3st-01 | ナノ

第参話 壱


 これは夢だ、と気づいたところで醒めやしない。
 夢なのにままならないのは何故だろう。




 ふわふわとした感覚で俺はぼんやりと満天の夜空を眺めていた。少し熱を帯びた夜風に秋を知らせる虫の音が乗って、静かなのに賑やかな気がする。いや、やはり静かだ。誰もここにはいない、と思っていると「もうすぐ秋ですね」と声をかけられた。

 灯りで照らされた顔を見た俺は、なんで、と思ったけれど口から出た声は「そうですね」という一言。

 燭台を片手に現れた彼女は「隣いいですか」と訊いてくるのに、俺が頷くより先に隣に座る。

「明日にはもう終わるんですね。…随分長かったような、けれど短かった気もします。ふふ、こんなことを言ったら彼女に怒られてしまうかしら」

 何が終わるというんだろう。
 わからないのに、漠然とした不安が俺のなかに渦巻く。隣にいる彼女は笑っているのに、何故か笑ってほしくないと思ってしまう。

「貴方は…――…なのか」

 なんで自分の声が聞こえないんだろう。
 でも彼女にはちゃんと聞こえていたらしい。優しくて強い意志を秘めた瞳が俺を見据える。

「変えられない、なんてことはないわ。少しでも変わる可能性は残されているものよ。それが最良の姿か最悪の姿かはわからないけれど、私はそう信じています。だから最後まで彼らと一緒に隣にいてくださいね」

 あなたが運命を変えられるって言ったのよ、と最後に彼女は微笑んだ。
 その言葉に答えようとした瞬間、ザザッと視界が切り替わって一面が真っ赤になる。




 震える手。

 腕に抱いている彼女。


 なんで、……なんでこんなことになっているんだ。


 煌々と周囲との境界線を飲みこむような光の粒が吹き荒れ、その先に二つの影があった。





 身を打つような冷たさを持ち始めた水で石鹸を洗い流す。ふかふかに乾されたタオルで顔を覆った自分を鏡越しに見た。
 そこには血の跡はない。
 瞬間、俺はホッとして……けれど安堵している自分にげんなりした。

 夢を頻繁に見る方ではない。
 しかも、同じような夢を見るとなると更にないから夢見の悪さに俺は寄ってきた眉間の皺を指で揉んだ。

 大体、なんで最後があんなことになるんだ。

 無駄にリアルな夢に安眠を妨害されないにはどうしたらいいかと考えながら羽鳥家の居間に通じる障子戸を開くと、朝姉えの悲鳴が耳を直撃した。

「―――お父さん!! 髪留め、何処かで見なかった?」
「あァ? 洗面台にあったろうが」
「そ、そうだっけ……? あ……やだ、カバンカバン!!」

 慌しく朝姉えが俺の開けた障子戸の隙間から飛び出していく。それを見送って居間に入ると、相変わらず老人並みに早起きの白がちょこんと食卓に着いていた。

「まったく、騒々しい……。いい歳をして、何故、朝くらいまともに起きれんのじゃ。七代よ、其方もいささか起きてくるのが遅いのではないかえ?」
「……別にそんな遅くないと思うけど」
「何を言うか。一日というのは、日の出と共に始まるものじゃ」

 それは年寄りの理屈だってば、と俺は台所に立つ清司郎さんを手伝いに行く。おはようございます、と声をかけると「おはようさん。そこに並んでいるやつを持っていけ」と言われた。
 冷奴の入った小鉢と、大根おろしを添えられたほっけの皿を持っていくと、朝姉えが駆け足で居間に戻ってきた。

「お父さん、ごはん!! は、早く!!」
「七代のだらしなさも、この娘に比べれば、まだましじゃな」
「白、座ってないで箸くらい並べてってば」
「あ、千馗君、おはよう」
「おはようございます」

 皿を食卓に並べたあと、台所に戻ると清司郎さんに「味噌汁入れておいてくれ」と言われた。食器棚から味噌汁のお椀を四つ取り出してお玉を取った。
 味噌汁を入れている間も、居間からは白と朝姉えの声が聞こえた。

