変わらないけど、変わる | ナノ

閑話《六》


 バチンッという音が、空気を震わせる。
 ドッグタグの常連はそれに見て見ぬ振りをするが、初めて聞いた客のなかには好奇心で見る者もいる。その誰もが見るであろう、女が若い男を引っぱたいている光景は想像力をかき立てられる。

 痴情の縺れか。
 どんな理由だろう。

 絢人はそんな他の客の視線を気にせず、白魚のような手を振り上げた美女に向き合った。
 緩く巻かれた髪から晒される薄化粧の顔には僅かの罪悪感もない。彼女は契約履行を果たし欲しい情報を得たという満足感に包まれた顔で「じゃあ、また連絡するわね」と告げ、ベルベットのハイヒールを鳴らしてドッグタグを出た。

「待たせたね」

 カウンターに戻った絢人が声をかける。
 鴉色の制服に身を包んだ千馗は「いや、いいけど」とマスターからカウンター越しに珈琲を受け取る。硬質な黒髪と肌は東洋人そのものだが、どこか繊細なつくりを思わせる。十人中八人に美形と言われるのが絢人ならば、千馗は好ましいと言われるだろう。ハロウィン・パーティから帰った輪が「千馗も来ればよかったのに」と零していたくらいだ。
 その横顔を見ていた視線が気になったのだろう、千馗が訝しげな顔でこちらを見た。だがすぐに視線は絢人の左頬に向かい、小さく溜息を吐いた。

「本当にいたんだな、お前を殴るような美人」
「彼女はお得意様でね」
「ああ、道理で…」

 スナップのきき具合に慣れが見えた、と千馗は新しいおしぼりを差し出す。
 冷やせというのだろう。しかし絢人には痛みを引かす理由はないので、気持ちだけ受け取る形でおしぼりをテーブルカウンターに置いた。

「いい笑顔だな」
「君の方はどうも優れないようだね。疲れが滲んでるよ」
「こっちは潜るのが専売特許だからな。少しは出るだろ」
「それで今日は何の用かな?」

 封札師である彼が抱えている案件に協力するようになってから一週間が過ぎようとしている。
 先程ドッグタグを去った彼女と同じように、何かしら知りたい情報があるのだろうと絢人は促してみると千馗は「いや、別に?」と首を振った。

「……何も?」
「強いて言えばフレンチトースト待ち。前々から食べてみたかったんだよ」
「待たせたな」
「お、美味そう! マスター、珈琲もおかわり下さい」

 拍子抜けする絢人を尻目に千馗とマスターである澁川の会話はトントンと進んでいく。
 千馗がここを訪れるのは必ず花札絡み、つまりは自分に用があるからだと思っていたが、少々自惚れが過ぎたらしい。
 つう、と自分の胸ポケットに入れている紙片、花札の感触を確かめる。

「じゃあ、今日は僕が訊いてもいいかな?」
「いいけど。ただ、封札師に関して俺の持っている情報はないぞ?」
「いや、そのことに関しては期待していないよ」
「ふうん、さいですか。じゃ、何だよ?」
「僕が持っている札を君は一度も取ろうとしないけれど、それはどうしてだい?」
「はあ?」

 切り分けたフレンチトーストを、まさに口に入れようとしていた千馗が一時停止した。
 長めの前髪から覗く眉がぐっと寄せられる。わずかに引きつった表情で「……何、お前、ややこしいことを……」とフォークに刺さったままのトーストを食べた。

 確かに、千馗に花札を渡さないと決めたのは絢人自身である。
 だが絢人が隠人になってから花札を奪えばいいと千馗が考えていないのは、彼をとりまく札憑きの存在が証明している。あるいは万全の体調ではなかったのであの夜は身を引いたのかとも考えたが、この一週間、奪う素振りも懐柔しようとする気配もない―――どんな意図があるのだろう。

 千馗はフレンチトーストの半分を平らげた頃、ようやく答えた。

「まあ、何て言うか。正直、俺にとってお前は謎すぎる。人から殴られたいっていう…」
「失礼。別に誰でもいいとは言っていないよ。僕は、美しい人に、打たれたいんだ。それも平手打ちなら更にいい」
「とか言っちゃう、真性の変態だとしても、だ」

 カツンとトーストを突きぬけてフォークが皿に当る。

「お前には輪がいる」

 どういう意味だ。
 今度は絢人が一時停止した。

「お前がどういう経緯でその札を手にしたか知らないけど、輪がそれをお前に預けたままでいたってことは輪が香ノ巣絢人を信用している証拠だ。輪は俺を信じて札のことを任せてくれた。その輪が、お前を信じて何も言わずにいるのを無碍にする理由はない」
「………」
「お前の判断に任せるけど、輪を泣かすような結果にだけはするなよ。お前のそれは、輪が預けたものなんだからさ」
「なら、君から預けられたという事と一緒かな?」
「ん〜、ま……そうなるのか?」

 お前、ややこしくするのが好きだな。面倒じゃね、と千馗は残りのフレンチトーストに意識を向けた。再び横顔だけが絢人に映る。

 暇つぶしで始めた情報屋を、最近では暇を感じていた。
 手繰り寄せる情報をどのようにして与えるか、それだけでも、いっそ滑稽なほどに人は振り回される。絢人自身も「情報屋という副業をしている」という情報で謂れなき被害に遭ったこともある。情報が渦巻く今の時代で人もまた情報でしかなく、人によせる感情というものは摩耗していた……人として終わろうが、花札で隠人という化け物で終わろうが変わらない、と思うくらいに。

 けれど、僕もまだ感情を寄せられるだけの人だったのか。
 欲しい情報をくれる情報屋としてだけでなく、絢人個人を見てくれる人間が、まだいるのか。
 なんだか少し落ち着かない気持ちになるが、悪い気分とは言い切れない。

「……参ったね」

 ふと目元を弛めてこちらを見ているマスターと目があう。
 この人にも敵わないな、と少し上がっていた口元を指で隠しながらごちた。




変わらないけど、わる