俺は今更になって日向輪の危険性に気付きはじめていた。 輪が何を目的に俺を尾行しているのかは知らないが、彼女が落とした生徒手帳のメモに記された内容は心臓に悪いものだった。先生と生徒が同じ屋根の下で暮らしているという外聞良からぬ噂の火種をばっちり握られているのである。しかも(理由はこれまた不明だが)俺は輪に余程恨まれているらしい。 コレらを言いふらされでもしたら―――今や、封札師としてだけでなく鴉乃杜での生活も守りたい俺には頭痛の種になりつつあった。 「こうなったら、その情報屋に輪って子の居場所とか聞くべきか?」 「お前、さっきから何をブツブツと言ってるんだ? もう入るぞ」 燈治がそう言ってドッグタグのドアノブを持とうとしたとき、カランカランとドアベルが鳴って開いた。 店から出ようとした先客も気付いて「おっと失礼」と詫びられ、俺たちも慌てて退く。するとドアを出た女性客が怪訝な顔をした。 「ん? お前たちは鴉乃杜の生徒か」 「なッ……」 息を呑む声。出てきた人物に驚きを顕わにする燈治に、どうした、と問う前に女性客も燈治に気付いた。 しかし感動の再会というわけではなかったらしい。みるみるうちに苦虫を噛むような表情になる燈治に対して、黒のスーツをかっちり着こなしたスレンダーな女性は鋭さのある瞳をそのままに口元だけ弛めた。 「誰かと思えば、壇か。こんなところで何をしてる」 「な、何ってそりゃ、喫茶店で……お茶だよ」 「知り合いか?」 「君は、見ない顔だな」 見ない顔と言われて俺はスーツの女性にわずかに警戒を持ったが、それを一々出すのも賢くない。なるべく自然に自己紹介をすると女性は見分するみたいに上から下まで俺を眺める。 「七代千馗―――か、随分とまた妙な時期に転校してきたものだな」 「……おい。こいつは何もしてねェぞ」 「友人としての証言か? ならばまずは疑ってかかるのが定石だ」 「てめェ……何が言いたいんだよ」 徐々に敵意をむき出しになっていく燈治に飛坂が待ったをかけた。 「ちょっと、落ち着きなさいよ、壇。失礼ですけど、貴方は、一体?」 飛坂の問いに女性はスーツから手帳らしき物を取りだすと俺たちに見えるように開き、「名乗るのが遅れたな。新宿署の富樫だ」と言った。新宿署の、ってことは。 「え……じゃあ、刑事さん!?」 ドラマでしか見た事のない一連の動作に理解が遅れたが、目の前の女性、富樫さんが刑事だとわかって俺も声なく驚いた。ただ飛坂は燈治を知る女性が刑事だと分かると「あー……なるほどね」という納得の声を出したものだから燈治は抗議した。 「おい、何、勝手に納得してんだ。いまはもう、世話になっちゃいねェよ」 「一応、君たちの名前も聞かせてもらえるか?」 「あ……。二人のクラスメイトの穂坂弥紀、です」 「飛坂巴。鴉乃杜の生徒会長を務めてます」 穂坂と飛坂が名乗ると富樫刑事は「そうか。ならちょうどいい」と頷いた。 「つい先日、鴉乃杜でいくつか騒ぎがあったな?」 俺たちは何も言わなかった。いや、正確には視線だけを交わした。 焼却炉の幽霊の噂は生徒たちの間にしかのぼらず、比較的騒ぎが大きかった剣道部の事件も早期解決もあって小さな記事とでしか新聞には載らなかった。富樫刑事は見合わせる俺たちを見る。 「それに関してでも、そうでなくても構わん。最近、この辺りで妙な事件を見聞きした事はないか? 多少、信憑性はなくともいい」 そこまで言われると知らぬ存ぜぬを通すのは無理そうだ。この件全般に関わる俺が最初に口火を切った。 「…又聞きした程度ですけど」 「ほう。