視線が届く。蒐に渡すことに惜しむ理由はない。

「けど…、大丈夫か?」
「うん。危なく、したら、レアなカード、だから」

 つまり蒐には危なくする方法があるということだろう。
 なら大丈夫だと、教えてくれた礼も込めて蒐にカードを渡す。

「……嬉しい。千馗センパイ、すごく、いい人」
「大げさだな」
「代わりにこれ、あげる。割といい、四角。内容、ではなく材質が……至高」
「――ありがとう」

 てのひらサイズの文庫本には“こころ”と書かれている。
 夏目漱石でも知名度の高い作品だ。確かに中身が中身だけに、内容が“四角っぽく”わけではないだろうが、カード一枚で文庫本を貰ってもいいのだろうか。

「魔女……。知らないもの、知ってる人。心の隙間……つけこむ人。占いも……そう。反応を見て、言葉を選ぶ。四角は揺れない。全部……まっすぐ。千馗センパイは、四角い……かな?」

 くふふ、と最後に蒐はお決まりのように笑って階段を下りて行く。
 その姿が完全に見えなくなって、見送っている場合ではなかったと俺は屋上に急いだ。





 最後の階を上りきって重厚な扉の前に立つ。
 ひやりとした感触を伝えるドアノブを回してぐっと前に押すと、昼にはなかった強い風が吹き込んできた。それをなんとか逃しながら屋外に出ると「やっぱり来てくれたんだネ」と西日を受けた人物がこちらを向いていた。その全身が一瞬だけ朱い制服に見えた気がした。

「待ってたよ。急に呼び出して、ゴメンネ」
「いや、屋上に呼び出されるのは慣れているから」
「そうなノ? 千馗はもしかしてオンナ泣かせなのかナ?」

 そんな色っぽい理由で呼ばれたことは一度もないと自嘲気味に答えながら俺は、追い風になるように移動しながら縁に手を乗せる。アンジーは「なら、アンと一緒だネ。アンもこういうコトは、ハジメテ、だから」と風に遊ばれて頬にかかる髪を流した。パタパタと制服の裾も少し揺らめいて、もとから見え隠れする素肌が露わになったりして俺は視線を逸らした。

「アンね、セニョールにどうしても伝えたいコトがあったの。誰かに先を越されちゃう前に言わなきゃ、ってネ」

 戻した視線の先にアンジーの熱っぽい顔があった。
 夕日のせいかもしれないのに、「……エ、エエト、ちょっと待ってネ。心の準備、するカラ……」と胸に手をあてて、ほう、と息を吐く表情には色っぽさが見える。「好きかどうかはともかく、あのはち切れんばかりの身体に燃えない男はいねえだろうよ」と拳を固めてそう言ったクラスメイトが過った―――が、今思い出すことはそれじゃないだろう、俺。なんだか背中がぞわぞわして一歩アンジーから離れた。

「……ねえ、セニョール……。初めて見たときカラ、間違いナイって思ってたの。こんなキモチ、初めて―――お願い、逃げちゃヤダヨ……」

 うるうるした瞳に心が揺らぐが、空いた距離を縮めるようにアンジーが近付いてきたことをきっかけに足が再び後退をはじめる。傍から見れば俺とアンジーは一定の距離を開けたまま移動するという不思議な行動をしているが、指摘する者はいない。
 だからこそなのか、アンジーの醸し出す雰囲気は壊れぬまま、愛の告白のような囁きが紡がれる。

「セニョールは、とってもステキなヒトだネ。他の誰にもわからなくても、アンには一目でわかったヨ。力強い瞳に、秘めた、チカラ……。見つけたヨ、アンのヒーロー……。フフッ……いいでしょ、千馗?」
「な…何が……?」
「何って……オンナのコに言わせるノ? セニョール」

 アンジーの肩を掴んで引き寄せるイメージが頭に浮かび、その欲求を吐き出さんと腕が動きそうになったが、やはりアンジーが一歩近づくのを認識すると足が下がった。そこでアンジーは初めて困ったようにはにかんで「……ウーン、引っかかりそうなのに。……思ったより手強いネ?」と告げた。

「ウウン、残念だネ! せっかく、準備万端だったのニ! この勝負はアンの負け、かな」
「勝負?」
「Si! だからネ、千馗にはご褒美でアンの秘密を少しだけ教えてあげる! ……アンにはネ、護りたいモノがあるんだヨ。Abuela(おばあちゃん)に誓ったの」

 要領の得られない秘密を打ち明けられて俺は困惑する。俺には今までの告白シーンみたいなものが、アンジーの言ったところの“勝負”だということしか分からないのだ。だけれどアンジーは気にも留めずに言葉を紡ぐ。

「BRUJA(魔女)の誓いは絶対―――だから……力尽くでもらうしかないかナ?」
「!!」

 直感で身構えた俺にアンジーは満足したように笑む。

「そうだよネ、それで万事解決!! さあ、渡してもらうヨ? アナタの――――――花札を!!」