3st-07 | ナノ

第参話 七


 コポポポッと踊るコーヒーサイフォンの音。
 チクタクチクタクと進む壁掛け時計の針。

 そんな周囲の音が耳に入るほどドッグタグの中は静かだった、というのはほんの十数秒だったろうか。いや実はただの現実逃避でしかないので、再び現実と向き合うことになっただけである。凄腕の情報屋がいきなり「僕を殴ってくれ」と言い出したらこうもなるってもんだ。
 そして真っ先に現実と向き合ったのは穂坂だった。
「なぐ……え?」

 そうは言っても、その声は困惑に満ちている。殴れと言った男はアクセルがかかったのか頬を少し紅潮させて、穂坂に身体を向けた。

「ああ……唐突な願いだと言う事は十分承知しているよ。ましてや弥紀くんは見るからに可憐な一輪の花、他人に手をあげるなど考えた事もないはず! そうだ、そうに違いない。そんな事はわかっているんだ。だけど、だからこそ僕は君の様な人にぶたれたい!!」
「え、ええと……あの……」

 徐々に詰め寄りはじめた香ノ巣と穂坂の間に飛坂が「ちょっと!! 弥紀にワケのわからない迫り方してんじゃないわよ!!」と割って入った。學園の支配者(ボス)と名乗るだけのある彼女の気迫はすごい。すごいのだが、真性の変態はその更に上にいた。割り込んだ飛坂を見た香ノ巣は「ああ、巴くん!!」と嬉々とした声を上げたのである。

「な、何よ……」
「僕如きの存在で弥紀くんの手を汚したくないという君のその儚い恋情にも似た友情の美しさ!! ならば君が、どうか君が僕を殴ってくれないか!! 冷やかな視線に含まれるその軽蔑のニュアンス。本来なら決して関わりたくないというはずの僕に対し暴力という干渉を行うアンビバレンツ!! ああ……ああ、お願いだ!! どうか僕を……!!」
「ちょ、ちょっと……七代君ッ!! な、何とかしてよ、コレ!!」
「何とかって…」

 まあ、確かに殴り慣れてない穂坂にやらせるのは危険だし、飛坂もすっかり勢いがそがれて恐慌に陥っている。一番喧嘩馴れしていて適任であろう燈治に助けを求めなかったのだから相当なものだ。

 俺は手袋を嵌めた左手に拳を作りカウンターを離れ、香ノ巣との距離を詰めにかかると香ノ巣も俺の意図に気付いたらしい。ぎょっとして一歩退がるが、俺も一歩近づく。

「な、待ちたまえ!!」
「殴ればいいんだろ?」
「誰も君には頼んで――――――ぐふうッ!!」

 黙れ、変態紳士。

 床に沈んだ香ノ巣を見下ろして、正義は勝つ!と宣言したら「お前の何処が正義なんだよ」と燈治がツッコミを入れたてきたが気にしない。女の子二人が変態紳士に襲われているところを助けたんだからヒーローじゃねえか、と俺は恥ずかしげもなくふんぞり返ってみる。

「つっても、殴るのは気持ちよくねえな。やっぱ」

 そう思うとコイツ、ドMじゃなくて新しいドSじゃなかろうか。穂坂が倒れている香ノ巣を覗きこんで「香ノ巣さん、大丈夫かな」と心配そうに呟くと燈治が「千馗も下手はしてねえよ」と答えた。

「けどよ、お前が殴ったら契約は成立しねェんじゃねえのか?」
「穂坂や飛坂に無理矢理させて貰った情報なんてもっと気分悪い。これで成立しなかったら、しなかっただけだろ」
「う……」
「あ、起きた」

 開口一番、意識を取り戻した香ノ巣が「くッ……こんなはずじゃ……」と言った。それが余りにも残念そうな(しかも見た目がやっぱりいい)のでうっかり、悪いことしたかなあ、と仏心出した俺が腕を引っ張って起こすと香ノ巣が殴られるとわかったあの時より驚いた顔をした。

「? どうかしたか?」
「……いや。…………」

 ふと黙った香ノ巣は殴られた頬をてのひらで撫でて「仕方ない」と呟いた。

「……いいだろう。これで契約は成立だ」
「マジかよ……」
「まさか、こんな事が条件だなんて……」

 口々に驚きを露わにする燈治と飛坂に香ノ巣はすっと手を上げて「おっと、それ以上の口出しは無用だ。僕には僕のルールがあるのさ」と制止する。そしてよろめくことなく椅子についた香ノ巣は長い脚を組むと(右頬を少し腫らした状態のまま)莞然として俺たちを見た。

「さて―――それで?知りたい事は何だい?」





 改めてテーブルを移して俺たちは情報屋、香ノ巣絢人と対峙していた。

 四人掛けのテーブルに香ノ巣が、その対面に俺と飛坂が座り、穂坂と燈治がすぐ傍のテーブルに席を取っている。飛坂で言うところの正式な依頼者が俺であるからという理由の配置である。マスターに運ばれた珈琲に口をつける香ノ巣に俺は口を開いた。