では聞かせてもらおうか」 「……そうは言っても、ちょっとした幽霊騒ぎだぜ? いまはもうさっぱり聞かねェし」 「後は剣道部でちょっとしたゴタゴタがありましたけど、内部の話ですから。怪我人も特に出ていませんし」 次いで燈治と飛坂がフォローに入る。嘘は言わない。けどあくまで見聞きできる程度のことを伝える二人に富樫刑事は馬鹿にした風もなく、むしろ真面目な顔で「いたはずの怪我人が、何故か翌日、全員完治して退院したという噂もあるがな」と言うものだからこちらが気まずくなる。 とくに原因不明の完治に覚えのある穂坂は僅かに動揺を見せたので俺が背に庇い、燈治が一歩前に出た。 「おい、もういいだろ。何かぎまわってんのか知らねェが、俺たちには関係ねェよ」 「――…壇」 「……何だよ」 「お前、変わってないな」 「あァ?」 燈治の気迫などもろともせず、むしろ意を得たばかりに微笑むと決定的な一言を言った。 「何かを庇おう庇おうとするときほど口数が増える」 「―――!!」 燈治は口を開けて、しかし何も言葉が出ないようで開けた口を閉じる。今、富樫刑事に燈治をぶつけるのは良くない。そう判断して俺が燈治の腕を掴む前に、背に庇ったはずの穂坂が富樫刑事の前に出た。 「あの、わたしたち、本当に何も知りません。おかしなことなんて、何も……」 富樫刑事は穂坂、そして燈治、俺、飛坂を順繰りに見ると一呼吸置いたのちに頷いた。 「…そうだな、恐らく関係はないだろう。……いまは、な。まあいい。何かあったら、君たちも協力してくれ。《東京BM》だとかいうふざけた輩も徘徊しているご時世だ」 「東京……BM?」 あれ、どっかで聞いた……いや、見たような。けれどそれが何なのか浮かばず、首をひねる。 富樫刑事は「知らないならそれでいい」と答えただけで説明はしてくれなかった。 「とにかく、妙な男の噂を聞いたら情報提供を頼む」 「富樫…刑事にですか?」 「私宛でなくともいい。署に電話するか、最寄りの警官に伝えてくれ」 いきなり突っ込んだ質問をしてくるから身構えたが、そこら辺の対応は真っ当なものだ。 不機嫌、というより気落ちした様子の燈治の背を軽く叩くと「なんだよ」と拗ねたような声を出された。ホント、お前の周りって手強い女の人ばっかだな、と笑えば更に拗ねた顔をされた。朝姉えも見た目はともかく根っこは強いし、牧村先生と飛坂にまで周囲を固められている。そういえば穂坂も見た目通りじゃない時があるから……ある意味モテモテだな! 俺にも少しわけてくれ。 富樫刑事は苛立ったように腕時計を見ると溜息を吐いた。 「まったく、アイツさえ捕まれば話は早かったんだが……。仕方がない。時間を取らせたな。では」 と言ったが、富樫刑事は動かない。どうしたんだ、と思うより彼女の目が一瞬で険しさを増し、 「……坂口ィ!! いつまでタラタラやってんだァ!?」 ものすごい怒声だった。 腹の底から引き出された富樫刑事の声にドッグタグのドアが開き、なかから慌てて若い男が現れる。彼が坂口と呼ばれた富樫刑事の同僚、否、部下だろう。一昔前の警察ドラマの主人公が着ていたような緑のコートを羽織った刑事は粟食ったような表情で富樫刑事に言った。 「す、すんません、花さん、領収書もらうの忘れちゃって―――」 花さんとは富樫刑事の事だろう。そしてそう呼ばれた途端、彼女の機嫌は最悪になった。 「名前で呼ぶなって言ってるよなァ? 坂口巡査?」 「あ、は、はは……す……すいません……」 「いいから、とっとと車回してこいッ!!」 「あ、は、はいィ!!」 もはや逃げ腰で駐車場にかけて行く男に富樫刑事は「まったく……」と呟くとそのまま彼が消えた方向に同じく歩いて行った。