鮮やかで苛烈なほどの赤が視界を埋める。心は酷く揺れて、手の震えが止まらないけれど、血塗れの女を放す気はなかった。 ――なんで……なんでだよッ 俺は叫んでいた。 この腕に抱いている人をこんな風にさせたかったわけじゃない、と後悔の念ばかりが胸を締め付けて涙が止まらない。 「………――、―…」 わずかに動いた女の唇。握り返される手の強さに、ハッと彼女の顔を見て――― あ、これは夢だ、と唐突に気付いた。 「―――い、…―七代ッ!」 「う、わ。ハイッ」 反射的に返事をして立ち上がると、ものすごい形相をした外国語の先生が教壇に立っていた。 「……七代。外国をあちこち飛んでいたらしいな?」 「はあ…、まあ」 「そんな君には私の授業はとるに足らないのだろうが、私が受け持つ以上差別はせん。次の英文を最後まですべて和訳しなさい」 「……えと、どこからですか」 「…69頁からだ」 別冊だよ、と穂坂が小さく教えてくれたので慌てて教科書を開こうとした俺は、先生に苦笑いしながら別冊を開いた。小題は『ロミオとジュリエット』―――悲劇的最期を迎える恋人に、さっきの夢が被ったが……いやいや、やっぱりあり得ない。 それから読み始めた俺はこれ以上もない演技力を持って、ロミオとジュリエットを演じきろうとしたが「…もういい」と先生に言われて呆気なく閉幕となった。 終業のベルが鳴り終わると、飛坂が穂坂を迎えに来て二人は教室を出て行った。その時、一緒に食べようと誘われたけど用事があるからと断って、俺は図書室に向かった。 鴉乃杜での最初の週末を洞での探索で潰す気でいた俺は、なるべく空いた時間を探しては図書室にある鴉乃杜やその周辺の歴史、あとは空振りする覚悟で花札についても調べていた。洞に関してはOXAS経由で伊佐地センセに報告をして、先達の意見を請おうとしたがあまり色よい返事はなかった(ただこれからも定期的に報告を上げるよう指示はされた)。 面倒だけどそこら辺を苦に思わないのは叔父のおかげなんだろう。 あの人は取り出した資料を片っ端から山に積み上げて放置するし、片付けろと怒ったら適当に書架やボックスに入れていくし―――つらつら思い出していたら、手が勝手に目の前の書架に収められている本を番号順に並べていた。 整然と並べられた棚を半歩引いて眺める。ちょっと満足。 「ほお、普段もこれくらい並べられていたら楽なんだけどな」 「わッ。居たんですか、牧村先生」 「随分な挨拶だな、七代。ここは私の城だぞ?」 いつの間にか隣にいた牧村先生が「しかし、七代にはこんな才能があったんだな」と感心した。 城と豪語するくらいなら整理整頓くらいすればいいのに。 「片付けるのは図書委員の仕事だ。が、やるかやらないかはあいつらの気持ち次第だしな。…で、何をしているんだ?」 「いえ、別に」 「そんなに整理整頓がしたいなら私直々に図書委員に入れてやろうか? 楽しいぞ? 毎日整理整頓―――」 「鴉乃杜學園と、ここの土地について歴史を調べていました」 降参の意味で両手を上げると牧村先生は、ほう、と呟いた。ちょっと眼鏡の奥にある目が輝いていたように見えたのは気のせいか? 「まあ、何か面白いことがあったら是非、御講義願いたいね」 「先生の方からアドバイスはないんですか」 「ふふん。何かを聞き出したいなら、それなりのブツを持ってくるんだな」 「生徒からタカる気ですか」 「キミはこの道のプロ、なんだろう? すぐに人の手をアテにするな。碌な大人にならんぞ―――これが愛する生徒への私のアドバイスだ。ためになったろ?」 ニヤッと笑う牧村先生に俺はやりこめられた気がして少し悔しい、と唇を尖らせていたら「牧村先生ッ」と誰かが慌しく入ってきた。 「ああ、よかった! ここに居たんですねッ」 「どうした、朝子」 「先生に確認してもらった資料なんですけど……。あら、七代君。……? どうしたの?」 ぼーっとしてるわよ、という朝姉えの言葉に牧村先生も不審そうに俺を見ていて、慌てた。 朝姉えの顔をじっと見ていた。 「あ、いや。まだちょっと転校生気分が抜けてなくて、アハハハ…」 「そう。焦らなくてもいいわ、先生、相談ならいつでも受けるからね」 「―――……朝子、お前は鈍い奴だな。悩める青少年の気持ちを」 「え?」 「いえ、全っっっく違いますから!」 この場にいたらからかわれるのは必須だ。 俺はお邪魔したら悪いんで、とか何とか言って二人の傍を離れた。 う、わ、やべー……じっと見過ぎてたか。 