「白ちゃんも、早起きなのね」
「…………」
「あら? 白ちゃん、朝ご飯の前に何食べてるの?」
「何を言うておる。妾はすでに食事の最中じゃ」
「食事って……それお菓子じゃない!!」

 え、と手を止めて振り返る。
 横でりんごを剥いていた清司郎さんに呆れ混じりの目を向けられて苦笑いした俺とは反対に、白は堂々と告げる。

「うむ、芋を薄く切って揚げたものだそうじゃな。この《ぴざ味》という奴がねばこくてたまらんのじゃ」
「―――没収」
「な、何をする!!」
「お菓子はご飯じゃありません。見たところ今日の朝食は……白米、ほっけ、ぬか漬けに冷や奴、小松菜の味噌汁に加えてデザートにりんご!! さすがはお父さん。ぬかりないメニューだわ」

 何を言ってんだか、と清司郎さんが小さくぼやく。だけれど、手元で剥かれているりんごはどんどんウサギになっていく。
 か、可愛い…。

「いい、白ちゃん。健康な毎日を送るには、バランスいい食事が大切なの。朝ご飯は一日の始まり。特に白ちゃんみたいな育ち盛りの子には―――」
「―――ふん。其方なぞに指図される謂れはないわ。この……無礼者ッ!」
「あッ、待ちなさい!!」

 ああ…、行っちゃったよ。
 朝姉えの声を無視して白は居間を出ていってしまった。朝姉えは開けられたポテトチップスの袋を持ったまま、はあ、と深いため息を吐くと清司郎さんがリンゴのウサギが並んだ皿を片手に居間に入る。

「……朝っぱらから何やってんだ、まったく。おら、飯だぞ。さっさと食って行け」
「うん…」

 促されて朝姉えは食卓につくがチラリと開かれたままの障子戸を見た。

「……ちょっと、言い過ぎちゃったかな」
「さあな」
「親元を離れて寂しい想いをしてるのに……」
「そうだな」
「あのくらいの歳の子ってやっぱり難しいなあ……」
「そうだな」

 一辺倒な相づちに朝姉えの視線が白米をよそう清司郎さんに向かう。ちょっとの間のあと、朝姉えが再び口を開いた。

「今日はいい天気ね」
「そうだな」
「あめんぼ赤いなあいうえお」
「そうだな」
「もうッ、真剣に考えてよ、お父さん!!」

 清司郎さんは、呆れ混じりに朝姉えの睨みを受けとめた。

「あのなァ、餓鬼の癇癪なんざいちいち構うな。……だろ、七代?」

 味噌汁を配膳に戻った俺に清司郎さんが仰ぐ。そういえば燈治もそんなこと言っていたなあ、と思い出したが、白がポテトチップスに傾倒してしまった責任の一端を担っている俺としては放っておけない気にさせた。
 清司郎さんは見込みはずれだと言わんばかりに眉を跳ねあげた。

「ああ、そうかい。ならお前さんがきっちり面倒見てやれ」
「もう、お父さん! どうしてそういう事言うの。千馗君だって、白ちゃんだって、同じ屋根の下に住んでるのよ? そういうのはもう、家族、って言うんじゃないかしら」

 パシッと音が鳴った。
 清司郎さんが箸を置いた音で、それほど大きいわけではなかったが俺も朝姉えも息を呑んだ。ピリッとした何かを清司郎さんから感じたからかもしれない。

「――朝子」
「な、何よ」
「お前、時間は」
「あ……あああああッ、ご、ごはん!! お父さん、早く!!」
「ッたく…」
「いただきます!」

 朝姉えは時計を見ては慌ててご飯を食べ始めた。味噌汁をお茶同然に飲み込んでいくような食べっぷりに呆気をとられていると、清司郎さんがお茶碗を取った。

「はァ……七代、お前のも、いま用意する。座って待ってろ」
「お、お願いします」