そして一台の車が駐車場から通りに出るのを見送ったのち、俺はあの坂口巡査から伝染した緊張から解放された気がして大きく息を吐いた。 「お、…おっかねえ」 「……何か、厄介そうな人ね」 「……まァな。なるべくなら関わり合いにはなりたくねェぜ」 「あ、刑事さんも、もしかして情報屋さんに会いに来たのかな?」 穂坂の一言に俺たちは見合す。確か、噂では情報屋の顧客には警察関係者がいるっていう話だった。 「多分、さっきの…東京BMっていう奴の情報を得ようとしていたのか」 「可能性は大きいわね。って事は、ここにいるのは間違いないワケか……」 警察が頼るということにいよいよ情報屋に対する信憑性と期待が増す。そしてあの気迫はどうあれ、一般人とさして変わらぬ富樫刑事が情報屋とコンタクトをとれるなら、俺たちも話程度は聞けるかもしれない。 「よし、とにかく中に入りましょう」 飛坂に促されてドッグタグのドアを開いた。 「こんちはー。……あれ?」 いつもカウンターにいるはずの隻眼の店主が居ない。先ほどまで客は富樫刑事と坂口巡査しかいなかったようで、店には店主どころか誰もいなかった。 「誰もいないの、かな?」 「いや、そんなはずは……あ」 いや、足元に看板犬であるカナエさんが見上げていた。きちんと足を揃えてこちらを見上げる姿は、マスターに代わって迎えてくれている。カナエさんはくんくんと鼻を鳴らすしぐさをすると立ち上がって店の奥に進み始めた。 「あ、歩き出したよ」 「振り返ったわね……。付いて来い、って事かしら」 「あ、わかった。あの子が席に案内してくれるんだよ、きっと」 穂坂と飛坂は思わぬ小さなウェイトレスの登場に少し興奮気味でついて行く。俺も燈治もはじめての対応に戸惑いつつ、カナエさんの案内に任せて四人用のテーブルに着く。するとカナエさんがメニュー表をくわえて廊下側にいた俺に手渡すと奥へ引っ込んでしまった。 「本当に案内して、メニューまで渡してくれたわね……」 「すごい!! お利口さんだね。もしかして、あの子がフレンチトーストを作ってくれるとか……?」 「お前な、さすがにそれはねェだろ。千馗、何頼むんだ」 「そりゃ勿論、珈琲」 「お前、珈琲好きなのか」 「アンタどうせ、苦くて飲めないとか言うんでしょ」 「ち、違ェよッ」 「うわ……図星」 「へえー、飲めないのか」 確か、牧村先生のとこで出した缶コーヒーは微糖だったし、前回来たときには刺激物がどうとか言って飲まなかった。それらを思い出して納得すると「別に飲めねェとは言ってねえだろ」と燈治は食ってかかるから揄いたい気分にもなったが、富樫刑事との件もあったので話を戻すことにした。 「で、燈治はどうすんだ? フレンチトーストか?」 「あー、フレンチトーストって確か甘いんだよな……。俺はカレーでいいか」 「………」 それはツッコミ待ちなのか? そうなのか? 「ええ、勿体ないよ! このために来たようなものなのに……」 「……違うわよ、弥紀。まあでも、あたしもそうしよっかな。すいませー…!」 飛坂の声が途切れたのを不審がって、通路側を見ると偉丈夫と言って差し支えないマスターが立っていた。しかも四人分の水の入ったコップまで置かれている。 「うおッ、い、いつの間に……」 「……注文、か」 マスターの静かな問いに、呆気にとられていた飛坂の意識が戻る。 「えーと……。フレンチトースト二つと珈琲。あと―――」 「あー……カレーで」 黙々と注文票にペンを走らせるとマスターは「……了解。ゆっくり、していけ」と店の奥に行った。 それを目で追った飛坂がポツリと「只者じゃないわね」と呟いた言葉に俺と燈治は頷いた。 →六 |