見ていたことがバレたのが恥ずかしいのか、牧村先生に勘違いされたのが恥ずかしいのか。それともどっちもなのか、俺の頬はカッカッと熱くなっているのがわかって誰も寄りついていない書架に隠れるように立った。 授業中に見ていた夢がリプレイされる。血塗れになって倒れている女の顔が、朝姉えにそっくりだった。細部まで朝姉えと同じだったわけじゃないけれど、本当に一瞬、朝姉えだと思って目が覚めたんだ。 大体なんであんな悲しい内容に朝姉えを登場させていたんだか。 どんな深層心理なんだよ、とプルプル震えていたら―――なんか違和感。 「………?」 「どうした、七代。天井に不気味な染みでも見つけたか」 もう終わったんですか、と現れた牧村先生の方を向くべきかと思ったが、目が天井から逸らすことができない。 「―――何か、いる。みたいな…?」 「………。……まあ此処も古いからな。出てもおかしくはない」 「ぅえッ?」 「おかしな声を上げるな。ここを神聖な図書室ということを忘れたのか? ……まあ、調べるならほどほどにな。私は昼飯を食いに行くから」 「あ、はい」 「…まあ、恋ははしかみたいなもんだ。早まるなよ。相談なら乗って、…やる……から…な……くくっ」 「笑わんで下さい。っていうか、違いますから!」 俺の言い分を軽くスルーして、じゃあな、と牧村先生は手を振りながら去って行った。 うーん、嫌な感じがしたわけじゃないんだよなあ。 放課後、俺は違和感の元を探るために階段を上がっていた。牧村先生に言われたことも気になって四階に戻るときはちょっと不安だったのだが、どうも四階とは違ったらしくて穂坂に訊いてみたら「この上だと屋上だね」と教えてくれた。 古い校舎でも特に立て付けの悪そうな扉を開けると、風が顔に当った。 「へえ、結構……いい眺めだな」 太陽が少しだけ沈みはじめて、ビルの窓ガラスがキラキラ反射している。 下に覗きこんでグラウンドを見たら部活動をしている運動部がいた。事件もあれから何事もなくなったということで教職員や保護者の間で話し合いを持てたので、今日から再開を許可できたと嬉しそうに朝姉えが言っていた。それに完全復帰した宍戸も「完全に元通りというわけにはいかんのじゃが……。あいつらが帰ってきたときに腕落ちていたら申し訳がたたんけェ」と、たまたま廊下で遇ったときに話してくれた。 「………うわ、あったけ。ぬくいなあ」 なんとなく座ってみて驚いた。 コンクリートは陽の温かさをしっかりと溜め込んでいて、なんだかちょういい具合。 見まわしても何もなかったし、少し、ここで寝てみるってのもいいかもな、と携帯電話のアラームをセットしてから俺は瞼を閉じた。 夢を見た。 授業中のときとは違う、寝ているときそのままの心地よさの延長線にいるような。 そっと髪がくしゃりと上げられて………頭、撫でられた? 「ん……?」 なんで今、頭撫でられたなんて思ったんだろ。 ふう、と息を吐いて目を開けると逆光でこちらを覗いている影が見えた。パタパタとはためく袖と少し赤く色づいたふわふわの髪で、ちょっと天使に見えた。言えないけど。 「其方はほんに呑気な奴よのう」 「…あれ? 白だけ?」 「他に誰がおる」 「……白、俺の頭触ったりした?」 「…何じゃと? なぜ、妾がそのようなことをする。頭に虫でもわいたかえ」 コツン、と扇で頭を小突かれた。 「全く、執行者たるものが同じところに居続けておるから何かと思えば、呑気に眠りこけているとはの。まったくいい身分じゃ」 そんな、最初と変わらない憎まれ口だけど、前ほど嫌われていないのはなんとなくわかる。それが嬉しくてニヤニヤとしていたら白が眉間に皴を寄せた。 「何を笑っておる」 ピピピピッと携帯電話のアラームが鳴ったので俺は立ちあがる。 美味しい美味しい清司郎さんの夕飯が待っている。 「いやあ、白に心配してもらえて嬉しいなってさ」 「なッ――何を……。か、勘違いするでないわッ。妾は其方が逃げる企みでもしているのではないかと思うて見に来ただけじゃ!」 「うんうん、そういうことにしておきますか」 「〜〜〜〜〜ッ!! 調子に乗るでない!」 「うわッ、か、鴉はやめろ! 突くな!」 こんなやりとりが何だか昔からのことだったように定着してきている。 そのことがなんだか嬉しかった。 絳色の夢と夕焼けの屋上 「……七代、どうしたその頭」 「気にしないでください…」 横でコンビニのソフトクリームを舐めている白を一瞥した清司郎さんは「あんま、夕飯前に食べるクセつけるなよ」と一言注意すると台所に消えて行った。 |