「情報を貰う前に一つ、訊きたいことがある」
「訊きたい事?」
「初めての客なんだから質問くらいしてもいいだろ」
「……フフッ、そうだね。僕も興味があるな」
「今回、俺たち四人の依頼っていうつもりで来てるんだけど」

 香ノ巣は目を丸くしたが「君は本当に面白いね」と笑うから、俺も笑みを作る。

「今までそんな事を言い出した相手はいなかったから驚いたけど……いいよ。一人に一つの情報を教えようじゃないか」

 俺と香ノ巣のやりとりにいち早く飛坂が「…なるほどね」と頷くと「じゃあ、あたしから訊いてもいいかしら?」と訊ねた。

「もちろん。美しい人、何なりと」
「そうね、寇聖高校についてなんだけど」
「ほう……。我が麗しの掃き溜め、寇聖高校に興味がおありかな?」

 朱色の襟詰は寇聖高校の証。香ノ巣が着ているとファッションになっていたから気にもなっていなかったが。

「ある野郎の情報が欲しい。嫌味そうな面の眼鏡で、お前と同じくらいの背の奴だ」と燈治が乗り出すのを香ノ巣は一瞥だけして答えた。

「……そんな粗悪な条件じゃ、二十六人は引っかかる。何かもう少し情報はないのかい?」
「恐らくは、相当な弓の名手よ。五十メートル以上先から、小さなカードを射止められるくらいの」
「……美しいお嬢さんたち。彼には関わらない方がいい」
「え……?」
「その男の名は、鹿島御霧―――悪名高き寇聖高校の中でも他の追随を許さない極悪集団、―――鬼印盗賊団の参謀だ。新宿を中心に暗躍している危険な窃盗集団らしい」
「らしい……って、どういう事なのよ」
「いまのところ、彼らの戦果は何一つ、表沙汰になってないという事さ。聡明で美しい人たち、君たちにならわかるはずだ。世界は滑稽な柵(しがらみ)に溢れている。そして、そんな中に醜く絡め取られている悲しき価値あるものは数多い―――」

 比喩が多い上に抽象的な説明に理解が遅れる。穂坂が「え、ええと……?」と眉を下げた。

「あー、つまり、だ。取られても騒げねえ。そんな後ろ暗い物ばっか狙ってるって事か」
「まあ、君にもわかりやすく無粋に言うならば、そういう事だ。普通の人間ならば知りようのない、隠れた美術品を探し出す情報力―――命の危険さえ伴う厳重な警備を物ともしない組織力―――つまり、この件に関する有益な情報はただ一つ、―――鬼印盗賊団に関わるな。それだけさ」

 現代の盗賊団。
 にわかに信じがたいが、洞に現れた眼鏡の男、鹿島御霧がその組織をまとめあげる一人だというなら……いや、封札師を名乗る俺みたいなのがいるんだから盗賊団がいたっておかしくない。

「さて、次は何を知りたいのかな」
「なら、訊くぜ」
「………いいだろう」

 気のせいではないくらいに嫌そうな顔を見せた香ノ巣に「こいつ、一発殴りてェ…」と燈治が青筋立てて引きつらせるのを、どうどう、と宥めて促した。燈治は、最近起こった怪しい事件についての情報を求めた。

「怪しい事件……とは、また漠然としてるね」
「とりあえず、何でもいいから知ってる事を教えてくれ。常識じゃ考えられない―――そういった類の奴だ」
「常識じゃ考えられない……ね。それなら、最近一番怪しいのは鴉乃杜學園だ。幽霊騒ぎに、剣道部の乱―――君らが知らないというなら、話して聞かせようか?」
「ちッ……。他にはないのかよ」

 そう促されて香ノ巣が教えてくれたのは、歌舞伎町辺りにあるビルの4階の窓に矢が射ち込まれたという話で、それが鹿島御霧なのだとしたら獲物は呪言花札かそれ以外か。いずれにせよ俺たちは情報力で向こうに負けている。

 目ぼしい事件がそれ以上ないとわかって、燈治が俺に視線を投げる。わかってる。俺たちが当初求めていた情報はこの二つだった。情報を聞く上で他にも訊ねようと思ったことがあれば香ノ巣に教えてもらうつもりだった。けれど、と俺は今までのことを頭でさらう。

 そのとき、穂坂が「あの、いいですか?」と小さく手を挙げた。

「ああ、もちろんだとも!」
「七代くん、いい?」
「うん。穂坂に任せる」
「ありがとう。さっき、聞いたばかりの話なんですけど、えと……東京…BM…って呼ばれている人がいるんですよね」

 それは富樫刑事が触れた話題だ。なるほど怪しい事件ではないが、刑事が調べていた人物だ。
 そんな人物を知っているあたりさすがは情報屋だろう。香ノ巣は「ああ、東京の夜を舞う正義の味方の事かい? 一部では結構な噂になっているようだね」と軽く頷いた。